障害のあるアーティストたちと上場目指す。「支援ではなく自分が主役」【ヘラルボニー3】

ヘラルボニー_松田崇弥・松田文登

撮影:千倉志野

雪の降り固まった山形の東北芸工大学キャンパスで卒業制作展が開かれた。

2014年1月のことだ。双子の弟、松田崇弥(30)は兄・翔太の日常を収めた映像「常識展」で「学科長賞」を受賞。卒業後は学科長で脚本家、放送作家の小山薫堂が経営する企画会社、オレンジ・アンド・パートナーズに就職した。

双子の兄、松田文登(30)は高校時代に引き続き、進学した東北学院大学でも卓球に打ち込んだ。そして、将来は双子のどちらかに岩手に戻ってきてほしいとの両親の希望に沿うため、地元岩手県盛岡市のゼネコンに就職する。

3年で営業成績1位の文登、自信喪失した崇弥

小山薫堂とヘラルボニー・松田崇弥

学生時代からの師である小山薫堂(写真左)と崇弥。就職に伴って崇弥は上京し、文登は大学時代を過ごした宮城から岩手に戻った。

提供:ヘラルボニー

偶然なのだが、その会社の名前は「タカヤ」という。文登は住宅販売の営業職に配属された。営業社員の評価は「どれだけ売り上げたか」で決まる。多くの人にとって家は人生で最も大きな買い物だ。それを大学を出たばかりの文登が売るのだ。

文登は負けず嫌いだ。「営業で1位になる」に激しく執着した。自分より年上の人に一生涯の買い物を自分に任せようと思ってもらえるためにはどうしたらいいかを考えた。

手書きで手紙を書き、電話は誰よりも早く、また、メールのレスポンスは絶対に待たせない。自宅を訪問したら一緒に酒を飲み仲よくなる。中には泊まらせてもらう関係になった客先もある。そして3年目の25歳で営業成績1位を達成した。大型建築の部署に異動してからは震災復興事業に携わった。

崇弥はというと、初めての東京で、小山から紹介された六本木の古いマンションを友人とシェアし、大都会・東京での生活が始まった。そのマンションには小山自身が20代に暮らしたことがあり、神谷町のオレンジ・アンド・パートナーズから歩いて帰れる距離だった。

「若いうちは、都会に住めば住むほど面白い体験ができる」と小山に教えられてのことだった。夜中まで先輩について仕事に右往左往し、「学科長賞」を受賞したささやかな自信はあっという間につぶされた。本人曰く—— 。

「大学では憧れの薫堂さんのもと、見よう見まねでCMの絵コンテを描いたり広告のコピーライティングを考えたりして、勉強が楽しくてたまらなかったし、尊敬する先生の会社で働かせてもらえることになって、有頂天になっていたと思います。

それが、入社したら作成する資料はほとんどやり直し、毎日のようにロジックが意味不明だと怒られ、提出する企画書はどれも先輩がびっしりと書き込んだ赤字で真っ赤になって戻ってくる。自分が会社に存在していることを実感できるのは、イジッていただいているときだけでした」

あきれた上司から、深夜、一体何がやりたいのかと詰められ、「福祉の仕事がしたいんです」と泣きじゃくり、「じゃあ会社辞めれば」「いえ、やめません!」と言い合いになったこともあった。

完全に自信をなくした。自分はどうしたら人の心を動かせるか。悩んだ末に、崇弥は全てにおいて誰よりも早く反応することで存在意義を示そうと思った。メールの返信、会食中の目配り、二次会の予約を済ませる、先輩の重たい荷物を持ちたいと意思表示すること—— 。泥臭いことでしか自分の存在を示すことができないと思った。

母親に誘われてるんびにい美術館を訪ねたのは、東京のクリエイティブ業界で右往左往のまっただ中にあったそんなある日のことだった。

会社を辞めたものの仕事は選べなかった

パナソニックが運営するインキュベーションオフィス・100BANCHに入居したヘラルボニー

パナソニックが運営するインキュベーションオフィス・100BANCHに入居したヘラルボニー。多様な起業家たちとの交流があったと話す。

提供:ヘラルボニー

会社勤めのかたわらでのソーシャルプロジェクトによる試用運転期間があったことは第1回で記した通りだ。

試用運転を経て最初に「会社を辞める」と言い出したのは崇弥だった。オレンジ・アンド・パートナーズでこの企画をやらせてもらうことも考えなくはなかったし、先輩に相談してみたこともある。ところが「(自分たちの企画を)オレンジに提案してもいいかな?」と話すと、文登が反対した。そのときの気持ちを文登はこう振り返った。

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