1984年の冬季オリンピックのために建設され、選手が宿泊したホテルの廃墟。
Giles Clarke/Getty Images
- 1984年に冬季オリンピックが開催されたのはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボだ。
- オリンピックから10年も経たないうちに、この街はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の中心地になった。
- 戦争が終わってから20年近く経った今でも、多くのオリンピック会場は放置されたままになっている。
1984年の冬季オリンピックは、2月8日から19日までユーゴスラビアのサラエボで開催された
スキージャンプ会場の表彰台。
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1984年の大会は、社会主義国家で開催された初の冬季オリンピックで、1980年のモスクワ夏季オリンピックに続き、2大会連続で社会主義国家で開催されたことになる。
1980年のモスクワオリンピックは、アメリカをはじめ多くの欧米諸国がボイコットしたため、サラエボ大会は盛大な再会の場になった
ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ近郊、ヤホリナ山に残された五輪のモニュメント。2019年2月5日撮影。
Dado Ruvic/Reuters
1979年、ソ連のアフガニスタン侵攻を受けて、アメリカはモスクワでのオリンピックをボイコットし、それに同調した日本を含む60カ国以上がオリンピックへの参加を拒否した。
1984年には、このヤホリナ山付近で多くのイベントが開催された。
しかし、オリンピックが終わるとすぐにユーゴスラビアは混乱に陥り、1992年には同国は崩壊した
ロンドンのクリエイティブ集団「ザ・ラーカーズ」による落書きアート「ザ・ラーカーズ・ドゥ・サラエボ」は、イグマン山にある破壊されたホテルに書かれている。2014年撮影。
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1984年にスキージャンプなどの競技が行われたイグマン山にあるホテルは破壊されたままだ。
オリンピック終了からわずか8年後、サラエボは包囲され、ボブスレーのコースはボスニア系セルビア人による砲撃基地になった
トレベヴィチ山には、1984年のサラエボ冬季オリンピックのために作られたボブスレーのコースがそのまま残っている。2014年撮影。
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放置されたままのボブスレーのコースは、2014年にはこのような状態だった。
AP通信のシルヴィア・ホイ(Sylvia Hui)記者は、「今日、廃墟となったコンクリート建築は、落書きが散見される骸骨のようだ」とその年に書いている。
アメリカのナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)によると、サラエボは包囲は約4年に及び、「近代戦争史上、最も長い期間包囲された首都」だったという
ここはかつて冬季オリンピック会場だった場所だ。2014年撮影。
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NPRによると、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は10万人の死者を出し、「第二次世界大戦以来、ヨーロッパで最悪の残虐行為」を引き起こしたという。
オリンピック村の一部として建設されたこのホテルは、戦時中は刑務所になった
1984年の冬季オリンピックのために建設され、選手たちが宿泊したホテルの廃墟。
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Gettyによると、サラエボ冬季オリンピックの10年後、「ホテルは、ボスニアのイスラム教徒の刑務所と処刑場に変わり、すべてセルビア人部隊によって管理されていた」という。メダルの表彰台さえも処刑場となってしまった。
1996年2月に戦争が終わった時には、何千人もの市民が死亡しており、新しい国家ボスニア・ヘルツェゴビナは、今後どのように進むか決めなければならなかった
フィギュアスケートが行われたゼトラ・ホールの近くの塔にサラエボ五輪のマークが見える。2015年7月14日撮影。
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サラエボのオリンピック会場の多くの建造物は、絶え間ない爆撃などで損傷したり、破壊されたりした。
20年近く経った今でも、イグマン山のスキージャンプ台のような多くのコースや会場は、そのまま放置されている
イグマン山にあるジャンプ会場の廃墟。2015年7月14日撮影。
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ゲッティによると、「90メートル級(今のラージヒル)ジャンプ台の周辺はボスニア戦争の間、多くの地雷が仕掛けられた場所」だという。
別の角度から見たジャンプ台の様子
サラエボ市街から25キロ離れたイグマン山のスキージャンプ台の下に子どもたちが集まっている。
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イグマン山はサラエボの街のすぐ近くにある。
スキージャンプ台はその後、風雨にさらされてきた
イグマン山にあるスキージャンプ台は、コケに覆われていた。
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めまいのある人は、目をそらしたくなるかもしれない。
会場だったところのあちこちにオリンピックの面影が残っている
、ボイグマン山のスキージャンプ台の廃墟に残っている破壊された五輪のモニュメント。2015年7月14日。
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五輪の色が褪せてしまっている。
スキージャンプ競技の審査員席はこの写真の建物にあった
イグマン山のジャンプ台にある審査員のいた建物。2015年7月14日撮影。
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サラエボ・オリンピックのジャンプ競技では、東ドイツのイェンス・バイスフロク(Jens Weißflog)がノーマルヒルで、フィンランドのマッチ・ニッカネン(Matti Nykänen)がラージヒルで、それぞれ金メダルを獲得している。
ボブスレーのコースは、市内からケーブルカーで行けるトレベヴィチ山にあった。ここは1989年に閉鎖され、戦時中に破壊された。終戦後、このコースは、落書きアーティストたちのペインティングの場、マウンテンバイクの練習の場という2つの新しい使い道を与えられた
サラエボ冬季オリンピックのボブスレー・コースで、マウンテンバイクのダウンヒルのトレーニングをする人々。2015年8月8日撮影。
Dado Ruvic/Reuters
「破壊されたレストラン、ホテル、スポーツ施設、山小屋は放置され、数え切れないほどの地雷の除去は非常に遅いペースだった」と、2018年にガーディアン(The Guardian)は書いている。
2015年の写真には、ボブスレーのコースをマウンテンバイクのダウンヒルのトレーニングに使っている様子が写っている。
そこには、アーティストが感性を表現できる、何十メートルものコンクリートの壁がある
サラエボ冬季オリンピックのために作られたボブスレー・コースは、トレベヴィチ山で使用されずに眠っている。
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壁にはサインやストリートアートが描かれている。
2018年初頭には、このような状態だった
トレベヴィチ山にあるボブスレー・コース。2018年1月16日撮影。
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このような雪では、自転車に乗るのは難しいだろう。
しかし、ボブスレー会場まで人々を運んでいたロープウェーは、2018年に運行を再開している
トレベヴィチ山のロープウェーの下に広がるサラエボ市街地。2018年撮影。
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ロープウェーは、現在もオリンピック開催時と同じルートを通っている。「この数年で、山は徐々に以前のような姿に戻ってきた」と、2018年にガーディアンは書いている。
「ホテル、レストラン、カフェが再建され、地雷が一掃され、サラエボ市各地からハイカーが訪れるようになった」
しかし、戦争の記憶もオリンピックとともにサラエボの歴史の一部であることに変わりはない。ゼトラ・オリンピック・ホールのすぐ隣には、戦時中に亡くなった人の墓地がある。
ゼトラ・ホールは1997年に再建され、1999年に再オープンした。現在は、フアン・アントニオ・サマランチ・オリンピック・ホールとして使用されている。
残念なことに、放置されたオリンピック会場のことを考えなければならないのは、サラエボだけではない。世界中に空となっている競技場があるのだから
(翻訳:大場真由子、編集:Toshihiko Inoue)