今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても平易に読み通せます。
アパレル大手のワールドやTSIホールディングスなどが国内への生産回帰を進めています。このように中国や東南アジア中心の調達網に変化が出てきたのはなぜでしょう。入山先生は、1つは人件費がそれほど変わらなくなったこと、そしてもう1つ重要な点は、経営学の視点から読み解けると言います。
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いまや東南アジアより、日本の人件費のほうが安い
こんにちは、入山章栄です。今週も気になるニュースについて、一緒に考えていきましょう。
BIJ編集部・常盤
入山先生、こんな気になるニュースがありました。日本経済新聞の記事によれば、アパレル大手のワールドが、東南アジアに置いていた生産拠点を、部分的にですが国内に移すそうです。
このところアパレルは生産拠点を人件費の安い東南アジアに置くのが当たり前になっていましたが、近頃は海外でも国内でも、それほど変わらなくなってきたそうです。
もちろん人件費を単純に比較すれば、国内のほうがまだ割高かもしれませんが、製品を移送する費用や時間を考えると、国内で製造してもあまり変わらない。そこで今回、製造ラインのいくつかを国内に戻すことにしたのだとか。
BIJ編集部・常盤
私たちはどうしても東南アジアのほうが人件費が安いと思ってしまいますが、最近はそうとも言えなくなりつつあるのでしょうか?
そうだと思いますね。人件費でいうと明確にそうです。日本はたいへん残念ながら、賃金が上がらず、相対的に貧しくなっている。
さらに、そこに円安が加わっています。そもそも日本の人件費が高くなったのは、1985年のプラザ合意以降、一気に円高が進んだから。もともと人件費が高かったところへ、円高でさらに割高になった。
それを回避するために多くの製造業が、安い人件費を求めて東南アジアや、少し遅れて中国に進出していったわけです。
僕ははっきり言うと、これから逆のことが起きると思います。つまり東南アジアや中国の企業が、安い人件費を求めて日本に工場を持つ時代が来る。というより、もう来ています。
BIJ編集部・常盤
そういう事例もあるのですか?
いちばん分かりやすいのは、台湾の半導体メーカーのTSMC(台湾積体電路製造)が、ソニーグループと合弁で熊本に工場をつくると発表したこと。
九州はもともとシリコンバレーにならい、「九州シリコンアイランド」といって半導体メーカーを集積させようという動きがあった。しかしその後は廃れていたのですが、TSMCによって復活することになったわけです。
半導体の製造に必要なのは「水」と「人」。製造工程で洗浄のための水を大量に使うからです。その点、水が豊富で人件費が安い九州は条件に適っている。
TSMCが製造する半導体は、最先端の技術を使った高価な半導体ではなく、ロジックLSIという少し古い技術を使った安価な半導体です。こちらにも需要があるんですね。
これを製造するなら、水が豊富で人件費が安いほうがいい。これがTSMCが九州に生産拠点をつくった理由の一つ、というのが僕の理解です。
BIJ編集部・常盤
半導体といえば、アメリカも国内で半導体をつくろうという流れになっているようですね。Business Insiderにもそんな記事が載っていました。
アメリカの場合は、安全保障戦略が目的だと思います。アメリカは人件費が高いから国内で半導体を製造するのは高くつくけれど、これからの世界は何が起こるか分からない。
もし半導体が輸入できなくなったときのために、国内で生産できるようにしておこうということでしょう。食べ物と、半導体と、薬と、武器。安全保障を考えると、この4つだけは、本当は自国で生産したほうがいいんですよ。
「取引コスト」を考慮すると、国内生産のほうがいい
さて、ここまでは日本が貧しくなったというネガティブな話ですが、実は「ワールド」の国内回帰には、もう一つ理由があると思います。ここからは久しぶりに経営理論を使った話です(笑)。
コストというものを考えるとき、普通は人件費や材料費など物質的なコストを思い浮かべますね。でもそれだけでなく、もう一つ費用があるんです。それが「取引コスト(取引費用)」と呼ばれるものです。
これは何かというと、市場と市場とか、離れた地点にある会社と会社が、取引をすることで発生するコストのことです。契約や交渉など、取引のプロセスで余分にかかるコストともいえます。
普段われわれは、この費用をあまり意識しません。契約のコストなんて、目に見える数字として出てきませんからね。でも商売をしていると、取引先と揉めたり、トラブルになることも少なくない。
トラブルに対応するのもコストですし、トラブルを避けるために、時間をかけて慎重に交渉したり、分厚い契約書を作成したりするのもコストです。これを「取引費用」とか「取引コスト」といいます。
ちなみにこの理論でシカゴ大学のロナルド・コースが1991年に、カリフォルニア大学バークレー校のオリバー・ウィリアムソンが2009年に、ノーベル経済学賞をとっています。詳しくは僕の『世界標準の経営理論』を読んでみてください。
こんなふうに、取引には実は目に見えないコストがかかっているのですが、いまはデジタルの時代です。デジタル技術を使えば、交渉や契約のコストが下がるのは分かるでしょう。
しかしデジタル化でコストが下がるなら、別のどこかで上がるコストもあるはずだと考えるべきです。僕は上がったコストが、少なくとも2つあると思います。
まず1つめが、トレーサビリティ(追跡可能性)のコストです。いまはSDGsの流れのなかで、トレーサビリティが非常に求められるようになっている。
つまりアパレルなら、どこで原料を調達したのか、どこでどう布を織り、どこでどう染めて、裁断して、縫製したのかを明らかにしなければいけない。
しかしアパレルというのは、バリューチェーンが複雑な業種です。工程ごとに分業していて、下請けがそのまた下請けに出すために、非常に複雑かつ長いバリューチェーンになっている。だから最終的に洋服を販売する会社にとっても、元をたどっていくのは非常に難しい。
なぜ僕がこんなことを知っているかというと、2021年に経済産業省の繊維産業のサステナビリティに関する検討会のメンバーを務めていたからなんですよ。
昨年、ファーストリテイリングが、新疆ウイグル自治区の強制労働によってつくられた綿花を原材料に使っていたのではないかと問題になりました。
そのとき柳井正さんが記者会見であいまいな答弁をしたのも、あまりにもバリューチェーンが分断されていて追跡が不可能だったからかもしれません。
これからの時代は、自社製品の製造過程に不明な部分があるのは大きなリスクです。そう考えると、ワールドが国内生産に切り替えたのは、東南アジアの人件費の上昇という理由もあるけれど、このトレーサビリティの取引費用を抑えるという意図もあったのではないかと想像します。
BCB(事業継続性)というコスト
上がったコストのもう一つが、BCP(Business Continue Plan:事業継続性)を考えなければいけないというコストです。コロナになって急にこのBCPという言葉が使われるようになってきました。
これからの時代はものすごく不確実性が高い。そんなときにバリューチェーンが伸びていて、小規模なサプライヤーが大勢いて、最後は中国やウイグルまでたどっていかなければならないようでは、何かあったときにコントロールできず、事業が継続できなくなってしまいます。
例えば東南アジアに工場を持っていたら、この前タイで洪水が起きたように、自然災害があるかもしれない。あるいは戦争や内紛があるかもしれない。しかも今回のコロナのようなことがあると、物流も止まってしまう。
それを避けるためにも、国内で生産したほうがいいという企業が今後は増えていくのではないでしょうか。
BIJ編集部・常盤
なるほど。これまで「マーケットはより広く、バリューチェーンはより長く」というグローバリゼーションの時代が長く続いてきましたが、やはり私たち消費者の意識も劇的に変化しています。
ですからトレーサビリティやBCPを考えると、すべてのビジネスプロセスをコントロールの効く範囲内で収めたほうが、トータルでみると合理的だという経営判断になり得るということですね。
そうです。ただし業種にもよりますけれどね。アパレルに関しては国内回帰が合理的な業界と言えるでしょう。
BIJ編集部・常盤
いずれにせよ、人件費だけでなく、トータルでみることが大事だということですね。勉強になりました!
いまは海外生産の食品も多いと思いますが、もしかしたらこのあたりも国内回帰の動きが目立ってくるかもしれません。
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(構成:長山清子、撮影:今村拓馬、連載ロゴデザイン:星野美緒、編集・音声編集:小倉宏弥、常盤亜由子)
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。