写真:(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
日本時間の3月28日、いよいよ米アカデミー賞が発表されます。
注目は何といっても、日本映画で初となる作品賞、監督賞ほか4部門にノミネートされた『ドライブ・マイ・カー』でしょう。
主人公の家福悠介演じる西島秀俊さんが人目をはばからず涙するこの作品。「今の時代に男性を描くとすれば、弱さを描く必要を感じた」と濱口竜介監督はコメントしています。
男性学の立場から見ると、本作のヒットの要因はどこにあるのでしょうか。男性だからこそ抱える問題に着目した「男性学」研究の第一人者として知られる、田中俊之先生に聞きました。
「ケアする男性」は世界的な潮流
最近の映画界で「新しい男性像」はなかなか描かれてこなかった、と田中教授は指摘する。
写真:(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
──『ドライブ・マイ・カー』は世界中でヒットし、高い評価を受けています。先生はこの理由をどう見られていますか。
田中:「ケア」を題材にしていることがやはりヒットの原因でしょう。本作のストーリーの大枠は、妻と子を失った男性の主人公が、同じく大切な人を失った人たちと悲しみを共有し合うというものです。
ディズニー映画『アナと雪の女王』が象徴しているように、女性に対する最近のメッセージは「もっと利己的になりなさい」というものでした。今までの女性は夫に尽くし、子どもに尽くし、ずっと人のために生きてきました。なので、利己的になることで人生に幅が出る。
一方、男性の描かれ方は今まで限定されていた。この映画が何を示したかというと「(男性も)利他的になれ」ということだと思います。主人公の家福は、社会的地位もあり、合理的にものを考える人間です。集団の長として演劇を演出し、他人を支配できる存在でもある。
それゆえに、自分と愛し合っているはずの妻が若く野放図な高槻の他、複数の男性と自宅で浮気をしていることを理解できず、その現実を受け入れられない。
家福はある意味、現代社会における男性の象徴です。その家福が現実を受け入れて「もっと正しく傷つくべきだった」と反省し、利他へ開かれていく。
それは世界的な潮流で、ケアメン、ケアマスキュリンという概念に注目が集まっていることと符合します。
ケアメン、ケアマスキュリン:育児や家事、介護や看護などのケア労働を担う男性、またそうした男性のあり方のこと。
3年前、「男なら多少荒々しくても良い」というイメージを打ち出して来たカミソリのジレット社が、ケンカやセクシャルハラスメントに反対する動画CMを発表し、「有害な男性性」を否定したものとして話題になりました。ケアする男性像は、こうした現象にも現れています。
カミソリ大手のジレット社は、従来の「男性らしさ」に疑問を呈するCMを発表し、大きな話題を呼んだ。
動画:Guardian News
村上春樹・原作とは違う“利他”エンド
── 家福は現代社会における男性の象徴、という指摘は興味深いです。どのようなシーンからそうした男性の葛藤が読み取れるのでしょうか。
田中:家福は終盤で「正しく傷つくべきだった」と言います。この言葉は「自分の傷」に気が付かず、そして向き合えなかった、ということの裏返しだと思います。
妻の浮気相手だった高槻耕史(岡田将生)は、若くハンサムな男であるものの、女性に手が早く、他人に暴力を振るう短絡的な人間として描かれます。
「元女優で脚本家の、知性が高いはずの妻が、なぜ高槻のような若く分別もない人間と浮気しているのか」が理解できなかったと思うんです。
それで「何かおかしなことが起こっている」「彼女の中に特殊な何かがあるに違いない」という勘繰りをしてしまう。実際、家福は「彼女の心の奥底にはどす黒い何かが渦巻いていて踏み込めない」というニュアンスの言葉を発しています。
── 家福は合理的な男性だからこそ、妻が浮気する何かしらの合理的な理由を求めてしまっていた、と。
田中:そして、最後にドライバーの渡利みさき(三浦透子)から「謎も何もない。あなたの妻はあなたを愛していて、なおかつ他の男たちとセックスしただけだった。そのことをもっと理解すべきだったのでは」と指摘される。
つまり、「あなたの理解している妻」ではなく、妻である「音」のことをもっと真っ直ぐ見るべきだったのでは、という非常に当たり前のことを言われてしまうんです。
村上春樹作品に共通しているのは「女性が唐突にいなくなる」というシチュエーションですが、女性の側から見るとおそらく唐突ではない。
村上春樹作品においてはそれはもっと運命的で不可避的なものだと思います。ですが、現実的な社会生活の場面では、「あなたは私のことをずっと理解してくれなかった」という言い分が女性にはあるはずです。
映画のこのシーンは男性全般の傾向を表していると感じました。
── ところで、先生は映画『ドライブ・マイ・カー』は原作、および従来の村上春樹作品とは異なる趣の作品という印象を持ったそうですね。どの部分からそう感じられたのですか?
田中:村上春樹作品の主題は、「父性原理の否定」だと思っています。原作の短編『ドライブ・マイ・カー』でも映画でも、高槻は「本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない」と神がかり的な感じで家福に語りかけています。
この言葉は、村上春樹作品に頻繁に登場する「自分の中の井戸を掘る」というモチーフの表れであり、「徹底的に自分を尊重する=利己的になれ」というものです。
ところが、『ドライブ・マイ・カー』での家福は、最後は「利他」に開かれている。ここが原作と異なるところだと思います。傷付いた過去を持った人たちが自分の傷を吐露し合うことで心のケアをしているところが違う。
「その言い方、一歩間違えばモラハラだよ」
「男性学」研究を専門とする、大正大学心理学部准教授の田中俊之教授。
撮影:西山里緒
── そもそもですが、家福はなぜ妻の音を理解できていなかったのでしょうか。それは男性特有のプライドが邪魔をしていたからでしょうか。
田中:こういうタイプの男性はやはり多いです。男性学ではプライドと見栄を区別しています。見栄というのは、例えば自分より学歴や年収が高い人を見て、「あいつにくらべて俺は優れている/劣っている」と思うことです。
ところが、プライドは違う。男性でも女性でも必要なもので、例えば40代半ばになれば、自分の仕事のプライドを持てる人が増えてくる。
自分なりのやり方が確立しているから、人と意見が対立しても「自分の柱はここだから」と逆に他人の意見を尊重できる。つまりプライドのある人とは自分の納得のいく基準を持っている人です。
ところが、家福は高槻を自分より格下だと思っている。自分の方が優れているという見栄があるから、妻が高槻とセックスしているということが耐えられず、そのことで頭がいっぱいになってしまい、浮気を目撃しながらも何もできなかった。
他人との比較でしか物事を捉えられないのは、自分と向き合えない人の典型的な特徴だと思います。
また、家福は音の車の運転の仕方について、「その言い方、一歩間違えばモラハラだよ」とも指摘されています。
自分自身をモラハラ、つまり、妻に対して高圧的な態度を取る男だとは思っていない。「それってセクハラっぽいですよ」と言われても、その指摘の発言を「ギャグ」と受け止めてしまうおじさんと同じです。
見栄っ張りの人は自分と向き合えないので、自分のモラハラやセクハラに気が付きません。
なぜ男性は「ありのまま」でいられない?
男性が自分と向き合えない背景には、性別役割分業が「思考停止」型の男性を生んでしまう構造がある、と田中教授は指摘する。
写真:(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
── 家福には、「高槻より自分の方が上なのに」という“見栄”があった。なぜ、男性は「ありのままの自分」を直視できないのでしょうか。
田中:男性学的な視点から説明すると、それは男性のせいというわけではなく、そうなってしまっているという構造があります。日本は性別役割分業がとりわけ強い国です。そして、性別役割分業は「男性に物を考えさせない」という点に特徴があります。
男性は、大学を卒業して「60歳まで週5日1日10時間働かなくてはいけない」という刷り込みが長くありました。例えば「男なのに就職できないなんて」「男なのに40代無職なんて」という認識は今でも浸透していますよね。
なぜそうなってしまったかというと、社会全体が教育を通じて「いい学校→いい会社→高所得」が男性のあるべき姿という「考えさせない訓練」をしてきたからです。
韓国もそうですが、競争社会なので「いい学校に行きなさい」と。「何でいい学校行かなきゃいけないのか?」と問われると、「大企業に入れる」と。「なぜ大企業に入るといいの?」と問われたら、「お給料がたくさんもらえるよ」と。
── そこには「大学で何を勉強したいのか」「会社で何をしたいのか」の根本的な目的がない。
田中:そうした、思考停止型の「優秀」な人間ができ上がると、自分より劣位にあるべき人間が、そうではない行動に出ると自分の理解の範ちゅうを超えてしまう。つまり、劇中の家福のように妻の浮気現場を目撃しても、怒ることも話し合うこともできなくなってしまうんです。
自分自身の「色眼鏡」に気が付いて
映画の中で主人公の家福は自分の弱さと向き合い、利他へと開かれていく。
写真:(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
── 自分を真っ直ぐに見ることができなかった家福は、最後に「弱さを認める強さ」を身に付けたように思います。このマインドセットには何が必要なのでしょうか。
田中:まずは、「自分が色眼鏡を掛けていること」を認識し、そして「どのタイプの色眼鏡を掛けているのか」についても認識することだと思います。
家福は自分自身が「中年男性で、ある程度社会的な地位がある人固有の色眼鏡を掛けている」という視点を持てませんでした。
合理的な思考をして、人をコントロールしようとするような男性は、そもそも自分を含めた人間関係の機微について理解できていない人も多い。また実は傷ついていて救いを求めている場合もある。この映画の主人公の家福もそうでしょう。
家福から何を学ぶべきか。それは男性が全般として、自分の性別が物の見方や行動、生き方に影響を与えているという視点を持ち得ない、そのことを自覚すべきだ、ということになるでしょう。
その想像力は女性からすると「どうしてそんな当たり前のことを男性は考えられないのか」という程度のものでしょうけれど。
── そうした「想像力の欠如」は社会全体のあらゆるシーンで露呈しているようにも思えます。
田中:例えば、このコロナ禍にあって、「経済を回す」というキーワードは子育てをしている人からするとよくわからない言葉です。
私自身小さい子どもが2人いますが、オミクロン株が出てきてからすぐに保育園は休みになるし、そもそも自分も含めた家族が感染する確率も高まっているし、生きた心地がしません。生活が回っていないのに、どうやって経済を回すのか。
「経済を回す」と声高に叫ぶ人たちの妻が、そのことに愛想をつかして家を出て行ったとしても、彼らはなぜ妻が出て行ったのかわからないでしょう。彼らの主観的な現実から見れば、「唐突に妻がいなくなった」ということになるのではないでしょうか。
また、現在、性別役割分担を解消し、ダイバーシティを推進して女性活躍社会を作ろうという流れがありますが「上から目線」で呼び掛けても意味がありません。実際に、共働きをすれば、確実に格差は広がります。
社会学者の筒井淳也先生がご指摘されていることですが、年収1000万円のカップルの世帯年収は2000万円になる。一方で、年収300万円では600万円です。男性だけ働いている場合の差は700万円でしたが、共働き化によって1400万円も世帯収入が違ってしまうのです。
── そこにも想像力の欠如があると。
田中:考えてもみてください、女性も男性と同じように働くということは、裏返せば(男女ともに)1人何役も強いられるということでもあります。一人がお父さん、お母さんもやりつつ、会社でも働き、介護もやって、余暇も楽しもうと。言うのは簡単ですが、本当に実現できるのか。
共働きの世帯のインタビューをしていると「回らない」という言葉がキーワードです。仕事もあるし家事もあるし、もう回らない。
ひょっとしたら「1人何役もやる」ことが、人の可能性を広げるのではなくて、苦痛をもたらしているだけかも知れません。なので、女性活躍社会がもたらす「格差を広げかねない」ということと「1人何役もやる」という状態が本当に可能なのか、もっと考えないといけないのではないでしょうか。
男性が、弱さに向き合った先には
写真:(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
── コロナ禍で「想像力の欠如」も明らかになっている今だからこそ、ケアや利他という観点から、私たちはこの映画によって何を学ぶべきなのでしょうか。
田中:日本でもアメリカでも、男性が男性ならではの悩みと葛藤を吐露しケアし合う、メンズリブという取り組みがあります。
例えば、暴力を振るってしまった、男性なのにDVを受けた、人前で泣きたかったのに泣けなかった、などを吐露し合い、気持ちをラクにする。
日本では1990年代には注目され、以降も活動は続いているものの、社会的な関心を集めることはできていません。それは、やはり日本はマッチョな社会だからです。男性が男性の抱える問題を直視することが、「弱さ」として認識されてしまっているのでしょう。
そして、そのマッチョな社会というのは、高度成長期以降、常に経済中心であり、そして、現在ではそこからもっと進んだ新自由主義的な価値観に基づいた価値観が支えているものだと思います。
他人を傷つけても、自分が傷つけられても自己責任として処理され、誰も振り向いてくれないような過酷さが現代の社会にはあります。
なので、「男性は自分の弱さについて向き合うべき」という濱口竜介監督の姿勢は非常に重要なものです。他者の傷について考えられるようになるためには、まずは自分の傷を理解する必要がある。
そして、新自由主義的な「現状の秩序の打破」という観点から考えても男性は自らの傷に向き合わなくてはならない。
もちろん、向き合った後に社会がどうなるのかということも考えて行かなくてはならないのではないでしょうか。
今までは「男性が抱える傷」についてあまり論じられてきませんでした。それがまず問題です。なので、この映画をきっかけに考える人が増えればそれはとてもいいことだし、世界も良い方向へ変わっていくのではないでしょうか。
田中俊之:大正大学心理社会学部准教授。1975年、東京都生まれ。博士(社会学)。2017年より現職。男性だからこそ抱える問題に着目した「男性学」研究の第一人者として各メディアで活躍するほか、行政機関などにおいて男女共同参画社会の推進に取り組む。近著に、『男子が10代のうちに考えておきたいこと』(岩波書店)など。
(聞き手・構成、熊野雅恵、編集・西山里緒)