かねてから予告されていた通り、中国政府が導入を進める法定デジタル通貨(CBDC)「デジタル人民元」が北京冬季五輪会場で短期滞在の外国人にも解禁された。2019年夏に構想が明らかになって2年半、デジタル人民元は試験運用のステップを着実に進め、年内の本格導入が計画されている。
累計決済額1兆5900億円に達する
北京冬季五輪1カ月前の1月4日、デジタル人民元(試行版)のアプリがiOSやAndroidなどスマートフォンのアプリストアでダウンロードできるようになった。五輪会場で多くの外国人に使ってもらえるよう、国際的に普及しているOSのアプリストアに対応したことがうかがえる。同23日には選手や大会関係者、記者が利用する会場のグッズ店やコンビニで、現金、国際クレジットカードと共にデジタル人民元が使えるようになった。
アプリストアでのダウンロードが始まり、国内でも利用者が急増している。中国の主要スマホメーカー、ファーウェイ、vivo、OPPO、シャオミ4社のアプリストアでのデジタル人民元アプリダウンロード数は1月末で累計3000万回を超えた。
中国の中央銀行である中国人民銀行がCBDCの開発を公表したのは2019年夏。同6月にフェイスブック(現メタ)がデジタル通貨構想「リブラ(現ディエム)」をぶち上げ、世界中のIT業界、金融業界、そして金融当局が騒然としている時期だった。人民銀は2014年にデジタル人民元の開発に着手し、技術的にはいつでも出せる状態にあると説明した。
リブラが欧米の金融当局から強く警戒され、尻すぼみになっていったのに対し、デジタル人民元は2020年秋に市中利用実証実験を開始。市民にデジタル人民元を無料配布し、対応する商店で決済に使ってもらう取り組みを繰り返してきた。これまで深セン、蘇州、雄安新区、成都、上海、海南、西安、大連など全国の大都市が試験利用の対象となり、国務院新聞弁公室によると、2021年までにデジタル人民元利用に必要なウォレットは約2億6100万開設され、累計875億6500万元(約1兆5900億円)分の決済が行われた。
金融データの主導権取り戻すためのCBDC
デジタル人民元の市中利用実証実験は2020年に始まり、多くの都市で決済が行われた。
Reuters
中国当局はなぜ世界に先駆けてデジタル人民元の導入を進めているのか。それは、中国がキャッシュレス先進国の地位を得たことと深く関係している。
2010年代半ばまで、中国の事業者の多くは手数料の高さを嫌って国際クレジットカードを導入せず、消費者の決済手段は現金かデビットカード「銀聯」に限られていた。
決済の空白を突いて2014年以降に一気にシェアを広げたのが、導入コストと手数料の低さを武器にするテンセントのモバイル決済「WeChat Pay(微信支付)」とアリババグループの「アリペイ(支付宝)」だ。中国で、QRコードを読み取ったり送り合うだけで即時に支払いができるモバイル決済は大いに歓迎され、2010年代後半には日常生活に現金が必要ないキャッシュレス社会がほぼ実現した。
だが、国民にとってイノベーションだったモバイル決済は、中国当局にとって懸案になった。
アリババ、テンセントが膨大な消費データを基に消費者の行動やお金の使い方を分析し、信用スコアを構築したり銀行にサービスを提供したりして影響力と収益力を強めていくと、中国政府と金融当局はモバイル決済を、金融システムを攪乱し、中央集権的な管理を揺るがす脅威と捉えるようになった。
人民銀はデジタル人民元の開発を進めながら、2020年秋にはアリペイを運営するアント・グループの上場にストップをかけ、IT企業の金融事業規制に転じた。金融データ管理の主導権を取り戻すため、国が保障するCBDCを開発し、機が熟したところでフィンテック業界締め付けに動いたと見られる。
WeChat Pay、アリペイから乗り換え促す
北京冬季五輪では一時滞在する外国人にもデジタル人民元の利用が開放される。
Reuters
つまり、デジタル人民元は国民でなく、体制側のニーズによって開発されたものだ。構想の詳細が明らかになったとき、国民は「WeChat Payとアリペイでほぼ足りている」「政府にデータを抜かれる」と、否定的な反応が大多数だった。
デジタル人民元の試験運用は、技術や法的な課題をあぶり出すとともに、国民を啓発する期間でもある。人民側はどのようなメリットを提示しているのか。
最も強力なアピールポイントは、デジタル人民元が「法定通貨」と「デジタル通貨」のいいとこ取りをした存在で、資産価値が国に保証されるだけでなく、盗難や紛失の際も再発行が可能という点だ。法定通貨であるため、買い物をしても決済手数料はかからず、事業者にとっては導入のインセンティブになる。
また、モバイル決済が通信ネットワークを必要とするのに対し、デジタル人民元はICカードのように、端末同士の接触で決済が可能だという。充電や通信環境が確保できない災害時にも使え、インフラとしての安定性もアピールしている。
しかし、ユーザーを増やすために最も手っ取り早い手段は、これまでプラットフォーマーがシェアを拡大するために必ずやってきた「ばらまき」だ。
1月31日から始まる春節休暇を前に、デジタル人民元を試験導入している各都市では、さまざまなキャンペーンが行われている。
中国交通銀行深セン支店は、深セン航空や同市内の商業施設とタイアップし、デジタル人民元決済のキャッシュバックを実施。中国建設銀行も同市の福田区政府と共同で、同区内での決済を対象に総額1000万元(約1億8000万円)を投じて「春節お年玉キャンペーン」を展開している。
アメリカも中国に対抗しCBDC検討
中国がCBDC発行で先行し、東南アジアやアフリカに流通や技術を広げれば、基軸通貨であるドルの国際的役割が低下する可能性もあり、リブラ構想発表時にはCBCD導入に消極的だったアメリカ政府の姿勢にも変化が生じている。
米連邦準備理事会(FRB)は1月20日、CBDCに関する初の報告書を公表し、実現すれば個人や企業に安全な電子決済手段を提供でき、金融包摂、国際送金にもメリットがある半面、金融システムの安定やプライバシーの保護など多くの課題があると分析した。発行に慎重な態度は変わらないが、メリットとリスクを正確に評価し、議論を進めようとしている。
2021年度からCBDC発行に向けた実証実験を進めている日銀も、海外で動きが加速していることを受け、制度設計の検討に着手するようだ。
デジタル人民元は今年秋に杭州市で開かれるアジア競技大会でも外国人を対象に試験運用を行い、年内の本格導入が計画されている。欧米の金融当局は民間企業であるメタのデジタル通貨構想を潰せても、中国を止めることはできない。止められなければ、主導権を握らせないために自分たちもやるしかない。自国の中央集権を徹底したいという中国政府の思惑が、他国のCBDCへの姿勢にも強い影響を及ぼしている。
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。