撮影:伊藤圭
いまでこそ一度は泊まってみたいホテルとしてメディアにも取り上げられる「SHONAI HOTEL SUIDEN TERRACE(ショウナイホテル スイデンテラス)」だが、オープンした当初の評判は散々だった。今でも経営するヤマガタデザインの山中大介(36)が「あの時の1つ星評価がなければ、今頃もっと評価は高かったはず」と悔やむほどだ。
2018年の開業当初を思い出すと、山中は今でもゾッとするという。坂茂の建築ということで注目を集めたものの、オペレーションの基本がなっておらず、混乱が続いた。人も足りず、本部や経理のスタッフまで総出で毎日乗り切っていた。山中もベッドメイキングや掃除だけでなく、清掃マニュアル作りまで担った。
隣接する土地に建つ教育施設のSORAI(ソライ)も、農業も同時期に進んでいたので、どこも人手が足りなかった。足りない部署には「遊軍」と称して別の部署の人間が駆けつけた。「それを僕はグループの総合力と呼んでいます」と山中は笑う。
「不完全なつもりでスタートしたわけではないんですが、どこまで準備しても限界はある。日本では完璧を求めすぎて何もスタートできない人が多いと思うんです。大事なのは、課題を改善し続けること。2018年に開業して、すでにこのホテルは2回もリニューアルしています」
元有名ホテル支配人も「無理」と即答
最初はオペレーションでの混乱が続いたスイデンテラス。その後改善を重ね、コロナ禍という大きな危機も乗り越えつつある。
撮影:伊藤圭
ホテルのオペレーションが軌道に乗り、サービスの質が上がったのは、2021年6月に中弥生が総支配人に着任してからだ。中はホテル業界一筋で働き、都内有名ホテルで支配人も務めたホテルのプロフェッショナルだ。中は着任当初をこう振り返る。
「ホテルは建物などのハード、サービス内容のソフト、そして人によるヒューマンの3点で成り立っていますが、当時のスイデンテラスはこの3点全てで水準に達していませんでした。でも社員たちは皆荒削りだけど素直で、やりようによっては可能性があると感じました」
確かにスイデンテラスに泊まると感じるのが、素朴さだ。フロントなどの対応は都心の一流ホテルのように洗練されているとは言い難いが、若いスタッフたちが懸命にもてなそうとする、その姿勢が伝わってくる。
中が共通の知人から頼まれて、山中と会ったのは7、8年前。庄内地方にホテルをつくりたいと相談を受けた。構想を聞いた中はその場で、「無理ですよ、これ」と即答した。
何のためにわざわざ庄内地方まで行くのか、集客はどうするのか。中がホテル経営に必要だと思ってきた要素がことごとく欠けていた。一体どうやって、この土地で持続的にホテル経営をしていこうというのか。中は思いとどまるよう、伝えたという。
「ただ、他の人だったら絶対にやらないような条件下でも、山中さんは『これ』と決めたら、情熱を持ってやってしまう。その後『助けてほしい』と何度も言われました。思い込むだけでなく、周囲をも巻き込む力もすごい」(中)
設計を依頼した建築家の坂茂にも、当初は思いとどまるように諭された。そもそも世界的な建築家に何かツテがあったのかと聞くと、「坂さんが僕の母校の慶應SFCで教えていたから、会ってくれると思って」という。どこまでも前向きなのだ。
飲んで意気投合、翌日退職を決め合流した記者
スイデンテラスでは地元の食材を使った食事やサウナがウリ。何日か滞在してもらえるような工夫もしている。
撮影:伊藤圭
巻き込まれたのは中だけではない。ヤマガタデザイン街づくり推進室長の長岡太郎(34)もその1人だ。
長岡はもともとNHKの記者だった。出身地の山形放送局で働いているときに、ヤマガタデザインの資金調達の会見を取材した。最初の山中の印象は決していいとは言えなかった。
「当時は今よりもっと尖っていて……。世の中に対して本質的な価値を生み出してやるみたいな情熱はあったんですが、計画の中身はまだ決まっていないことも多かった。本当にできるのかと、僕は冷ややかに見ていました」
それからまもなく、長岡は山中と鶴岡市内のカラオケスナックでばったり再会する。田んぼの中にホテルと教育施設をつくるという構想を山中は熱く語った。当時あったのは、坂茂による1枚の建築パースの全体図だけ。それでも、長岡の心は激しく揺り動かされたという。
「できるかどうか分からないことにこれだけ本気で取り組んでいる同世代の存在に衝撃を受けました。このチャレンジが世の中にとって価値になる。そして庄内地方でできれば、日本全体が変わるきっかけにもなると思ったんです」(長岡)
当時長岡はNHK入局6年目。提案した大型企画も採用されるなど、記者としてやりがいも感じ、辞めることなど考えたこともなかった。だが、山中がやろうとしている「世の中に本質的な価値を生み出すこと」は、自身がメディアを通してやりたいことじゃないのか。別れるときには「一緒にやろう」と握手をし、長岡は翌日上司に退職を申し出た。
スイデンテラスの開業当初、ベッドメイキングからタオル回収にまで奔走したのは長岡もだが、彼には別に大事な仕事があった。未経験の広報だ。取材する側からされる側へ。無名のホテルを知ってもらうために、別の取材で庄内地方を訪れたライターをつかまえて、建築中のホテルを見てもらった。
オープン時期は夏だったので、宣伝をしなくてもそこそこ予約は埋まった。だが、夏が過ぎると、予約はパッタリ止まった。当時は旅行会社や旅行サイトとも契約をしていなかったので、予約は自社サイトを通してのみ。旅行業界やホテル業界未経験の山中や長岡らは、予約の多くは宿泊予約サイト経由だということも分かっていなかった。長岡は「セールス・マネージャー」という肩書きの名刺を自分でつくって、東京などの旅行会社を回り出した。こうした地道な積み上げ、支配人の中による改革によって、今では年間5万人が訪れるホテルになった。
「地元のためになるのか」冷ややかな視線
それにしてもなぜ山中は未経験の分野に、挑戦しようとしたのか。
山中が庄内に移り住むきっかけは、バイオテクノロジーの研究・開発の拠点、鶴岡市のサイエンスパークにあるSpiber(スパイバー)への転職だったことは前回書いた。スパイバーが日本を代表するユニコーン企業、脱炭素時代の切り札である新素材企業として注目されるほどサイエンスパークの認知度も広がっていた。
だが、地元の人たちからは、サイエンスパークはどこか「浮いた」存在だったという。
当時のサイエンスパークは行政主導の開発が一段落し、その後の方向性を模索していた。人口が減り続ける地域で、これ以上税金を投入する行政の開発には賛否両論あった。前職が三井不動産ということで、山中に民間主導の開発ができないか相談が持ち込まれた。
撮影:伊藤圭
「三井不動産の仲間からは庄内地方には投資は難しいと言われていましたし、僕自身も前職の経験でそれはよく分かっていました。東京の大資本が投資を尻込みするような地方の方が日本には多いんです。であれば、自分でやるしかないと思ったんです」
山中は転職したばかりのスパイバーを数カ月で退職し、資本金10万円でヤマガタデザインを設立した。そして、サイエンスパーク隣の14ヘクタールの土地の取得をするべく、地権者の農家を回り始める。山中が構想自体に感銘を受けたサイエンスパークだったが、地元の人たちは冷ややかだった。「外から来た人が勝手にやっているだけ」「地元のためになるのか」。山中は、開発の前提として地元の人が喜んでくれるものを、という方針を固めた。
スイデンテラスにはレストランやスパ棟、会議室があり、宿泊しなくても地元の人は利用できる。何より、自分たちの住んでいる地域に「こんなホテルがあるから泊まりに来て」と言えれば、庄内地方を知ってもらう機会にもなる。山中はスイデンテラスを「コミュニティホテル」と呼んだ。
本当に欲しいものであれば成立する
キッズドームソライは、「天性を重視し個性を伸ばす」をモットーに、子どもの想像力の発展を後押しする教育施設だ。
撮影・伊藤圭
スイデンテラスが大人の交流施設だとすれば、ソライは子どもの交流施設だ。ソライという名前は、江戸時代に徳川吉宗の助言者だった儒教学者の荻生徂徠が確立し、庄内藩の教育の基本となった「徂徠学」に由来する。
山中自身3人の子どもの父親で、街づくりには地域の子育て環境が重要だということを自分ごととして感じていた。ソライは、お受験や偏差値、プログラミングなどの具体的なスキル取得中心の教育産業とは真逆の発想から成り立っている。子どもにとって本当に必要なことは、夢中になる体験を通して自分自身や創造力を育むことではないか。木の温もりが感じられるソライにはさまざまな遊具などの仕掛けがあるが、これも山中やソライのスタッフたちがどんな施設だったら子どもたちは楽しいだろうかを自分たちで考え、構想を固めたものだ。
ただ、こうした受験産業ではない教育に地元の人たちがどこまでお金を払ってくれるのかは未知数だった。
「それでも僕は、こういう教育施設が絶対に社会に必要だと思ったんです。農業もホテルも欲しいと思うものがビジネスとして成立しないのはおかしい。本当に欲しいものであれば、僕はどんなマーケットでも成立すると思っていますが、限られたマーケットで事業を成立させるためにも複合的に事業を組み合わせた方が持続性は高まります」(山中)
ソライは現在遊び場や学童の利用料金と、企業スポンサー、そして教育事業の収益を補完するための新電力事業「SORAIでんき」の収入で運営している。すでに年間1億円もの収入があり、数年後には黒字化も視野に入れる。さらにこの5月には、ソライを拠点としたフリースクール「SORAI SCHOOL(ソライスクール)」も開校する予定だ。
(敬称略・第3回に続く)
(▼第1回はこちら)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)
浜田敬子:1989年に朝日新聞社に入社。週刊朝日編集部などを経て、1999年からAERA編集部。副編集長などを経て2014年から編集長に就任。2017年3月末で朝日新聞社退社し、4月よりBusiness Insider Japan統括編集長に。2020年12月末に退任し、フリーランスのジャーナリストに。「羽鳥慎一モーニングショー」や「サンデーモーニング」などのコメンテーターや、ダイバーシティーや働き方改革についての講演なども行う。著書に『働く女子と罪悪感』。