ハンブルクにあるスタートアップ企業のためのコワーキングスペース「ファクトリー・ハマーブルックリン」。
(C)Factory Hammerbrooklyn
シリコンバレーという土地は、アップル、マイクロソフト、グーグルなど数々のテックジャイアントを輩出してきた。2021年12月時点で世界時価総額ランキングトップ10のうち、実に7社がシリコンバレーで創業している。
一方で、その肥大化した存在に対しては懸念と批判の声も上がっている。市場を独占し、ユーザーのプライバシーを元手に莫大な利益を得るやり方は果たして健全な姿と言えるのか、と。
そのアンチテーゼとして、ここ数年で新たな「スタートアップの聖地」として注目されているのがドイツ・ベルリンだ。
ベルリンのスタートアップ・エコシステムは今や369億ドル(約4兆2200億円)もの価値に達している。この地から生まれるスタートアップ企業はグリーン経済に関連したものが多く、シリコンバレーとは明らかに異なるエコシステムを形成している。
なぜ今、起業家たちは続々とベルリンへと向かうのか。彼らはどのような社会の実現を構想しているのか。ベルリンに7年住み、その独自の起業家精神が宿る環境を内側から見てきたメディア美学者の武邑光裕氏に解説してもらう。
スタートアップの首都ベルリン
ベルリンは、年間約4万の企業登録と、年間500以上のスタートアップ企業を擁し、間違いなく欧州のスタートアップ首都となった。
この街は、フィンテック、ブロックチェーン、イーサリアムとNFT(非代替性トークン)、ESG(環境・社会・ガバナンス)とソーシャル・インパクト分野の首都でもある。
ベルリンのランドマーク、ブランデンブルク門。ここからベルリンの壁崩壊が市民に伝えられた。
撮影:武邑光裕
活発な投資環境に加え、年間400を超える文化芸術とテック系イベント、そしてテクノ音楽シーンを主導するクラブ文化は、スタートアップシーンの重要な情報交換の場として機能している。そして市民の7割が英語を話す国際的な環境は、起業家が彼らのビジネスアイデアを現実に変えるためにベルリンに行きたいと思う理由である。
国際的な大都市でありながら、比較的低コストでの高水準の生活、魅力的な文化環境に恵まれ、子育てにも適した場所である。これらのインセンティブに加え、ベルリンを最も際立たせているのが、この街が担ってきた個人主義の尊厳、つまり全体主義に抗う精神なのだ。
ベルリンのクラブ文化は、東ドイツ時代の発電所を改装したベルグハイン、そしてもうひとつ、やはり発電所を改築したクラフトヴェルクが巨大な空間を誇る。写真はクラフトヴェルクで毎年夏に開催される電子音楽とテクノの祭典、ベルリン・アトナールの模様。
Berlin Atonal 2017 (C)LCC-Hlge Mundt
壊れたインターネット
1989年、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)を発明した英国のコンピュータ科学者のティム・バーナーズ=リーは、最近、「インターネットは壊れてしまった」と発言し、問題の深刻さを指摘した。
1990年代初頭、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)は人々が互いにコミュニケーションをとり、情報を入手する方法を変えた。原則として、インターネットは誰のものでもないため、もともと分散型に編成されていた。
その後ウェブは、2005年以降Web2.0に進化した。ソーシャルメディアとeコマース・プラットフォームの出現は、ユーザーの生活を便利にし、人類史上初めて、仕事、買い物、社交、娯楽は、物理的な場所に限定されなくなったのである。
しかし、大規模なプラットフォームはユーザーのデータを完全に制御でき、独自のルールを設定して、誰がどのサービスをいつ利用したかを正確に追跡できるため、プライバシー保護などに問題が生じてきた。気がつけば私たちのプライバシーは、企業の所有物になっていたのである。
一元化されたアーキテクチャは、プラットフォーム経済で普及していたため、インターネットの初期の夢が望んでいなかった不都合な点をもたらしてきた。現在のインターネット・プロトコルは主に企業によって定義されており、このため、セキュリティとID(プライバシー)の重要な領域に関する基準はほとんどない。グーグル(Google)、フェイスブック(Facebook)、アマゾン(Amazon)などの企業が巨人になることを可能にしたのは、これらの基準の欠如だった。
ベルリンの台頭
大規模プラットフォームは、世界中のユーザーからデータ・プライバシーを抽出することで、ユーザーの行動履歴や嗜好性を把握し、追跡広告(ターゲティング広告)という金鉱を探り当て、莫大な利益を手に入れることができた。
だが欧州連合(EU)は、シリコンバレーを中心としたこのような大規模なプラットフォーム企業の隆盛を、技術的全体主義として批判し続けてきた。
それは単なる利益の追求だけでなく、監視資本主義という名の個々人の意識統制をも可能としてきた。ベルリンの欧州議会議員が主導し、2018年5月、EUにおいて施行された一般データ保護規則(GDPR)は、世界に先駆けて個人にデータ・プライバシーの主権を取り戻す画期的な法律だった。
ベルリン市内に残る壁の時代のデスストリップ。東西ベルリンの両側の壁は、逃亡者を監視するための中間地帯を設けていた。ここで西側に逃亡する市民の多くが射殺された。
撮影:武邑光裕
ベルリンの壁崩壊から33年、東西ドイツ分断と監視社会の恐怖を体験してきたベルリン市民にとって、シリコンバレーのプラットフォーム経済とその技術的全体主義は、ナチズムを生み出した過去の悲劇と重なり合うものだった。
ベルリンが欧州最大のスタートアップ都市に成長した背景には、世界市場を独占する大規模プラットフォームへの反旗の精神があった。
世界がシリコンバレーをスタートアップやユニコーン企業の聖地として認識していた2010年代初頭、ベルリンは明らかにシリコンバレーとは異なる理念のもと、世界市場の制覇よりも地域や市民が必要としている等身大の企業価値や、何より「主権を持つ個人」を追求し始めていた。
主権を持つ個人とWeb3
今から26年前の1996年に、『Sovereign Individuals: Mastering the Transition to the Information Age(未訳:主権を持つ個人——情報化時代への移行を極めるために)』と題された著作を世に出したジェームズ・デイル・デビッドソンとウィリアム・リーズ・モグは、デジタル時代の正確なロードマップを提示した。この本が今でも読み継がれ、特に暗号コミュニティの間では、目指すべき社会構築の指標になっていることは特筆すべきことである。
ベルリンの壁の崩壊は、社会主義の終焉をもたらしただけでなく、現代の国民国家の衰退をも予告した。なぜなら、国家は、サイバースペースで通信し、グローバルレベルでデジタル通貨を用いて取引できる市民を管理下に置くことができないからだ。
情報化時代の人々は、世界中のどこにいても生計を立てられる「主権を持つ個人」になるとデビッドソンとリーズ・モグは予測した。さらに彼らは、「情報技術は歴史上初めて、単一の政府の領土独占の範囲を完全に超えた資産の生成と保護を可能にする」と指摘し、現在の暗号通貨やインターネット上の国家の出現をも予告していたのである。
ここで重要なのは、現在起きているデジタル変革の推進要因が、国家の力の独占を衰退させ、個人主権に基づくグローバルな経済を可能にする新しい暗号化技術にあるということである。このトレンドを推進するのが、主権を持つ個人であり、Web3が目指す自己主権型技術の可能性である。
ブロックチェーンの本質
ブロックチェーンは、中央のプラットフォームや仲介者を必要とせずに、分散化された方法でユーザーのIDを検証し、個人データの安全な交換を可能にするため、「壊れたインターネット」問題を解決する可能性がある。
もちろん現状のブロックチェーンには、莫大な電力消費問題による環境負荷をめぐる批判軸もある。しかし、近年、プルーフ・オブ・ステーク(PoS)というアルゴリズムの開発により、この電力消費問題を解決できる可能性が高まっている。
ブロックチェーンの膨大な電力消費の理由は、ビットコインだけでなく、イーサリアム、ダッシュ、ZCashなどのマイニングで使用される「プルーフ・オブ・ワーク」というメカニズムに起因する。ただし、PoSなどの代替アルゴリズムの登場により、以前のような大量の計算(電気)を必要とせずに、分散型データベースのセキュリティを確保できるとされている。
ブロックチェーン技術は、多くの業界を根本的に変える可能性がある。特にエネルギー分野では、この技術が新たなビジネスの鍵となることがドイツでは実証されており、ベルリンの大手インフラ企業(電気、水道、ガス、公共交通、ゴミ処理など)が協働で、スタートアップとの連携を強化する業界横断的な新規事業の開発拠点「インフラ・ラボ」などを整備している。
今後、分散型エネルギーシステムを簡素化し、需要と供給のバランスを取り、電気自動車の充電プロセスと請求を自動化し、グリーン電力の信頼性を保証するための努力は続いていくだろう。
ベルリンの大手インフラ企業が共同で設立したインフララボ・ベルリン。電気・ガス・水道・公共交通、ゴミ処理の大手企業とスタートアップが共創する場として機能している。
(C)InfraLab Berlin
気候変動に挑むスタートアップ
2019年に制定されたドイツの気候保護法は、2050年までに気候変動に左右されない経済を目指すもので、欧州委員会の環境保護政策は、社会・生態学的な変化に伴う気候の中立性が、経済活動の指針となりつつあることを示している。
ドイツ連邦環境自然保護大臣スヴェンヤ・シュルツは次のように述べている。
「私たちが現在経験しているような激動の時代は、新しいビジネスモデル、アイデア、新しい価値創造のための幅広い機会を提供しています。これは長期的に私たちの社会を変え、経済的、生態学的、社会的進歩を確実なものにします。環境技術と持続可能なデジタル・ビジネスモデルは、今後ますます需要が高まっていくでしょう」
ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツは、2020年、Oxford Review of Economic Policyで公開された報告書の中で、グリーン・プロジェクトに投資することが、コロナに影響を受けた経済を復活させるための最も費用対効果の高い方法であると主張した。
太陽光や風力発電などのクリーンな物理的インフラストラクチャの支援、送電網のアップグレード、水素の利用促進に焦点を当てるべきであり、再生可能エネルギー・プロジェクトへの投資、住宅や建物への断熱材の追加、ブロードバンドの改善、電気自動車や電動自転車の奨励は、経済を活性化させ、排出量を削減するのに役立つ、ともスティグリッツは指摘している。
グリーン・スタートアップと循環経済
ベルリンを代表するコワーキングスペース「ファクトリー」。2000名のメンバーを有し、活発なピッチやイベントが催され、スタートアップ・エコシステムが形成されている。
撮影:武邑光裕
欧州において台頭しているグリーン・スタートアップは、資本を市場から抽出することで大きな成長を目指すのではなく、地域社会にお金が循環する速度を最適化するビジネスである。
残念なことに、多くの人々が過去の経済に戻ろうと必死になっているのは、正反対の原則に基づいている。無限の指数関数的成長のファンタジーは、地球の黙示録で終わることを欧州市民は認識し始めている。
環境と気候保護に貢献するスタートアップの重要性を検証するプロジェクト「Green Startup Monitor 2020」は、設立から10年未満で、本社をドイツに置く革新的で成長志向の1620社のデータに基づいている。
これによれば、ドイツの全スタートアップ企業の37%がグリーン経済に関連し、42%が社会起業家精神の分野に属している。そのうち21%が環境・気候保護のための具体的な製品やサービスを提供しており、グリーン経済の活性は確実である。
個人主義が公益を生む
デジタル時代における「主権を持つ個人」とは、従来、個人主義として認識されてきた概念でもある。つまり、国家や社会の権威に対して、個人の権利と自由を尊重する立場である。
それは、共同体や国家を成立させる重要な根拠となる個人の尊厳であり、個人になることが「市民」の前提であり、個人こそが利他や公益の主体であるという理念である。
これが日本だと、個人主義は利己的で協調性に欠け、集団主義から暗黙のうちに排除されてしまうことが多い。欧州における個人主義とは、長い歴史を経て成熟したもので、利己主義の温床ではない。むしろ、利己を包含する個人主義は、利他や公益に資する個人の権利と義務なのである。
筆者が約7年間のベルリンでの生活から学んだことのひとつは、欧州の市民社会やスタートアップの背景に、社会的公益のために機能する個人主義があるということだった。
(文・武邑光裕)
武邑 光裕:メディア美学者。千葉工業大学「変革」センター主席研究員。1980年代よりメディア論を講じ、インターネットの黎明期から現代のソーシャルメディアやAIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。2013年より武邑塾を主宰し、2017年より、Center for the Study of Digital Life(NYC)フェローに就任。『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。近著に『さよなら、インターネット』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)、『プライバシー・パラドックス』(黒鳥社)がある。2015年よりベルリンに移住、2021年に帰国。