今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても平易に読み通せます。
IT先進国のエストニアには世界中の知性が集まっているといいます。では、なぜエストニアはビジネスパーソンから注目を浴びる国になったのでしょうか。コロナ前に現地を訪れたことのある入山先生が、日本も学ぶべきエストニアの取り組みについて解説します。
【音声版の試聴はこちら】(再生時間:11分34秒)※クリックすると音声が流れます
グローバルノマドに住民票を発行する国
こんにちは、入山章栄です。
今回は、Business Insider Japan編集部の小倉宏弥さんからこんな質問が来ました。
BIJ編集部・小倉
以前、ブレグジットによって EUのテック企業が北欧のエストニアに集結しているというニュースがありました。エストニアは昔からIT先進国として注目されてきた、いわゆるデジタルノマドが多い国です。
これから世界中の優秀な頭脳が集まれば、ますます発展していくかもしれません。入山先生は、エストニアは今後、どうなると思いますか?
実は僕はコロナになる前の2019年の夏に、エストニアを訪れたことがあるんですよ。
僕はデザインシンキングなどの分野で有名なBIOTOPE(ビオトープ)の佐宗邦威くんと仲良くしていて、あるとき彼と「これからの時代はエストニアに行ってみないことには、始まらないのではないか」という話になり、2人で行ってきたんです。
BIJ編集部・小倉
なんと、そうでしたか!
エストニアだけでなくデンマークも行きましたし、佐宗くんは僕とデンマークで合流する前にフィンランドも訪れています。
しかも佐宗くんは真面目なので、「観光して美味いものでも食べよう」と思っていた僕と違って、会ってみたい人や話を聞きたい企業にどんどんアポをとって、朝から晩までびっしりスケジュールを入れている。
さすがですね、まるで大人の社会科見学です。こんなチャンスは滅多にないので、僕も便乗して一緒にいろいろなところへ行ってきました。
BIJ編集部・小倉
じゃあ、入山先生も佐宗さんと一緒に、エストニアの企業を訪問したんですね。
してきました。それだけでなく、エストニアの首相官邸みたいなところにも行って、デジタルアドバイザーのマルテン・カエバッツ氏にも会ってきました。なぜだか知らないけれど、佐宗くんはそういうアポをとるのがうまいんですよ。
カエバッツ氏は非常にノリのいい人で、ついでに会議室の大統領の椅子にも座らせてもらいました(笑)。
BIJ編集部・小倉
そこは旅行気分ですね(笑)。現地ではやっぱりビジネス的に盛り上がっているとか、勢いがあるな、という感じですか?
行くと分かりますが、エストニア自体はものすごく穏やかな国でした。デジタル化は非常に進んでいるけれど、その一方で、表面的には非常に牧歌的な北欧の国です。やはり地理的にロシアに近いので、街のたたずまいにはちょっとロシア的というかスラブ的な雰囲気がある。
エストニアを考えるときに外せないのが、ロシアの影響です。地図を見れば分かるように、エストニアは、「エストニア、ラトビア、リトアニア」というバルト三国の中でも最も北に位置する小国で、国土は日本の約9分の1しかありません。
もともと旧ソ連圏だし、ロシアとも国境を接している。ロシアはいまウクライナに侵攻の手を伸ばしつつありますから、エストニアも油断できません。だからいかにロシアから離れて、自立して食っていくかを考えなければいけないという事情がある。
もう一つのポイントが、海をはさんですぐ対岸にあるフィンランドです。エストニアの人たちは同じバルト三国の他の国よりも、ハイテク国である対岸のフィンランドのほうを見ています。フィンランドをうまく使ったり、フィンランドとの関係を深めたりしたいと思っている。
このような地政学的な背景から、エストニアは1991年に旧ソ連から独立したのを機に、ユニークなデジタル大国として舵を切りました。そのときはわずか5人くらいの若者で政府をつくったんですよ。
経済学では、過去の経緯に縛られることを「経路依存性がある」といいますが、そういう意味ではエストニアには経路依存性がなかった。だから自由でユニークなことをやろうと電子政府をつくった。
いまやエストニアでは行政手続きのほぼすべてが電子化されていて、電子化されていないのは結婚・離婚・不動産売買の3つだけ(結婚・離婚は軽はずみにできないようになっているんですね)。
その中でも特徴的なのが「e-Residency(イーレジデンシー)」です。これは外国人であっても簡単な手続きをすれば、エストニアに仮想の住民票を持てるというものです。たしか佐宗くんも登録していました。
いまはパソコンとネットがあれば世界中どこででも仕事ができますから、コロナ前は「グローバルノマド」と呼ばれる人たちが、夏はヨーロッパ、冬は南アメリカやオーストラリアというように、常に気候のいいところを渡り歩いていた。
でもこの人たちも、どこかに住民票的なものを置かなくてはいけない。それはデジタルのほうが便利だから、エストニアのe-Residencyにグローバルノマドはみんな登録する。
それにe-Residencyがあれば、エストニアに会社を設立することもできます。もちろん手続きのためエストニアに行く必要はなく、ネットでOK。マイナンバーカードを役所まで取りに行かなくてはいけない日本とはずいぶん違います。
エストニアはEU加盟国ですから、エストニアに会社を設立すれば、EUでビジネスができるようになるのも魅力ですよね。
BIJ編集部・小倉
デジタルを使うと、行ったことのない国に会社を持ててしまう時代なんですね。
「デジタル抜け道」とは何か
ちなみにいま、こういう「デジタル抜け道」のようなものがたくさん出てきているんですよ。
例えばいま中国の人や企業は、日本の不動産をたくさん買っています。しかしチャイナリスクの高まりとともに、キャピタルフライト(資本逃避)が起きるのを防ぐため、中国の外に大金を持ち出すことができなくなっています。だから海外の不動産を購入するのにも規制がある。
しかし僕がその界隈の人に聞いたところによると、確かに難しくなっているけれど、デジタル抜け道を使えばできるというのです。どんな手を使うと思いますか?
BIJ編集部・小倉
あいだに何かをはさむとか……?
そう、あいだにビットコインをはさんでいるんですよ。
香港で人民元をビットコインに交換し、ビットコインで円を買って、それで不動産に投資する。本当は中国政府も知っているのでしょうが、完全に締め付けるのもよくないから、意図的に見逃しているのでしょう。
こんなふうに、いまデジタル技術によって、国境を越えた抜け道ができています。イギリスの会社がブレグジットでエストニアに移るというのも、完全にそのひとつでしょう。エストニアは国策でやっているから、イギリスに文句を言われる筋合いもない。
これからは日本も、エストニアの「国をデジタルにオープンにする」とか、「デジタルの世界で国力を高める」という施策はすごく参考になるのではないでしょうか。
【音声フルバージョンの試聴はこちら】(再生時間:23分20秒)※クリックすると音声が流れます
(構成:長山清子、撮影:今村拓馬、連載ロゴデザイン:星野美緒、編集・音声編集:小倉宏弥、常盤亜由子)
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。