撮影:伊藤圭
ヤマガタデザインの山中大介(36)が新卒時の就職先として三井不動産を選んだのは、1人ではできないスケールの大きい事業ができる会社に行きたいと思ったからだ。商社やデベロッパーを受け、面接では「一番最初に受かった会社に行きます」と言い続け、数日で内定をくれたのが三井不動産だった。
三井不動産が合理的に儲かる仕組みに疑問
三井不動産時代は「仕事ができた」と語る山中だが、どのような経緯で起業に向かっていったのだろうか。
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入社時、山中のビジネススキルはほぼゼロだったという。慶應義塾大学時代はアメフトに熱中していたため、Excelすら使えなかった。Excelに数式を入れると計算ができることを知らず、3カ月に1度の決算の際には、何千という項目を全て電卓で計算していた。
それでも強烈な違和感を感じていた。「みんな朝からしかめ面して、パソコンばかりたたいて何やってんの?」「本当に“仕事”をしているの?」と。早々に仕事って何だろう、会社って何だろうと考えるようになった。
山中が退社前に配属されていた部署は、全国の地方都市にショッピングモールを建設するための用地取得という“花形”部署だった。地元との交渉のために交際費もふんだんに使えた。「はっきり言って仕事ができた」という山中だが、すでにビジネスモデルとして確立され、合理的に三井不動産が「儲けられる」仕組みに、果たしてこのモデルが「地域を幸せにしているんだろうか」と思うようになる。もっと地域に直接価値を生み出すような事業は他の形ではないのかと。
たまたま友人の父親が鶴岡市のサイエンスパークにある慶大先端生命科学研究所所長の冨田勝だった。冨田はサイエンスパークを研究者や家族が住んでみたいと思えるような拠点にしたいと考えていた。その縁もあり、山中はバイオベンチャーのSpiber(スパイバー)に転職する。
「スパイバーに転職した時にスイッチが入った」
スパイバーが一般にも知られるようになったのが、アウトドアブランドのザ・ノース・フェイスと共同開発した「ムーン・パーカ」だ。表地の素材に「構造タンパク質」を採用している。
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山中は世の中を変えようとする人は3%だという。その3%の人に出会えれば、世の中に変化は起こせる。山中にとって冨田もその3%の人だが、転職先のスパイバーの創業者、関山和秀との出会いも大きかった。
転職を決める前、山中は関山と鶴岡駅前の居酒屋に出かけた。そこでどういう社会をつくりたいのか、社会にとって価値とは何かという議論になった。
「社会人になって初めて本音ベースで話せたんです。ここでだったら学べるかもしれないと転職を決意しました。関山さんや共同創業者の菅原(潤一)さんたちが、世の中に価値を生み出すために、リスクを背負って挑戦している、その姿に感化されました」
山中は高校時代に親友から薦められたという1冊の本を大事にしている。故・カーネギーメロン教授・ランディ・パウシュの『最後の授業——ぼくの命があるうちに』。バーチャルリアリティの第一人者で、コンピューターサイエンスの世界的権威でもあったパウシュが、がんで余命宣告を受けた後に行った、大学での最後の講演をまとめたものだ。山中はこの本を大学時代に読んで、衝撃を受けたという。
「その時以降、今でもこの本に教えられます。人間はいつ死ぬかわからない。だからいつ死んでも後悔しないでいいように生きようと思わせてくれる。死ぬ時に『ああ、楽しかった』と思えるためには、普段から何のために生きているんだろう、目の前にある環境で何ができるのか、徹底して考えてきたんです。でも僕もずっとそうだったわけでなく、スパイバーに転職した時にスイッチが入ったんです」
山中は自身が一緒に働くメンバーを選ぶ時に重視していることは、運と縁だという。縁というのは、どういう人と付き合っているのかによって、その人の成長も促されると思っているから。そして縁に恵まれている人は、人に好かれ、人との関係をちゃんと作っている人だからだという。
一方の運は、実際に運がいいかどうかよりも、自分のことを運がいいと思えるかどうかが大事なのだという。同じ課題に直面しても、それをポジティブに受け止められるかどうか。そういう人は苦しいことがあっても踏ん張れると思っている。
オランダ名門クラブのユースに合格
慶應義塾高校時代の山中。海外で育った小学校時代からサッカーを続け、県内でも有名な選手だった。
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山中は、父親の仕事の関係で小学校時代をオランダとイギリスで過ごした。当時、オランダではアジア人に対する偏見が厳しく、学校は鉄格子で囲まれていた。スクールバスで登校する時には、一斉に地元の子どもたちから石が投げられた。
そんな中でもサッカーが上手ければ、人種や国籍に限らずリスペクトされた。サッカー強豪国オランダならではだ。山中はオランダ随一の名門クラブ「アヤックス」のユースの試験に受かった。サッカーが自分自身を支えるアイデンティティだった。
日本に帰国後もサッカーを続け、一時はプロまで夢見ていたが、成長期が遅かったため、体は華奢だった。中学に入り、ボールのサイズが大きくなると、スピードに乗ってドリブルで相手を抜いていく得意のスタイルを貫けなくなり、高校進学時にはどこからもサッカー推薦がもらえなかった。
慶應義塾高校に進学後、体格的にも成長した後は、神奈川県内でも有名な選手になった。だが、サッカーでプロに進むという道を選ばなかった。
「あの時に自分の可能性を信じ続けられていれば、もしかしたらプロの可能性もあったかもしれないのですが、僕は自分に言い訳をして、大学進学を選んだんです」(山中)
進学後はきっぱりとサッカーをやめて、自分の中での「細い」という体格的なコンプレックスを克服するために、体育会のアメフト部に入部し、日本代表に選ばれるまでになる。
スペシャリストと事業を作る面白さ
慶応アメフト部時代の山中。スポーツ漬けだった学生時代だが、社会人になると同時にそのことがコンプレックスにもなった。
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就職時にコンプレックスになったのは、大学までスポーツ漬けだったために、「勉強したことがない」ということだった。会社に入ったばかりの頃は、Excelが使えないばかりか、社内の他のメンバーが話していることが全く理解できなかった。ずっと「勉強してこなかった」コンプレックスを抱き続けるのは嫌だった。
最初に配属されたのは、ショッピングモールの運営管理をする部署。期待されている新人は、用地買収や財務などに配属される。山中の部署は管理業務なので、クリエイティブな仕事ではない。だが社会人としての基礎はこの運営事業部で叩き込まれたという。
ショッピングモールはテナントに入る各店舗が売り上げを伸ばさないと、開発したデベロッパーも「儲からない」。アパレルなど全然興味のない分野について勉強して、どうしたら売り上げを増やせるのか、店舗と一緒に考えた。当然相手からの信頼も得なければならない。
「モールの運営会社にはマーチャンダイニングのプロが多く、本当に勉強になりました。何より自分が知らない領域のコアな情報や考え方をつかんで、その道のスペシャリストと一緒に事業を作っていくという感覚が面白く、この時の体験は今に生きています」(山中)
最終回は、山中が日本の地方の課題を解決する道筋をどう考えているのか、を伝えよう。
(敬称略・第4回に続く▼)
(▼第1回はこちら)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)
浜田敬子:1989年に朝日新聞社に入社。週刊朝日編集部などを経て、1999年からAERA編集部。副編集長などを経て2014年から編集長に就任。2017年3月末で朝日新聞社退社し、4月よりBusiness Insider Japan統括編集長に。2020年12月末に退任し、フリーランスのジャーナリストに。「羽鳥慎一モーニングショー」や「サンデーモーニング」などのコメンテーターや、ダイバーシティーや働き方改革についての講演なども行う。著書に『働く女子と罪悪感』。