行政院のオフィスで母の著書『成長戦争』を手にするオードリー・タン氏。
筆者撮影
オードリー・タンといえば、台湾のデジタル担当大臣として日本をはじめ、世界的に有名な存在だ。IQ180ともいわれるギフテッドとしても知られており、子育て中の読者なら「そんな天才をご両親はどうやって育てたのだろう」と気になるかもしれない。
ここに、新聞記者として活躍したオードリーの母・李雅卿(リー・ヤーチン)がオードリーを育てた日々について綴った幻の手記がある。台湾で20年以上前に発売され、瞬く間にベストセラーとなったものの、現在は絶版となっている『成長戦争』という本だ。本書には、「天才を育てる」という言葉からイメージされる華々しさとは大きく異なる壮絶な日々が綴られている。
筆者は他ならぬオードリーからこの本の存在を教えられ、その内容を日本の読者向けに紹介した書き下ろし著作『オードリー・タン 母の手記『成長戦争』——自分、そして世界との和解』を上梓する機会に恵まれた。
李雅卿は、オードリーが小学2年生のころに仕事を辞めるまで、ジャーナリストとして業界にその名を轟かせた人物だ。なぜ彼女は、やりがいを感じられる仕事を捨て、子どもと向き合うことに決めたのか。私たちも日々選択を迫られている「子どもと仕事の優先順位」について、李雅卿の考えから学んでみたい。
主流の教育とは相容れない我が子
オードリーは生後8カ月で言葉を話し始め、1歳半で歌の歌詞をすべて覚えて歌ってしまうほど記憶力が優れていた。
飛び抜けた才能の持ち主であることはその成長とともに明らかになっていく一方で、幼稚園に入学して団体生活が始まった頃から、それまで順調だった歩みが乱れていく。主流の教育に相容れないオードリーは、3つの幼稚園、6つの小学校、そして中学校1年間だけと、10年間で10の幼稚園と小学校に通っている。
小学校入学時に行われたIQテストで一番になったオードリー。平均値に沿って統一されるよう設計された団体教育でその強烈な知識欲は満たされることはなかったし、当時の台湾では教師による生徒への体罰が横行していた。中には「叩くことでこそ子どもをしっかりしつけられると勘違いしていた」保護者たちもいて、保護者会で我が子を叩くよう教師に願い出る者までいたという。
ちょうどその頃、成績優秀な生徒だけを集めた「ギフテッドクラス」が小学校に設けられ、オードリーも小学2年生からそのクラスに身を置くことになった。
これで少しは状況が良くなるかと思っていた李雅卿だったが、結果はその逆。成績を比較してばかりの保護者に影響され、子どもたちは互いに嫉妬してばかりいた。クラスで一番になれないと父親から体罰を受けていた生徒が、オードリーに向かって「お前が死んだら僕が一番になれるのに」と言い放つほどだった。
体罰や生徒同士の嫉妬などは幼いオードリーを追い詰めていき、次第に自殺願望を持つようになっていった。
業界に名を轟かすジャーナリストだった母
大学院在籍時に結婚し、夫とともに『中国時報』という新聞社で記者として働き始めた李雅卿は、新聞記者の花形である取材班の副主任という、責任もプレッシャーも大きい中間管理職に就いていた。同紙は2008年に旺旺グループに買収された後に親中派メディアの道を歩み出しているが、彼女が在籍した1980年前後・創業者の余紀忠(ユー・ジーチョン)の時代には、比較的リベラルな報道をしていたことで知られている。
また、戒厳令が解除される前であったから、報道の自由も制限されていた。台湾では1948年から88年までの40年間、新たな新聞社の設立が制限され、既存の新聞も紙面を増やしてはならないという禁令「報禁」が敷かれていた。
報道や言論の自由が大きく制限されていた時代、李雅卿は志あるジャーナリストとして社会運動や環境保護活動を取材し、台湾の民主化を報道面から支えていた。情報操作が行われる状況下での取材では、相手から提供される情報はいつも偏っていたが、時間に追われ、専門知識も足りていない状況下で、記者がニュースを判断したり検証するのは非常に困難だったという。
李雅卿は「この仕事は深淵に向き合い、薄氷を踏むような、非常に神経を使うものだ」としながらも、「挑戦度が高く、幅広い層の人々に触れられるこの仕事は、実に魅力的だった」と、そこに大きなやりがいを感じていた。
それでも、主流の教育とは相容れず、命の危険にさらされていた幼いオードリーを救うため、李雅卿は新聞社を去った。
「私は本当にジャーナリストの仕事を愛していたが、最終的には子どもを育てるために、離れることを決意した」
オードリーに本の読み聞かせをする母・李雅卿。オードリーは児童向け百科事典『漢聲小百科』がお気に入りだったという。
提供:唐光華/オードリー・タン
そこにあったのは、李雅卿が自身の両親から受け継いだ価値観だった。
オードリーや、その弟という2人のギフテッドを育てた経験から、後に李雅卿はオルタナティブ教育を実践する学校を設立するのだが、教育者となった李雅卿はこのように語っている。
「今、私が子どもたちを指導する日々で思うのは、親の責務とは『子どもに学習環境を提供すること』と、『すべての仕事にしっかりと向き合うこと』だということだ。勉強は彼ら自身に任せれば良い。今後、それぞれの子どもが何を学び何を学ばないか、多く学ぶか少なく学ぶかは、生まれ持った個性や適性によるものなのだから、強制してはならない。このような受容と支持という基本条件があってこそ、子どもは自分らしさを見出し、自分のための人生を送ることができる」
「教育とは実のところ、子どもが世界を理解して自分自身を受け入れ、自己の価値観を確立し、変化の激しい世界でもやっていけるようサポートすることにほかならないのだ」
両親のどちらが仕事を辞めるか、家庭投票で決定
父・唐光華と幼少期のオードリー。
提供:唐光華/オードリー・タン
オードリーの父・唐光華(タン・グアンホア)もまた、大学院在学中から新聞社で『中国時報』の記者として活躍した後、23年間同紙の副編集長を務めた。民主的な思想を持ち、「美麗島事件(1979年)」など、戒厳令解除後の民主化におけるさまざまな歴史的事件を報道し続けた。
そんな両親のもとで育ったオードリーは、学校で知識欲が満たされず、家庭でたくさんの質問をしてくるようになった。
数学や哲学上の問題は唐光華に助けを求めたりしながら初めの方は夫婦でなんとか答えていたが、だんだん手に負えなくなっていく。夫婦ともに忙しいので、かまってあげることができない。どこどこの何を見に行きたいと言われても「今度連れて行くね」と言うことしかできなかった。
不満を募らせたオードリーは、弟とともになんとかして李雅卿を家に戻そうと企み、会社に行かないでと大泣きしたかと思えば、出勤したタイミングを見計らって会社に電話をかけてくる。
李雅卿はこう記している。
「私たちはまず家庭教師を付けたが、それでもだめだった。私は光華に『私たちのどちらかが家にいて子どもを見るしかなさそうね』と言うしかなくなった。
誰が家にいることにするかを投票で決める家族会議が開かれ、私に3票が入り、光華は自分に1票入れた。光華は私が子どもを溺愛しすぎていると思っていたし、自分の方が理性的だから、私よりずっと良く面倒が見れると思っていた」
ここで当然のように母親が仕事を辞めることにならず、家族による投票が行われるところが、この家族の素晴らしいところだと思う。この点について、唐光華は私のインタビューにこう答えてくれた。
「私は様々な知識を教えてあげられるから、自分で面倒が見られると思っていたんですね —— もちろん子どもの面倒を見るには知識の啓蒙だけでなく、食事の支度などもしなければならないわけですが ——。
ただ私と妻に共通しているのは、一度子どもを持ったのなら、自分より子どもの幸せを最優先に考えるということです。必要があれば仕事を犠牲にするのも、やはり次の世代を優先して考えているからです。2人のどちらかが仕事を辞めても、生活をシンプルにすれば、なんとかやっていけますからね」
子どもと仕事の優先順位
『成長戦争』の発行人・金惟純(ジン・ウェイチュン)は、『中国時報』でチーフライターを務めた後に経済誌『商業周刊』を創刊した、唐家とも縁の深い人物だ。唐光華の良き友人かつ同僚でもあった彼は、当時大学院生で唐光華と結婚したばかりの李雅卿を『中国時報』の記者職に誘い、自分が創刊した『商業周刊』の副編集長に迎えるほど信頼していた。
『成長戦争』巻頭の寄稿で金惟純は、李雅卿のことを「新聞界にその名を轟かす存在でありながら、完璧な良妻賢母である」と褒め称えているものの、李雅卿が家庭で何が起きているかを周囲に全く話さず、ただ「息子が私を必要としている」とだけ言い残して去っていった時のことをこう綴っている。
「彼女がすることは正しいはずだと思いながらも、心の中のどこかで『子どもを甘やかしすぎていないか』という気持ちがあった」
一方で、当の李雅卿はしっかり心が決まっていたことが、このような言葉から伝わってくる。
「私は辞職する時、引き留めようとする同僚にこう言った。
『見てなさい、私が辞めてもこの職位はすぐに誰かが埋めてくれる。私がいなくても新聞社は倒産しないけれど、2人の子どもの面倒を見る人は私しかいない。どうする?』
『もし主流の価値観に相容れる子どもを持ったなら、私も皆のように仕事と家庭の両方を見ることができたのかもしれない。でも私の息子は違った。彼は入学したとたんに主流の価値観と衝突した。彼の人生を賭けて。母親が家庭に戻って彼に付き添う以外、選択肢はないの』と」
李雅卿にしてみれば、自分が「家族1人ひとりが家庭を支える」という価値観を持つ家庭で育ったことが大きく影響していたようだ。『成長戦争』には、その価値観が培われる過程がたっぷりと描かれている。李雅卿の母親は、父親が仕事で停職処分を受けた期間、1人で家族5人分の生活を支えたこともある。李雅卿が精神的に自立しているのと同じかそれ以上に、彼女の母親もかなり芯のある人物だったことが伝わってくる。
ここに、李雅卿の価値観がよく表れている一文がある。
「仕事を持つ母親が子どものために職を辞するべきかどうか、多くの人々と話をしてきた。私は、誰もが心の中に自分だけのバランスを持っているように思う。権威や富が大事だと思う人もいれば、国や民が大事だと思う人もいるし、自分の達成感を大事にする人もいるだろう。私と母は、子どもの人生が大事だと考える、ただそれだけのことだ」
「自分はこの道をゆく。これ以外に選択肢はない」と、他の誰でもない自分自身に言い聞かせられる強さが必要になる時が、人生にはあるのだろう。
「母は強し」という言葉ができて久しいが、決して母になった瞬間から強さが備わっているわけではなく、人の親になるために、必要に迫られてたくましくならざるを得なかった、その結果に過ぎないようにも思える。
オードリーは当時を振り返って、こう語ってくれた。
「誰かに自分の感じたことを肯定してもらうのは、とても大切なことです。人間の感情はとても複雑で、すべてを言葉にして話したり書いたりすることは難しいからです。
だからこの頃の私には、どんな経験をしてどんなことを感じたのかを、うまく言葉にできなかったり表現できなかったとしても、ただ、『あなたがそう感じたのは、本当のことだ』と言ってくれる人が必要でした。感じたことを否定されないことでこそ、私の感受性は少しずつバランスを取り戻すことができました。
もしずっと否定されていたら、私は外の世界とコミュニケーションが取れなくなってしまっていたでしょう」
「だから、母親が私の感情を肯定しようとしてくれたことは、とても素晴らしいことでした」
(文・近藤弥生子)
近藤弥生子:1980年生まれ。編集・ノンフィクションライター。明治学院大学法学部卒。東京の出版社で雑誌やウェブ媒体の編集に携わったのち、2011年2月に台湾へ移住。現地デジタルマーケティング企業で約6年間、日系企業の台湾進出をサポートする。2019年に独立して日本語・繁体字中国語でのコンテンツ制作を行う草月藤編集有限公司を設立。著書に『オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと』(ブックマン社)のほか、2021年11月にはオードリーの公認を受けた『オードリー・タン 母の手記『成長戦争』 自分、そして世界との和解』(KADOKAWA)を上梓。
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