米ニュージャージー州のガソリンスタンドで価格表示を入れ替えるスタッフの姿。ウクライナ危機の世界経済への影響は第一にエネルギー市場から始まる。
REUTERS/Eduardo Munoz
アメリカのサブプライムローン問題とそれに続く住宅バブル崩壊に端を発し、2008年9月の株価暴落(リーマンショック)を契機として発生した世界金融危機。米金融大手ゴールドマン・サックスのチーフエコノミスト、ヤン・ハチウスはそのリスクと株価下落の可能性を事前に見抜いていち早く警鐘を鳴らした専門家のひとりだ。
アメリカで4年に1度、最も正確な経済予測に対して贈られるローレンス・R・クライン賞を2度受賞しているハチウスは、いま私たちがその言葉に注意深く耳を傾けるべき人物であることは間違いない。
当然ながら、彼の関心は目下ウクライナ危機の予想もつかない展開に向けられている。
原油価格の市場に及ぼす影響がきわめて大きいのはもちろんだが、いまハチウスの目に映るのは、1バレル当たりの原油価格が上昇するにとどまらない、もっと大きな変動の兆しだ。
「ロシアのウクライナ侵攻、それに伴う欧米諸国の対応は、世界規模で広がるインフレ高進の核心的な要因となっている需給の不均衡をさらに悪化させるものです。
経済制裁やボイコット運動を通じて、ある経常黒字国との貿易取引を減らすとすれば、その国が生産し世界で消費されている商品を、他の国々が生産量を増やして埋め合わせる必要が出てきます。
世界の商品貿易および国内総生産(GDP)に占めるロシアのシェアはいずれも2%未満なので、変動が起きるにしても、世界全体から見ればそう大きなものにはなり得ません。
ただし、ロシアが世界生産量の約12%を占める原油市場、あるいは世界生産量の約17%を占める天然ガス市場、とりわけロシア産天然ガスのシェアが40%(2021年)にも達する欧州の西側諸国では、もっと大きな変動が生じるでしょう」
ハチウスによれば、西側諸国がロシア産原油の輸入量を減らした場合、中国とインドがロシアからの輸入量を増やすことで、サウジアラビアなどから両国が輸入している量が浮き、それを西側諸国に融通することもできる。
しかし、輸送コストやテクニカルな摩擦が増えるのはもちろんのこと、すでに世界の厄介者となりつつあるロシアからの輸入増を中国とインドがやすやすと受け入れるとは思えないので、「有望な選択肢にはなり得ない」(ハチウス)。
「それどころか、いま西側諸国の議会で支持者を増やしている原油制裁は、他の国々にも適用される可能性があります。
そうした懸念を反映して、(原油価格の代表的な指標である)北海ブレント先物とウェスト・テキサス・インターミディエイト(WTI)先物はすでに1バレル当たり20ドル以上跳ね上がり、当社のコモディティ・ストラテジストはさらなる上昇の余地があると予測しています」
原油市場の混乱に連なる連鎖的な影響により、別格に大きなダメージを受けるのは欧州諸国、とハチウスは指摘する。
「原油価格が20ドル上昇の水準で持続した場合、ユーロ圏の実質GDPは0.6%低下し、消費者の生活はさらに圧迫されることになるでしょう。アメリカへの影響はよりマイルドで実質GDPは0.3%低下、消費者にとってはそれでも打撃ですが、国内のシェール生産量を引き上げたり投資を増やしたりすることで影響を軽減できるでしょう。
また、ユーロ圏については、原油価格と天然ガス価格の両方から二重の痛手を受けることになりそうです。
ロシアからのパイプラインガスが供給停止されることなく、問題が価格上昇のみに限定されるベースラインシナリオでも、天然ガスは実質GDPを0.6%引き下げ、(上述した)原油価格の影響と合わせて1.2%低下させることになります」
ウクライナを経由するパイプラインガスの供給減を想定した「より厳しいシナリオ」をたどる可能性もあり、その場合、ユーロ圏の実質GDPはさらに1%低下し、ドイツとイタリアが最も大きな影響を受ける。
さらに、パイプラインガスが供給減にとどまらず完全供給停止に至った場合、実質GDPの下げ幅は2.2%まで広がるという。
ハチウスによれば、大西洋の向こう岸のアメリカでは、原油価格の上昇が「もともと過熱気味の」経済を直撃している。
「2021年12月末時点で、アメリカの求人件数(採用数含む)は総労働者数を2.8%上回り、戦後最大の差を記録しました。その後、2022年2月の非農業部門雇用者数は前月比67万8000人増、当初発表の46万7000人から上方修正され、失業率も3.8%と2020年2月以来の水準を回復するなど、労働市場はさらにひっ迫度を強めています」
FRBの利上げ計画はどうなる?
こうした状況を踏まえてなお、ハチウスは米連邦準備制度理事会(FRB)が計画通りに金融政策を展開すると踏んでいる。
ゴールドマン・サックスは、FRBが年内計7回、それぞれ25ベーシスポイント(0.25%)の利上げを行い、うち最初の1回を3月中にも実施するとの予測を現時点でも維持している。
「当社のベースライン予測では、ロシアのウクライナ侵攻が成長率とインフレ率に及ぼす影響は全面的に相殺され、連邦公開市場委員会(FOMC)には労働市場の過熱を抑制するという喫緊の課題が残されることになるでしょう」
また、中国については、欧州のように天然ガスを介したロシアとの依存関係が存在せず、アメリカの労働市場のようなひっ迫も起きていないことから、エネルギー危機に対する「脆弱性が相対的に低い」(ハチウス)という。
さらに、金融市場への影響については、投資家がおおむね「これまでのところきわめて合理的に」危機に対応してきているとハチウスは分析する。
「ロシアを含む一部のコモディティ市場では極端な動きが見られるものの、他の市場、とりわけアメリカの中核資産はいずれも穏当な値動きを示しています。ただし、コモディティ市場を中心に見られる足もとの極端な動きはさらに広がる恐れがあります。
またその場合、フェデラル・ファンド(FF)金利の誘導目標引き上げ回数は、確率加重平均で(25ベーシスポイントずつ)5.5回が合理的と考えます。それでも、2023年以降の引き上げ目標は低すぎるというのが私たちの見解です。
FOMCが利上げ方針を早期に撤回してハト派転換する可能性は間違いなく高まってきていますが、一方で、高インフレの長期化により、名目FF金利を1990年代から2000年代前半にかけての時期と同水準の平均4~5%まで持続的に引き上げる可能性もあります。
経済危機、金融危機、政治危機が起きるたびに金利が低下する流れが数十年くり返されてきましたが、その逆も成り立ち得るということを市場は再認識すべきかもしれません」
(翻訳・編集:川村力)