インクルーシブブランド「IKOU」を手がけるHalu代表取締役の松本友理さん(37)。
撮影:伊藤圭
「じゃ〜〜〜〜んけ〜〜〜〜ん……」
猛暑で有名な夏の京都。冷房の効いた保育園の室内で、ゆっくりと、5歳の男の子2人の小さな拳が上下する。普通のじゃんけんより明らかにスローテンポな動きだった。
暑さも緩む夕暮れ時に息子を迎えに行った松本友理さんは、保育士からその光景について伝え聞いた時に「本当に嬉しいエピソードですね」と顔をほころばせた。
感慨深かったのには理由がある。じゃんけんをしていた息子には生まれつきの運動機能障がいがあった。それゆえに全ての動作がゆっくりなのだ。ただし、もう一人は健常児の同級生。普段は活発な子だが、息子と遊ぶときにはごく自然に、こうしてペースを合わせてくれていた。ただ友達の個性に付き合っているかのように。
「今は社会の構造的に、障がいのある子どもとそうでない子が交わるきっかけがあまりありません。でも、子どもが小さいうちにそういう機会をいかに自然な形でつくれるかが、インクルーシブな社会の実現にとっては、すごく大事だと思うんです」(松本さん)
そう話す松本さんは、2022年3月に立ち上げたインクルーシブブランド「IKOU(イコウ)」を手がける。だがほんの3年前までは、まさか自分が起業することになるとは露ほども思ってもいなかった。
世界戦略車「カローラ」の商品企画を担当
トヨタ時代、松本さんの担当車種は「カローラ」だった。国ごとに仕様が異なり、北米仕様なら「スポーティーなセダン」という立ち位置だ。
Roman Korotkov/ShutterStock
松本さんは上智大学を卒業後、2007年に新卒でトヨタ自動車に入社。希望していた商品企画に配属され、世界約150カ国で販売される「カローラ」を担当した。松本さんの役割は、営業サイドの意見を取りまとめ、技術部とどういう車にしていくのか、作り上げていくことだった。
「カローラは世界中で同じ車名で販売されていますが、国ごとに価格帯やユーザー層、ニーズは異なります。例えば、中国市場では車は所有者のメンツを表すため、カローラも車の『顔』である正面部分を高級感ある作りにする必要があります。対して、北米ではスポーティーなセダンという立ち位置です」(松本さん)
とはいえ、コストを考えれば無限にバリエーションを増やす訳にはいかない。いかに共通化できる部分を作りつつ、世界中の人に満足してもらえるような車を作れるかが松本さんの勝負所だった。
トヨタ時代、カナダで研修をしていた時の松本さん。
提供:Halu
学生時代からものづくりを通じて社会に貢献することに関心があった松本さんにとって、心から愛せる仕事に全力で取り組めるトヨタは、願ってもない環境だった。入社から9年間、やりがいに満ちた楽しい日々を送り、出産後は1年の育児休業を経て、現場復帰するつもりだった。
それだけに、2016年のあの日の出来事はまさに晴天の霹靂だった。
育休中の京都の病院で、当時31歳の松本さんが息子の担当医に告げられたのは、生後8カ月の息子が脳性まひによる運動機能障がいを持っているということだった。
確かに息子には発達に遅れが見られたため、早期に集中的なリハビリを受け、改善するために入院していた。しかし皮肉にも、診断名が付いたのは退院当日。ようやく日常に戻れる解放感にあふれていた松本さんは、文字通り「ハンマーで頭を殴られたような」(松本さん)衝撃に動けなくなった。
診断結果は、これから数年におよぶリハビリが必要になることを意味する。これまで描いてきた順風満帆なキャリアイメージが突然崩れ去った瞬間だった。
社会と障がい児育児の深い「溝」
松本さんの息子が座るのは、障がい児専用の姿勢を保持するイス。四肢や体幹の動きに障がいのある子どもは1日の多くの時間をこのイスに座って過ごすことになる。
提供:Halu
松本さんはフルタイムで働く夫と相談の上、リハビリに集中するために母子2人だけで病院の近くに移り住んだ。解剖学の本を買って読み、人体や筋肉の構造を勉強。3年間にわたってリハビリに集中する生活が始まった。
その過程で、障がい児育児を取り巻く環境に疑問を抱く。障がい児が使えるベビー用品の選択肢が、極端に限られているのだ。特に課題を感じたのが、障がい児専用の姿勢を保持するイスだった。
「ご飯を食べたり、遊んだりする上では十分に機能するのですが、そもそも一つずつカスタムメイドされるので、発注から入手までは約半年かかり、助成金なしにはとても手の届かない高額な製品でした。加えて、大きくて重量もあるので家の中での使用が前提で、外出先では使えない。外に出るためには、車椅子かバギーを使うしかないので、行ける場所も限定されていました」(松本さん)
結果として、障がいのある子どもとその親は家にこもりがちになり、健常児と交わる機会はもちろん、社会全体との接点もだんだんとなくなっていく。そして社会の側もまた、障がいのある人を認知し、理解を深める機会を失うことになる。
「これまで生きていた世界と違うところに私は来てしまったんだなと強く思いました」(松本さん)
どちらにとっても明らかにマイナスなこの状況を受け入れるしかないのか—— 。
悩む松本さんの脳裏をかすめたのが、トヨタ時代に体験した「エコカー」の広がりだった。
ものづくりには暮らしや意識を変える力がある
1997年から製造・発売している「プリウス」は世界初の量産ハイブリッド専用車として現在も人気を博す。
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地球温暖化をはじめとした環境問題は、2000年前後からメディアでも盛んに取り上げられるようになったが、「大事なんだろうけれど、個人がどうアプローチしたらいいか分からない」課題でもあった。
「でも、2009年頃からエコカー減税やエコカー補助金が始まって、売れる車のラインナップがガラッと変わったのを肌で感じたんです。
エコカーやハイブリッドカーが新車購入における当たり前の選択肢になって、いざ乗ってみれば燃費の良い運転の仕方を車がサジェストしてくれる。車という一つのプロダクトによって、環境問題のような自分から遠いところにあった課題が、日々の暮らしの中に接点を持っていったんです」(松本さん)
それは松本さんにとって、「ものづくりには人々の暮らしや意識を変える力がある」という大きな気づきをもたらした。
「障がい児育児を取り巻く現状は、当事者にならないとなかなか気付きません。私はそこに気付いていて、かつ、トヨタという企業でものづくりに関わってきた。ならば自分の使命として、この社会課題に取り組まなくてはいけないのではないか。そういう思いが徐々に募っていきました」(松本さん)
さらに言えば、健常児であっても、カフェやレストラン、スタジアムなど、キッズチェアが用意されておらず行動範囲が制限されるシーンはある。ならば、障がいのある子もない子も、制限なく外出できて、同じ場所で交われるようなイスを作れないだろうか—— 。
構想は広がったが、かといって、自分自身にはプロダクトを作る技術がない。もしやるなら誰かの手を借りる必要があるが、この課題を理解し、使い手の気持ちに寄り添った人間中心主義的なアプローチができるパートナーは誰だろう?
松本さんの頭に真っ先に思い浮かんだのは、アップルの最初のマウスをデザインしたことでも知られる世界的なデザインコンサルティング会社、IDEO(アイディオ)だった。
30分間の「全力プレゼン」
IDEOの日本法人は表参道にある。駅前の大きな十字路を見下ろすガラス張りの空間で松本さんはプレゼンを行った。
IDEO Tokyo公式サイトよりキャプチャ
IDEOは1991年にアメリカ・カリフォルニアで創業し、日本を含め世界9カ国に拠点を置く。デザイナーはもちろん、建築家やデータサイエンティストなど700人超のスペシャリストを擁し、日本でも広く知られるようになった「デザイン思考」の伝道者的な存在だ。
松本さんはIDEOについて過去に本や雑誌を読んでいたこともあり、「彼らだったら、きっと理解してくれるはずだ!という一方的な思い」(松本さん)を募らせていった。幸運にも、IDEOとの間接的なつながりもあった。トヨタ時代の先輩がIDEO日本法人の立ち上げメンバーだったのだ。
松本さんは意を決してその先輩にMessengerで連絡をとり、息子の状況やイスの構想を説明した。先輩からは「デザイナーたちは世の中にポジティブなインパクトを与えることに情熱を燃やす人たち。彼らにプレゼンテーションする機会を作るから、まずはアイデアを伝えてみたら?」と前向きな提案をもらった。
出産から3年が過ぎた2019年の春、京都から新幹線に乗って、高級ファッションブランドが立ち並ぶ表参道の大通りにあるIDEO Tokyoが入居するビルを訪れる。街並みを見下ろすことができる高層階のガラス張りのスペースで昼下がりの光を浴びながら、松本さんはIDEOの3人のインダストリアルデザイナーを相手に30分間、全力のプレゼンテーションを行った。デザイナーたちからもその後30分間、矢継ぎ早に質問が飛んだ。
その場にいたデザイナー、クリス・ピアースさんは松本さんの情熱に心を動かされた一人だ。
「友理さんの話を聞いた時、僕たちはデザインのスペシャリストとして、この課題にアプローチできると思いました」(ピアースさん)
プレゼンから数カ月後、正式に協業したいと連絡を受けた。当時まだトヨタに在籍していた松本さんは退路を断つ覚悟を決め、10年近く自分を育ててくれた大好きなトヨタに退職願いを出した。
100以上のアイデア、数十個のプロトタイプを作成
IDEOのオフィスで想定ユーザーへのヒアリングを行うデザインチーム。
提供:Halu
同年8月、5人のデザイナーと共に1カ月間のプロジェクトが走り出す。チームはさっそく、エクストリームユーザーである身体的な障がいのある子どもを育てるファミリーを何組か集めてヒアリングを行った。
見えてきたのは、「家族みんなで同じ空間にいるときの距離をもっと縮めたい」「もっと子どもと一緒に外へ出かけて、いろいろな経験をさせてあげたい」といった、ユーザーの感情だった。姿勢を確実に固定できるが、家から出られない従来型の福祉製品ではなく、持ち運び可能な「ポータブルチェア」こそが求められている—— 目指す方向性が固まった。
開発フェーズでは100以上のアイデアが生まれ、数十個のプロトタイプ(廃材などを使った簡易試作品)を制作。作っては子どもに実際に座ってもらい、改良を繰り返した。障がい児だけでなく、健常児にもテストを行った。開発のターニングポイントについて、ピアースさんはこう振り返る。
デザイナーのクリス・ピアースさん。壁際に並ぶのは実際のプロトタイプやデザインのスケッチなどだ。
撮影:伊藤圭
「ユーザーリサーチや専門家に話を聞く中で、姿勢を保つ上では骨盤のサポートがすごく重要だということに気づいたんです。それができれば、脳性まひのお子さんだけではなくて、障がいのあるあらゆるお子さん、そして障がいがないお子さんにとってもベネフィットになる。もっとインクルーシブなプロダクトになっていけるって」
外観にもこだわった。テストユーザーのある親から「福祉機器を見るたび、障がいのことをリマインドされたような気分になる」という一言が出たからだ。
骨盤をきちんとサポートし、折りたたんでコンパクトに持ち運べて、見た目にも美しい—— 全ての学びを集約し、ピアースさんたちデザイナーチームは苦心の最終プロトタイプを完成させた。
IDEOのオフィスで、松本さんが実際にそのプロトタイプを確認する緊張の時間が訪れる。松本さんがプロトタイプを手に取って持ち上げ、ショルダーストラップを肩にかけた。その瞬間、松本さんの表情から笑顔がこぼれた。
「友理さんがすごく嬉しそうな表情をしてくれて、僕としても、『あぁ、やっぱりこれが正しい方向だったんだ!』って確信できました。今までやってきたことがやっと成果になった。一番やりがいを感じられた瞬間でしたね」(ピアースさん)
障がいの有無にかかわらず役立つキッズチェア
「IKOUポータブルチェア」は、外出先のカフェやレストランなどで大人用のイスに数十秒で装着できる。地面に直置きもでき、アウトドアやピクニックでも使用可能だ。折りたたみ式で重さは3.2キロ。実際に肩にかけてみると、見た目よりも軽いことに驚く。
提供:Halu
デザインも決まり、2020年4月、株式会社Halu(ハル)が産声を上げた。
松本さんはトヨタ時代の人脈をたどって製品化に奔走。レーシングカーの開発を長年手がける東レ・カーボンマジック、自動車部品等の試作から量産までの実績がある鳥越樹脂工業が協力を表明した。いずれも、社長が事業目的に感銘を受け、無名かつ実際の商品もまだない松本さんに手を貸した。
2021年秋には1億円の資金調達を行い、数千万円の投資が必要になる金型を揃え、量産体制を整えた。
こうして満を持して生まれたのが、インクルーシブブランド「IKOU」の第1作、「IKOUポータブルチェア」だ。
家の中でも外出先でも使える、折りたたみ式のキッズチェアとして、障がいの有無にかかわらず体幹が弱い乳幼児の座り姿勢を支える。特筆すべきは「ティルト機能」と呼ばれる、体の角度を保ったままイスに傾斜をつけられる機能だ。
「せっかく子どもを抱っこして寝かしつけたのに、ベッドに寝かせたら目を覚まして泣いてしまうということは、子育てをしたことがある人なら誰しも経験があるかと思います。でも、ティルト機能は座角が変わらないままイスを倒せるので、そういったトラブルを解消できます」
そう語るのは、テストユーザーの一人で、小児のリハビリを中心とする理学療法士の戸田洋祐さんだ。健常児2人の父でもある戸田さんによると、ティルト機能は機構が複雑なこともあり、市販のキッズチェアにもほとんど搭載されていないという。
理学療法士の戸田洋祐さん(写真中央)とそのご家族。乳児の息子が座るポータブルチェアにはティルト機能が働き、座り姿勢はそのままに後ろに傾斜がかかっている。
撮影:伊藤圭
「角度や形もすごく考えられている」と戸田さんは続ける。実際に、テスト時は生後8カ月のお子さんと一緒に、サッカースタジアムで2時間の試合を観戦しながら「IKOUポータブルチェア」を使用したが、子どもは終始リラックスしていたと話す。
これはIDEOのデザインチームが腐心した骨盤のサポートによるものだろう。松本さんはこう語る。
「身体的にチャレンジを抱える子どもたちや、そのご家族の体験から学んだことはきっと、当事者だけでなく障がいのない子どもやそのご家族にとっても価値のあるデザインとして還元していけるのではないかと思っています」
「インクルージョンの一つの象徴」目指す
撮影:伊藤圭
ポータブルチェアは3月初頭にクラウドファンディングを通じて販売をスタート。200万円の目標金額は終了までの折り返し地点で達成した。募集も終盤に差し掛かるいま、松本さんは「純粋にご支援していただいている方々の気持ちが何よりもうれしい。その期待に応えていく大きな責任も感じています」と話す。
今後は「インクルージョンの一つの象徴」として、レストランや子育て支援施設など、さまざまな場所にポータブルチェアが置かれる状況を目指す。
「障がいの有無にかかわらず、いろいろな子どもが歓迎される場所が増えていくことで、今までそういうところに行くのをためらっていた方々が外出しやすくなるといいなと思っています。自然にみんなが交ざり合う、触れ合うような機会を、このイスを通して増やしていきたい」
「障がい」という概念自体をまだ知らない子どもたちは、松本さんの息子に出会うと、最初は「なんで歩けないの?」「なんで話せないの?」と率直な問いをぶつけてくるという。
自分が親ならギョッとしてしまいそうなシーンだが、松本さんが「歩く練習をしているんだよ」「お話ししたいけれど、まだ話せないんだ」と伝えると、「ふーん、そうなんだ」とあっさり納得する。子どもにとっては、ただそれだけのことなのだ。
冒頭の、保育園での息子と健常児の友達とのじゃんけんも同じだ。
「うちの息子がいることで、そのお子さんに他の子どもを思いやるような気持ちが自然と芽生えたのかもしれません。いろいろな個性を持つ子どもたちが交じり合うことで、自然と良い変化が起こる。IKOUもそういうきっかけになったらいいなと思っています」
(文・野田翔、写真・伊藤圭)