東京医科歯科大学摂食嚥下リハ
「去年、がんの手術で声を失いました。2度と声を出せないと思っていました。しかし、この機械で声を取り戻すことができました」(東京医科歯科大学摂食嚥下リハ・YouTubeより)
がんの手術で「声を失った」男性が、まぎれもなく「話している」。
そんな不可能を可能にする装置「Voice Retriever」を開発しているのが、東京医科歯科大学の摂食嚥下リハビリテーション分野の戸原玄教授だ。
声を失った人は全国で数万人
Voice Retrieverを開発した、東京医科歯科大学の戸原玄教授。
提供:東京医科歯科大学
「手術で喉(声帯)を切除してしまったような人を、もう一度しゃべれるようにする装置です」
戸原教授は、Voice Retrieverをこう説明する。
健常者は、喉の奥にある「声帯」を震わせることで声を発している。そのため、喉のがん(喉頭がん)などを摘出する手術によって声帯を切除してしまえば、原理的に声を出すことはできないはずだ。日本だけでも、声帯を切除し声を失った患者の数は数万人規模になるという。
もともと歯科医師だった戸原教授。病院で嚥下(飲み込む動作)のリハビリを担当するようになるなか、喉頭がんの患者や気管に穴(気管切開)を開けた患者など、声を出せなくなった患者を多く診てきた。
これまでにも、声帯を切除して声を失ってしまった人の声を取り戻す試みはあった。従来の選択肢は3つ。
声帯を切除して声を出せなくなった人が、声を取り戻す従来の方法。
出典:国立がん研究センターがん情報サービス
電気シェーバーのような形をした「電気式人工喉頭」という装置を使う方法。空気を一度飲み込んでから、吐き出す際に音を出す「食道発声」という手法を訓練する方法。そして、手術によって喉に装置を取り付けることで発声を可能とする「シャント発声」だ。
電気人工喉頭を使う方法では、ひげ剃りのように小刻みに震動する装置を喉に当てながら口を動かすことで発声できる。
しかし、戸原教授は
「音が鳴っている(震動している)部分が体の外にあるのが、不自然だなとずっと思っていました。だから、体の中から音を出すことができれば、もっと自然に聞こえるのではないかと思ったんです」
と、Voice Retrieverの開発のきっかけを語る。
食道発声法も、うまく話せるようになるためにはある程度長い訓練が必要だ。また、上手な人と下手な人の差も大きく、必ずしも誰もが手軽に声を取り戻せる方法というわけではない。
「発生法の練習をする患者会などもあるのですが、そういう会に入らないと練習の仕方が分からないんです。できるだけ簡単にそういった問題をなんとかしたかった」(戸原教授)
シャント発声は、手術という患者への負荷が高い方法である一方で、装置を付けさえすれば発声できる。しかし、戸原教授によると、手術自体が比較的テクニカルで、どの病院でも簡単にできるわけではないという。また、ランニングコストやメンテナンスなども必要になるため、この方法もまた、声を失った人が誰でも簡単に選択できる手法とは言い難かった。
「口を動かすだけ」で、誰でも簡単に声を取り戻す
Voice Retrieverの試作機。マウスピースとスイッチ。
提供:戸原玄教授
戸原教授が開発したVoice Retrieverは、マウスピースの裏側にスピーカーを取り付けただけの非常に簡単な装置。複雑な仕組みや、高度なAIなどが組み込まれているわけではない。
スピーカーは有線で外部のスイッチとつながっており、スイッチを入れることで「あー」「うー」といった事前に録音しておいた患者の「音声」がスピーカーから流れる。再生された音声に合わせて口の形を変えるだけで、比較的簡単に冒頭で示した動画のように自分の「声」で「しゃべる」ことができるのだ。
人間の声は、「声帯」を震わせることで生じた音が、喉や口腔内で共鳴し、舌の動きによってアクセントをつけられることで「言葉」となる。Voice Retrieverはまさにこの「声帯」を「スピーカー」に置き換えただけの簡単な仕組みだ。音源以外は、人間の構造をそのまま活かしているに過ぎない。
「今までなぜ誰もやらなかったのか、というぐらいシンプルだと思います」(戸原教授)
ポイントになるのは、マウスピースに取り付けたスピーカーの位置。音が鳴る部分をなるべく奥の方に持っていくことが重要だという。
例えば、「た行」であれば舌先が口の中に触れていることが発声のポイントになる。一方で、「か行」の場合、舌の「奥」の形が重要になる。
「か行の場合、舌の奥の方で空気を遮断して発音しているので、その部分よりも前にスピーカーがあるとうまく発声できなくなるんです。だから、スピーカーをできるだけ喉の奥に持ってくることがミソです」(戸原教授)
Voice Retrieverを使ってしゃべるにも、ある程度コツは必要だ。しかし、ボタン一つで音声を流すことはできるため、練習が必要なのは口の形だけ。既製品のスピーカーを仕込んだマウスピースを装着するだけという簡単な設計のため、患者の体への負荷も低く、ランニングコストも大幅に削減できるはずだという。
国の予算は「全滅」も、クラファンで2000万円達成
戸原教授が実施したクラウドファンディングのホームページ。最終的には2040万円もの寄付が集まった。
撮影:小林優多郎
戸原教授が、Voice Retrieverの試作品を開発したのは2020年。
「研究室に大学院生としてやってきた山田大志医師に患者の体内で音を鳴らす仕組みを作れないかと打診したところ、一番最初に今作っているものとあまり変わらないものを作ってきたんです」(戸原教授)
試作品の出来に大きな手応えを感じた戸原教授は、次のステップとして実証試験に踏み切ろうと予算の獲得に臨んだ。
しかし、いわゆる国の研究開発費の申請は全滅。数百万円の開発予算があれば、装置を開発し、既存の発声手法と比較する実証試験を進めてエビデンス(科学的根拠)を蓄積していけるはずであるにもかかわらず、資金を得られなかった。
そこで白羽の矢がたったのが、クラウドファンディングだった。
近年、学術界では、研究開発予算を獲得できなかったプロジェクトの資金を、クラウドファンディングを介して得ようとする事例が増えている。
クラウドファンディングプラットフォーム・READYFORの広報によると、READYFOR内での研究系クラウドファンディングの累計支援総額は10億円以上。2018年ごろから、大学と包括提携を締結する大学が増え始めたこともあり増加傾向にあり、2020年1〜12月の支援総額は前年比で約3倍にも達したという。
また、医療系の研究については、2019年ごろから増加傾向となり、支援金額ベースでみると2021年に実施された研究系プロジェクトの約60%にも達しているという。
戸原教授は、9月27日〜11月25日の間、READYFORでVoice Retrieverの研究開発費を募るクラウドファンディングを実施。わずか2日目で量産化に向けた第一目標金額の300万円を達成し、最終的に当初の目標の約7倍となる約2000万円の寄付が集まった。
「より良い声」を求めて
Voice Retrieverを装着した様子。写真の男性は、試作品を作った山田医師。
写真:戸原教授提供
戸原教授は、クラウドファンディングで得た資金をもとに、装置の量産はもちろんのこと、「より良い声」を再現できるように装置の改良を進めていく方針だ。
現状のVoice Retrieverでは、スピーカーから再生する音声のイントネーションがそのまま反映されるため、声に抑揚をつけにくい。また、実際に患者に使用してもらうなかで、どうしてもノイズが気になってしまうなどの課題も出てきている。
戸原教授は、再生する音声の高さを自由に変えられる仕組みを組み込むことで声の抑揚を操れるようにしたり、マウスピースやスピーカーの材料などを工夫することで、より人の声らしい響きを獲得したりと、まだまだ改良の余地はあると指摘する。
「『なんとかしゃべれました』ではなくて、この装置を使うことが楽しい。むしろこれを誰かに見せたくなるくらいになるまでのものにしたいんです」(戸原教授)
また、現状は口の中に入れても安全な電池がないため、スピーカーのバッテリーは外付け。そのため、どうしてもケーブルが必要だ。将来的には、口の中でも安全な電源供給を実現して、無線化などにも取り組んでいきたいとしている。
「先日、患者さんから嬉しいメッセージが届きました。その方は、喉を切除してから話せなくなったことで、まだ小さな息子さんがなかなか反応してくれなくなってしまったそうです。でも、この装置を使って話してみたら、息子さんが大笑いしたみたいです。『息子を笑わせるべく頑張ります』と連絡があったんです。やっぱり、そういうのがいいですよね」
(文・三ツ村崇志)