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ロシアがウクライナに侵攻して1カ月以上が経つ。アメリカ政府の見通しでは72時間以内に陥落すると言われていたキーウ(キエフ)は今もウクライナ領のままで、両国による停戦交渉も設けられているが、どのような展開になろうとも、世界が侵攻前の状態になることは考えにくく、先行きは見通せない。
戦争は、これまでこの連載で書いてきた社会のイシューを加速度的に悪化させる。市中の戦闘は現地に暮らす人たちの医療や食糧へのアクセスを妨げ、人道的な危機的状況を作り出している。戦闘や強制的な避難によって真っ先に脅かされたのは、子ども、老人、障害者、女性などで、家を追われた新規のウクライナ難民の数は400万人を超えた(3月30日現在)。そして既存のジェンダー規範に沿って、成人の男性たちは戦いに駆り出されている。
影響を受けるのは戦地の当事者だけではない。グローバリゼーション時代にヨーロッパと旧ソ連領地の境に存在するウクライナが戦地になったことで、国際的な交通網の一部が遮断され、物や食糧のサプライチェーンにも影響が出ている。さらに欧米諸国をはじめ、多くの国が資源国であるロシアに対する経済制裁を敷いたため、エネルギー市場は乱高下を繰り返している。
これによって侵攻前からパンデミックによってすでに上昇基調にあった世界各地のガソリン価格も当然上がり、ガソリン代が上がれば物価は必然的に押し上げられる。金属をはじめとする商品相場も上昇し、さまざまな業界に広く影響を及ぼし始めている。
拡散された企業リストの波紋
現在マクドナルドはロシアで展開していた全店舗で事業を停止している。
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こうした現状が示すのは、グローバリゼーションによってできた複雑なシステムの綻びだ。パンデミックの初期に起きたサプライチェーンの混乱が、再び規模を拡大している。こうした事態が起きるたびに、製造業の可能な限りのローカリゼーションが叫ばれ、製造拠点をより近いところに移す動きもある程度見られるが、世界全体を見ると、一度できあがってしまった巨大で複雑なシステムを書き換えることは容易なことではない。
比較的あっさり完遂した2014年のロシアによるクリミア侵攻と、今回のウクライナ侵攻の最大の違いは、国際社会の反応だろう。ゼレンスキー大統領率いるウクライナ政府のコミュニケーション作戦が功を奏していることもあるが、経済制裁の規模や経済界からの反応の速さが圧倒的に違った。
これまで中立を貫いてきたスイスがロシア関係の資産を凍結したことや、エクソンモービルやBPといったエネルギー企業が早々とロシア企業への投資を引き揚げたこと、情報規制に腰の重かったメタ(旧フェイスブック)、YouTubeを運営するグーグル、ツイッターなどがロシアの国営メディアの関連アカウントのマネタイズ機能を停止したり、アカウント自体を停止・凍結したことも、特筆すべきポイントである。逆にAirbnbやAT&Tは、ウクライナへの無料サービス提供を発表した。
企業の社会責任を専門とするイエール大学のスクール・オブ・マネジメントのジェフリー・ソネンフェルド教授は、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった直後から、これまでロシアで事業を展開してきたグローバル企業の反応をリストにまとめ、更新し続けている。リストを発表した2月27日時点では450以上の企業の反応を「撤退」と「事業継続」の2カテゴリーに分けていたが、その後リストを発展させ、
- 事業継続(グレードF)
- 新規の投資/開発見合わせ(グレードD)
- 事業縮小(グレードC)
- 事業停止(グレードB)
- 撤退(グレードA)
の5段階に分けた。3月末時点で、1は43社、2が58社、3が35社、4が194社、5が174社となっている。
ソネンフェルド教授とリサーチャーたちがまとめたこのリストが、インターネットで拡散されたり、メディアに取り上げられるようになったのが3月6日頃。これを受けて、事業継続の意思を示していたスターバックス、マクドナルド、コカ・コーラなどが4の事業停止を決めたなど、リストの影響力は大きい。ロシアでの事業を継続する企業の株価は、軒並み下落していることを見ても、社会責任の重みが企業の評価額を左右する時代が来たことを示唆している。
これまで経済制裁は効果が出るにも時間がかかり、その効果も限定的だと言われていたが、今回のような広範にわたる迅速な企業の決断がロシア経済に与えるダメージは必至で、ロシアは早ければ4月にもリセッション(景気後退局面)に陥ると言われている。
その一方で、制裁のダメージは西側企業にも及ぶ。撤退や事業停止による損失だけでなく、ロシアで調達していた資材などを他で賄わなければならなくなる。期待されていたヨーロッパの「エンデミック」(パンデミックの最終段階)における景気回復局面は、世界的なインフレやサプライチェーンの混乱、予想されるロシアの経済危機、ウクライナからの難民危機に圧迫されて期待しにくくなってきたし、ヨーロッパがリセッションに陥ると、当然アメリカに、そして世界中に波及するだろう。
金属相場高騰でEV普及にも影響
コロナ後の需要増に加えて、今回の戦争でさらに高騰が予想される資源。再エネへの転換は進むか。
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もうひとつ大きな問題がある。それは戦争によって、急務だったはずの気候危機の対策が大きく後れをとる可能性があるということだ。
侵攻から1週間後の3月1日に行われたバイデン大統領の一般教書演説のかなりの部分がウクライナとロシアの話題に割かれたのは当然だとしても、気候危機がほとんど触れられなかったことに既視感を持った。
2001年9月11日に同時多発テロが起きる前、大統領選挙に負けたアル・ゴア元副大統領は、「地球は熱を出している」とお決まりのフレーズでことあるごとに温暖化の話題を出していた。当時はグローバリゼーションの夜明け時代で、大量生産の大手ブランドが国内外で使う工場の劣悪な労働環境の改善を求める「反スウェットショップ運動」が全盛だった。
こうした問題も同時多発テロが起き、世の中の最優先事項が変わると、水に流されるように消えていってしまった。テロによって、その後のアメリカのアフガニスタンやイラクの侵攻によって、気候変動のアクティビズムや労働運動は、20年近く後れをとったように思う。
アメリカは3月24日、これまでロシアに依存してきたため、エネルギー供給が圧迫されるEUに対して、液化天然ガス(LNG)の輸出量を大幅に増加させることを発表した。EU諸国のロシア依存からの脱却を目指すものだが、これまで気候変動対策の見地から目指されてきたガスからの脱却は遠くなる。
またニッケル、コバルト、プラチナ、パラジウムといった金属の相場が大きく上がっていることから、電気自動車のバッテリーの製造コストも今後さらに上昇すると見られ、気候危機対策の大きな柱のひとつである電気自動車の普及も減速する見込みだ。そして戦争による破壊行為やエネルギー消費が、短期的にも長期的にも温室ガスの排出を加速度的に増やすことは言うまでもない。
エネルギー危機は再エネ転換を加速させるか
こうやって今回の侵攻の影響を考えると、市井の人々の生活を圧迫し、ようやく進み始めていた進歩を阻む不安定要素に溢れていて、明るい材料はほとんど見えない。
唯一思いつくのは、グローバル企業が世論に耳を傾けなければならない時代が到来した、ということだ。ロシアによる侵攻は、多くの国家や企業に「中立」の立場を捨てることを強いた。長期的な影響は未知数だが、世論や消費者の声にはパワーがあることも明確になった。だからこそ、戦争を理由に気候変動対策のコースから外れるのではなく、より持続性の高い社会のあり方を目指すために声を上げていかなければならない。
この原稿を書いている最中に、アメリカを代表する投資家のひとりで、資産運用会社ブラックロックのラリー・フィンクCEOが顧客への書簡を公表した。10兆ドル規模の資産を管理するフィンク氏は、ESG投資や社会的責任投資の提唱者で、気候変動対策を進めない企業から投資を引き揚げるなどして、再生エネルギーへの転換を推し進めてきた。
フィンク氏はこの書簡の中で、1990年代に始まったグローバリゼーションがロシアによるウクライナ侵攻で事実上終わったとの見方を示した上で、既存のエネルギー価格の上昇が再エネへの転換を加速させること、製造業は不安定要素が比較的少ない生産国や国内に移り、製造業のコストは上昇するが、これが低賃金労働者の賃金を押し上げるとの見解を表明した。
フィンク氏の見方は楽観的すぎるとも思えるが、企業の方針に影響を及ぼすことのできる立場から生まれたものでもある。戦争が人工の悲劇であることは間違いないが、この新しい現実に世界が調整する中で、必要な改革が進むことを願ってやまない。
(文・佐久間裕美子、編集・浜田敬子)
佐久間裕美子:1973年生まれ。文筆家。慶應義塾大学卒業、イェール大学大学院修士課程修了。1996年に渡米し、1998年よりニューヨーク在住。出版社、通信社勤務を経て2003年に独立。カルチャー、ファッションから政治、社会問題など幅広い分野で、インタビュー記事、ルポ、紀行文などを執筆。著書に『真面目にマリファナの話をしよう』『ヒップな生活革命』、翻訳書に『テロリストの息子』など。ポッドキャスト「こんにちは未来」「もしもし世界」の配信や『SakumagZine』の発行、ニュースレター「Sakumag」の発信といった活動も続けている。