撮影:千倉志野
JR東北新幹線水沢江刺駅から西へ車を20分ほど走らせた自然豊かな一帯に双子の故郷はある。岩手県南西の内陸部に位置する胆沢郡金ケ崎町だ。
西に奥羽山系の駒ヶ岳がそびえ、水と緑に恵まれた土地だ。山岳部と平野部の1300メートルにもわたる高低差がさまざまな気象と風土を生み出し、多様な産業を育んできた。
米、野菜、花などの農業や広大な牧草地を生かした酪農、大規模な畜産も営まれている。主産業は農業だが、自動車メーカーや部品メーカーなどの工場を誘致し、岩手県内最大の工業団地がある。
母の帰宅が遅れ兄がパニックに
2人が生まれ育った岩手県には、ヘラルボニーの本社がある。百貨店進出の1店舗目にも、岩手が選ばれた。
提供:ヘラルボニー
人口1万5000人ほどのこの町で、兄・翔太(34)と双子の兄弟、松田文登(30)・崇弥(30)は生まれ育った。父は地元の労働金庫に勤め、母は公立小学校の事務職という共働きの核家族。
双子は保育園育ちだ。双子が保育園の頃に両親は一戸建てのマイホームを手に入れたものの、父はその後17年間も単身赴任となり、母が子育てと仕事に奮闘することになる。
小さい頃の兄・翔太との記憶を聞くと、双子が口にしたのは留守番の思い出だった。
自閉症の翔太は毎日決まった時間に決まったテレビ番組を見て、食事の時は決まった席に座り、食べる順番も決まっている。毎日が決まった通りに進まないと翔太の頭の中は混乱をきたす。
時々混乱を引き起こしたのが、母の帰宅時間が遅れるときだった。普段は午後6時に帰ってくる母が、仕事の都合で遅くなると、「お母さん帰ってくる?!!!」とドンドンとドアを叩きパニックになり、不安の矛先を弟たちに向けた。
撮影:千倉志野
「まだ僕らが小2ぐらいだったと思います。小6の翔太は身体が大きくて力が強いので、兄が不安を僕らに腕力でぶつけてきたら、僕らはかなわないんです。
2人で隣の部屋に逃げて、入ってこようとする兄がドアを押し開けるのを必死で抑えていました。母親が帰宅すると、『ごめんねー』って兄をなだめて、泣いている僕らを抱きしめるみたいなことが時々ありました」
文登が振り返り、崇弥がうなずいた。
兄に立ち向かわなくてはならない幼い双子の結束は自ずと強くなる。かと言って、兄を嫌いだと思ったことはないという。翔太と双子には言葉の要らないコミュニケーションの方法があった。
翔太は口にする言葉の数は少ないが、言葉を使わなくても、顔と顔を近づけて、互いに「ん〜」と言いながらにこーっとする。それで通じ合えた。大事だよ、好きだよ、という気持ちを伝え合うのはそれで十分だった。
「おまえ、スペじゃねえの?」
寄り添いあう松田兄弟だが、双子が中学生の時、翔太(写真中央)との間に溝ができたことがあった。
提供:ヘラルボニー
中学のある時期から双子と翔太の間に距離が空き始めた。
双子は卓球部に入り中2の時には県大会の団体戦で1位を獲るほどに打ち込んだが、クラスに存在するスクールカーストの中で居場所を確保するのは死活問題だった。
カースト上位者や取り巻きたちは「スペ」という言葉を流行らせた。自閉症スペクトラムをもじったこの言葉は、うっかりへまをしたときに「おまえ、スペじゃねえの?」のように使われた。さらに、兄・翔太の対人コミュニケーションの苦手さをネタに「翔太イム(ショウタイム)!!」と、たちの悪いからかいまで受けた。
心の中は憤りと悔しさで爆発しそうだったが、カースト社会で生き残るために双子は彼らに迎合した。一旦、笑う側に加わると2人は兄を遠ざけるようになる。運動会に両親が兄とともに応援に来ると、昼休みに一緒に弁当を食べることを拒否し母を激怒させ、休日に家族で出かけたときには繁華街を翔太と一緒に歩くのを嫌がった。
翔太の方も2人を拒絶するようになり、賑やかだった松田家は、1階で翔太と母、2階で双子が生活し、断絶状態となった。さらに、2人が「今だから言えるとことですけど」と話すには、髪を金髪に染め、夜中に家を抜け出すこともあったという。
高校受験では卓球推薦を取り消され、滅多なことでは落ちないと言われている高校に2人揃って不合格となった。やっと入学できたのは、南北に細長い岩手県の最北端、自宅のある金ケ崎町から200キロも離れた九戸郡洋野町にある、卓球強豪の県立高校だった。
兄の存在隠さず。福祉が視野に
2人の出身である岩手県立大野高校は、全国大会に出場することもある卓球の強豪校だ。
提供:ヘラルボニー
最寄りのコンビニまで車で20分という人里離れた地域にある学校で、学生寮での生活が始まった。事実上、社会から隔離されたような場所だ。打ち込むものといえば卓球しかない。頭髪は丸刈りが規則の軍隊のような部活で2人はインターハイを目指した。息抜きは好きなヒップホップを聴き、ファッションをキメること。
救われたのは、知的障害や精神障害のある人を「欠落」と見る人たちがいなかったことだ。
「環境が変わったら、いつの間にか兄貴を隠すという感情はなくなって、周りに対しても、だんだん自閉症の兄貴がいることを言えるようになっていきました。新しい環境で僕らが変化していくのと比例するように、兄貴との関係も元に戻っていました」(文登)
この頃の崇弥はスプレーアートを描くことに楽しさを見つけていて、グラフィティ作品を描いてはmixiの掲示板に投稿していた。「うまいね」「Dope cool!」などの手応えがうれしかった。
そんな時間を過ごすうちに、クリエイティブな世界への憧れから崇弥は美大への進学を考えるようになり、関東から洋野町に移住していたイラストレーターに指導を受けた。筋は悪くない、一浪すれば東京の美大もいけるかもしれないと言われ、真剣に受験を考え始めた高3の秋、山形市にある東北芸術工科大学を知り、オープンキャンパスに参加した。
目当てのデザイン工学部グラフィックデザイン学科の説明会に参加したあと、「企画構想学科」という耳慣れない学科を見つけ、話を聞くことにした。そこで、学科長で脚本家・放送作家の小山薫堂の「企画ができると、デザイナー、イラストレーター、イベンター、カメラマン、いろんな職種の人たちが集まってくる」という言葉に雷が落ちたような気持ちになり、崇弥は進路を決めた。このときには将来は福祉の仕事がしたいと漠然と思い始めてもいたという。
同じ時期、双子の兄・文登はノートにこんなメモを記していた。つい最近、母が実家にある荷物の中から見つけ出したものだ。
- 将来、障害者が働いて十分な賃金を得られる施設を創設したい。
- 現状では、障害者が働く場は箱折り、タオル詰めなど賃金が低いものが多い。
- これではいつまでも能力が身につかない。
- もっと力を発揮できる機会<場>が必要。
文登の場合、将来は知的障害や精神障害のある人のための施設をつくりたいという思いと進路選択は直結している。文登は障害のある人が経済的に自立するためにはどういう仕組みが必要なのかと考え続けていた。兄が福祉作業所で紙箱を折るなどの作業の仕事をしていた姿が頭にあった。
そのため、福祉と経済が結びついていく部分を勉強したいと考え、東北学院大学経済学部共生社会経済学科に進学した。経済学と多様性からなる社会の実現の両方を学ぶ学科で、フィールドワークでは高齢者問題、子育て環境、自然環境、多文化共生など、幅広く実践的に学ぶプログラムが用意されているユニークな学科だ。
なぜ、兄を隠さねばならなかったのか
撮影:千倉志野
中学の頃の双子には、兄を遠ざけなくては生き残れないという恐怖にも似た思いがあった。だが、そのことでいちばんつらい思いをしたのは兄・翔太だということもわかっていた。
兄への罪悪感は2人の内側に残り続けた。
なぜ、集団社会で生き残るために自分たちは翔太の存在を隠さなくてはならなったのか。集団社会が自分たちにかけてきた圧力の正体は何だったのか。
圧力への恐怖から解放されると、2人はいつの間にかそのわけを考えるようになる。それがヘラルボニーの発芽につながっていく。
「中学時代に隠さなきゃいけなかった体験は、間違いなく今のヘラルボニーに反映されていると思う。ただ、差別や偏見はダメだよと言うのではなく、こういうアートというリスペクトが生まれる世界を通して、差別や偏見の根本を問いたいという思いになったんだと思う」(文登)
そうして福祉と関わる将来像を少しずつイメージしていく。
(▼敬称略・第3回に続く)
(▼第1回はこちら)
(文・三宅玲子、写真・千倉志野)