「教養とは身に付けようと思って、身に付くものではない。義務で学ぶことは道具としての知識にしかならない」。佐藤優さんの言葉に、納得をしつつも、少しがっかりするシマオ。では、自分を少しでも成長させるためにできることは何なのか? シマオは佐藤さんに教養につながる学び方を聞く。
教養には「他者」の存在が必要になる
シマオ:先日のお話で、「教養とは何か」ということを詳しく教えてもらいました。教養は単なる知識とは違って、身に付けようとして身に付くものではない、というお話でしたよね。
佐藤さん:そうです。
シマオ:それは分かった上で、あえてお聞きしたいんですが、教養に結びつくような日々の学び方があるなら、ぜひ教えてください!
佐藤さん:それは簡単で、一言でいえば本を読み、それについて人と会ってよく話すことです。
シマオ:へえ……。意外と普通ですね。
佐藤さん:教養人というのは、ニアリーイコールで読書人ということ。本を読まない教養人というのは絶対にいない訳です。ですから、一般の人が教養を身に付けるができるようなったことと、印刷技術は深く関係しています。
シマオ:普通の人でも本を買えるようになった。
佐藤さん:はい。ヨーロッパでいえば15世紀にグーテンベルクが活版印刷を発明したことによって、聖書を始めとする書物を読める人が格段に増えました。それまで書物を読むことができた——すなわち教養人であることができたのは一部の聖職者か貴族、学者くらいでした。
シマオ:活版印刷と教養の関係……。なるほど。印刷物の発明によって教養人は格段に多くなったんですね。もう一方の「話す」というのは、例えば友だちとおしゃべりをするとかでもいいんですか?
佐藤さん:相手は誰でも構いません。ただし、お茶飲み話のように思いついたことを言いっぱなしで終わりというのではなく、本で得た知識をベースにして、相手と意見交換をしつつ話を積み重ねていくことが大切なんですよ。リモートで会話をすることでも構いません。
「知識があることと教養があることは、まったく別物です。自分の考えを他者と交え合うことで、人間は深い思考に辿り着けるもの」と断言する佐藤さん。
シマオ:議論みたいな感じですか?
佐藤さん:そうですね。ただ、自分の意見の正しさを証明して相手を打ち負かすのとは違います。
シマオ:単なる感想でもいいんでしょうか。
佐藤さん:はい。本を読んでの感想が他人と違うのは当たり前ですから、むしろ人の話をよく聞いて、それを自分の中で考えてみてください。シマオ君は、誰かと本や映画の話をする時に、どんな会話をしていますか?
シマオ:「あそこが面白かったねー」みたいな感じで……。
佐藤さん:そこで終わらずに、自分がどうしてそれを面白いと思ったのか、それに対して話し相手はどう思うのか。そういう他者との会話のインタラクション(相互作用)が、教養を育てるのに必要なことなんです。
シマオ:なるほど。教養というのは、自分の中に知識をため込むだけではなくて、他者の存在が必要になるということなんですね。
佐藤さん:そのとおり。他者が周りにいない教養人というのは存在しません。学問は一人でできますが、教養というのは他者を介した知識の交錯が必要なものなんです。
本と「対話」することができるようになれば一人前
佐藤さん:なので教養のためには、前に話した修養を学び、円滑なコミュニケーションができる人間になる必要があるんです。とはいえ、ある程度、学びの訓練ができるようになると、実際にそこに他人がいなくても「会話」ができるようになります。
シマオ:え? どういうことでしょう?
佐藤さん:書籍を読むということは、著者と対話することでもあります。学者など一級の知識人と呼ばれるような人たちは、本を読みながら「脳内対話」ができる訳です。
シマオ:つまり、本を読んで「自分はこう思うけどどうだろう?」と著者に問いかけると、脳内でつくりあげた著者が答えてくれるということですか? なんだかそれはすごいレベルですね。
佐藤さん:ロシア革命を指導したレーニンは、何か未知の案件に遭遇すると「マルクスに相談にいく」と言って、マルクスの著作を読んでいたといいます。
シマオ:マジですか?(笑) 頭の中でマルクスと対話していたんですね!
佐藤さん:より具体的に言えば、マルクスの思考を理解して、自分なりに仮説のモデルをつくりあげることができていた。それが本を読んで理解するということの本質だと思います。
シマオ:そこまで本を読み込んだことはないような気がします。
佐藤さん:それができれば、著者との対話は時代を問いませんから、古今東西の賢人たちと会話できるようになる訳です。
シマオ:超一流の相談相手に囲まれているようなものですね。
イラスト:iziz
佐藤さん:そういう意味では、ネットなどを見ていると、最近は自分の意見に合わないものは全否定するという風潮が強まっているようで危惧しています。
シマオ:確かに、SNSだと意見の合わない人同士がよく喧嘩してますよね……。
佐藤さん:政治的な主張はあっていいのですが、それと教養を持っているかどうかは関係ありません。いわゆる右の人であっても、左の人であっても教養を持っている人はいますし、意見は違ってもそういう人から学ぶことはあります。
シマオ:意見の違う人の本も読んだほうがいいということでしょうか?
佐藤さん:例えば、哲学者・批評家の柄谷行人さんは左派とされますし、亡くなった英語学者の渡部昇一さんは、評論家としての右派的な言説が有名です。彼らと政治的な意見が合わないということはありますが、お二人とも大変な知識人・教養人であることは疑いがありません。
シマオ:表面的な意見にとらわれずに、その人がどのような思考回路で物事を考えているかを見たほうがよいということですね。
佐藤さん:そのとおりです。
恋の悩みにも「古典」が効く
シマオ:具体的には、どんな本を読めばいいのでしょうか?
佐藤さん:人によって必要なものは違うでしょうが、ひとまずは古典と呼ばれるものを読むことです。多くの人に100年読み継がれてきた古典は、これから100年後も読まれるでしょう。読み継がれてきた中で生まれたいろんな解釈、再解釈を通じて、われわれは時代ごとに古典を読み直すのです。
シマオ:長い間生き残ってきたのには理由があるということですね。でも、古典と言ってもたくさんありすぎて……。
佐藤さん:関心のあるテーマで構わないんですよ。例えば、恋愛に悩んでいたら、最古の小説とも言われる『源氏物語』を読んでみる。あるいは、上田秋成の『雨月物語』でもよいでしょう。古文でなくてもさまざまな現代語訳が出ています。
シマオ:『源氏物語』は中学校の古典の授業で習ったので知っていますが、『雨月物語』は題名だけ知ってます。
佐藤さん:上田秋成は江戸時代の作家で、『雨月物語』は中国古典などに材を取ったものです。いくつかの話が収録されていますが、その中の一つ「吉備津(きびつ)の釜」は、主人公・井沢正太郎と彼に嫁いだ磯良(いそら)の話です。磯良は妻として尽くしますが、元来、浮気性の正太郎は袖(そで)という名の遊女のところへ入り浸ります。
シマオ:正太郎はとんでもないやつですね!
佐藤さん:ある時、袖は何かに取りつかれたようになって死んでしまいます。その後もさまざまな災いが起きるので陰陽師に相談すると、彼は「物忌み」をして42日間家にこもれと言われました。それが終わるころ、一緒にいた男が正太郎の様子を見に行くと、軒先に「まげ」だけがぶら下がっていて、あたりが血だらけになっていた、というお話です。
シマオ:えっ、怖い……。それはつまり、妻の磯良の呪いってことですよね。確かに、浮気の恨みは怖いという教訓になりそうな話です。
佐藤さん:古典の効能は、現代の小説を読むことにも役立ちます。同じく上田秋成の著書に『春雨物語』というのもあります。この中に「二世の縁(えにし)」という話があるのですが、このお話は村上春樹さんの小説『騎士団長殺し』の中に引用があります。
シマオ:え、村上春樹? へえ、そうなんですね。
佐藤さん:村上さんは小説の中で話の内容を要約してくれていますが、優れた文学作品には明示的に引用はされないけど、知っている人には分かるようにほのめかされていることも多い。ですから、古典を知っていると、現代の作品を深く理解することにつながるのです。村上春樹さんは『騎士団長殺し』の他にも『1Q84』では、チューホフの『サハリン島』を用いたりしています。
シマオ:なるほど。そんな裏テーマみたいなものを知って読書するのも面白いですね。
※この記事は2020年10月7日初出です。
佐藤優:1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。2013年6月に執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。現在は執筆や講演、寄稿などを通して積極的な言論活動を展開している。
(構成・高田秀樹、イラスト・iziz、編集・松田祐子)