『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(著:カトリーン・マルサル/河出書房新社)
撮影:西山里緒
2021年、刺激的なタイトルの本が翻訳・出版された。その名も『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』。
「経済学の父」アダム・スミスは生涯独身者で、実のところ生活の世話を母親に頼り切っていた ── 。
家事、育児、介護などの「ケア労働」を伝統的な経済学が軽視していたことを批判する本書は、スウェーデンで2012年に出版されてから、世界中で話題を呼んできた。
コロナ禍でエッセンシャル・ワーカーが果たした役割の重要性が叫ばれるようになった今、私たちは本書から何を学べるのだろうか? 著者であるカトリーン・マルサル氏に直接インタビューした。
そのステーキ、誰が焼いたんですか?
古典経済学の祖、アダム・スミス。人が利己心で行動することで神様が導いたように需要と供給が均衡する「神の見えざる手」という概念で知られている。
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経済学の父、アダム・スミスは、人々の利己心こそが経済を成長させ、社会を幸福にすると語った。私たちが夕食のステーキにありつけるのは、肉屋やパン屋の善意によるものではなく、彼らが自分の利益を得るため、つまり利己心で行動するからだ —— 彼はそう説いた。
「ちなみにそのステーキ、誰が焼いたんですか?」(本書より)
主に女性によって担われてきた「ケア労働」を、主流経済学がいかに「経済活動」から排除してきたか。本書はそれを解き明かす。
スウェーデンで2012年に原書が出版された後、現在までに世界20カ国で翻訳されている本書。イギリスでは2015年にガーディアン紙が選ぶ「ブック・オブ・ザ・イヤー」にも輝き、大きな話題を呼んだ。
マルサル氏によると、執筆のきっかけは2008年に起こったリーマンショックだったという。
当時、金融ジャーナリストとして働いていたマルサル氏は、スウェーデンでも金融市場が大きな打撃を受けたことを目の当たりにし、金融市場が実体経済からかけ離れて膨張していくことのリスクを実感したそうだ。
「私が問いたかったのは、アダム・スミスに始まる『経済人(ホモ・エコノミクス、自分の利益が最大化するように合理的に行動する個人のこと)』を前提とする経済モデルには限界があるのでは、ということでした。(家事や育児などの)ケアの営みを無視して経済は語れない、そう訴えたかったのです」
「当時、賛否両論があったことは確かです。2015年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで講演をした時も、経済学者から強い反論があったことを覚えています」
「ケア労働者」の賃金はなぜ低いのか
オンラインでBusiness Insider Japanの取材に応じた、ジャーナリストのカトリーン・マルサル氏。
画像:オンライン取材よりキャプチャ
コロナ禍で、無償・有償の「ケア労働」を誰が担うのかについての議論がにわかに巻き起こった。マルサル氏は、こうした議論は起こるべくして起こった、という。
「(伝統的な経済学では)ケア労働の価値は数値で測れないけれども、経済の根底に当たり前に存在するものとして捉えられてきた。けれど、無料のランチ(※)がないように、無料のケアなどというものもまた、ないのです」
※「無料のランチは存在しない(There ain't no such thing as a free lunch)」:経済学の慣用句。おいしい話には裏がある、タダより高いものはない、等と近い意味。
2020年、新型コロナウイルスの流行によって全国の小中学校・高校が一斉休校に入った時、子どものケアを誰が担うのかが大きな問題になった。介護、看護、保育など、都市が封鎖された時でさえ止めることができない必要不可欠な仕事を担う人々はエッセンシャル・ワーカーとも呼ばれ、注目と賞賛を集めた。
ケア労働が突然失われることの社会的な影響の大きさは、奇しくもコロナ禍で露呈した。
岸田政権は待遇改善掲げる
岸田政権は、ケア労働者たちの待遇改善を盛り込んだ経済対策を打ち出した。
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多くのケア労働者たちの労働環境は厳しく、賃金も低い状況に置かれているという課題にも注目が集まった。
「スウェーデンはジェンダー平等のお手本のような国と見られることもありますが、やはりケア労働者の賃金は低く、その担い手の多くは女性です。そういう意味では、状況は同じです」
日本も例外ではない。厚労省の賃金構造基本統計調査(2020年)によれば、平均月収は介護職員:23万9800円、保育士:24万5800円などで、全体平均の30万7700円よりも低い。
政府はこうしたエッセンシャル・ワーカーたちの待遇改善を目指す。
岸田政権は2021年11月に打ち出した経済対策において、介護・障害福祉職員や保育士は現行収入の3%程度に当たる月額9000円、看護師は同1%程度の4000円の賃金引き上げを盛り込んだ。
しかし一方で、こうした待遇改善を長期的に続けていくための財源確保をどうするかという議論には、未だ確たる答えが出ていない。
マルサル氏は、適切な支援によって女性の働く機会を増やすことが課題の改善につながると見ている。
「スウェーデンでは、GDPの約4%を(児童手当や保育サービスなどの)家族関係支出に充てていますが(編集注:日本は約1.6%)これは経済対策としても非常に有効です。より多くの女性が労働市場に出ることでの税収増により、その支出を賄うことが期待できるからです」
GDPの3〜4割を占める無償労働
GDP(国内総生産)は近年、家庭内のケア労働を考慮に入れていないとして批判されている。
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本書によれば、家庭での無償のケア労働はGDPに換算すると3〜4割(※)にものぼるというが、その活動は計算に入れられていない。
※カナダの統計局による試算。無償労働を有償で依頼した場合の金額でGDP換算すると3割。家事の時間を有給の仕事に費やした場合に稼ぐ金額でGDP換算すると4割。
こうした状況に打開策はないのだろうか?
OECDが発表する「より良い暮らし指標(Better Life Index)」をはじめとして、GDPに代替する新たな指標を導入する動きは高まっている。マルサル氏はこうしたさまざまな指標が生まれていることは評価するものの、やはり国際社会が「GDP至上主義からの脱却」を政治的に採択する必要がある、と訴える。
「私たちに必要なのは、価値観の転換です。伝統的な経済学が考慮に入れてこなかった、ケアや感情労働といった経済活動の中にこそ、今私たちが直面している危機の解決策があるはずだからです」
できることは政治の分野に止まらない。資本主義的なモデルに頼らないオルタナティブな経済活動が広がっていくことも状況の打開策になり得る、とマルサル氏は語る。
食品小売市場のシェア2位を占める生協(生活協同組合、コープ)など、スウェーデンにはそうした代替のモデルが多く存在しているという。B-Corp(※)など、公益に資するビジネスをする企業への認定制度が広まることも解決策の一つだ、と同氏は指摘した。
B-Corp…株主だけではなく、従業員、消費者、地域社会、環境に対して包括的に配慮したビジネスをする企業に与えられる認証制度。
奇しくも岸田新政権では「新しい資本主義」がキーワードになった。その資本主義の枠組みの中に、ケア労働はきちんと価値付けられるのだろうか? —— 本書の問いは今、日本に対して重要な示唆を投げかけている。
(文・写真、西山里緒)