撮影:今村拓馬
9年前、aba(アバ)CEOの宇井吉美(33)は、一見普通の装いだが、中にはオムツをしっかり履いて、シートの上に横たわっていた。
「ああ、きたみたい!」
宇井が「その時」を伝えると、ソファに陣取るCTOの谷本和城(33)はPCの画面を見ながら、
「おお、(臭いセンサーの)値がちゃんと上がってる!」
と感嘆の声をもらした。1Kのアパートで、充満するにおいこそが実証成功の立役者。宇井は羞恥心も忘れて、谷本と「やったあ!」と喜びあった。
大学発の「ケアテック」スタートアップ
abaが開発するのは、排泄した時のにおいをセンサーで感知する「Helppad(ヘルプパッド)」だ。シート状になっており、ベッドにさっと敷くだけで使える。
撮影:今村拓馬
実証現場は、当時のオフィスだった千葉県習志野市のアパート。宇井はその時の光景を思い出すと、吹き出してしまうという。
「心の中ではジャンプしていたけれど、実際、私は寝たままの姿勢で天井を見ながらガッツポーズ。その瞬間はデータを取っている最中で、動けなかったんですよ(笑)」
日本の要介護認定者は669万人(厚労省調査2020年3月時点)に達し、介護施設は人材不足にあえぐ。また、家で家族を介護する人は、年間約10万人が自分の仕事を続けられず、退職に追い込まれている。
abaは大介護時代を迎えた日本で注目が集まる「ケアテック」の大学発スタートアップだ。排泄した時のにおいをセンサーで感知する「Helppad(ヘルプパッド)」を開発し、介護に携わる人の負担を減らす“排泄のケア”に挑戦している。
宇井は、千葉工業大学工学部未来ロボティクス学科の出身。介護ロボットづくりを志して排泄を認識するセンサーの研究を始め、2011年、大学4年生の時にabaを起業した。
ヘルプパッドは、見た目はシートの形だが、介護ロボットの一種だ。AIなどのロボット技術により排泄パターンを解析。オムツ交換やトイレ誘導を適切なタイミングで報せる機能を搭載する。宇井は介護現場からの要望をできるだけ取り入れるようにした。開発の早い段階でにおいに着目し、センサーを「さっと敷くだけ」のシート状にしたのは、「ケアされる人の生活を邪魔せず、介護者の負担も減らせるから」だ。
CEO自らがオムツを履いて実験台に
当時は、千葉県習志野市のアパートの一室をオフィスとしていた。冒頭の「実験」もこの場所で行われた。
提供:aba
課題ドリブンでアイデアを発想する彼女は、「尿と便の両方のにおいを感知しないと意味がない」と考えた。とはいえ、本当に排泄したかどうかを識別できるという実証データがなければ、開発しても誰にも使ってもらえない。
実証を始める前、宇井は途方に暮れていた。試作機はできたが、オムツを履いてシートの上で排泄してくれる人がどうにも見つからなかったのだ。
宇井はこう振り返る。
「排泄っていうのは、人の尊厳に最もかかわるところ。ただでさえ介護現場は忙しくて、実証実験を受け入れてくれる施設なんて、皆無に等しかった。私たちは被験者を探し始めたところで、いきなり壁にぶち当たってしまったんです」
2013年、宇井はCTOの谷本と「誰がおむつを履くか問題」を話し合った。谷本は大学時代、同じ学科の同級生。エンジニアとしての凄腕ぶりに惚れ込んだ宇井が連日のように口説いて、「会社に引きずり込んだ」経緯がある。宇井が、「データを取るには、尿と便を誰かが排泄しないと始まらない。この際、2人でオムツを履かない?」と持ちかけても、谷本はあっさり断った。
「どうしても履けと言うなら、オレは会社を辞める」
工学部の出身ながらも、「ハンダづけさえまともにできない」宇井は、「不器用な私ができるのは、表でプレゼンして資金調達をしてくるぐらい。私がやるしかないな」と腹を決めた。
「プロも悩む」排泄ケアの現実
宇井がヘルプパッドを開発するきっかけとなったのが、特別養護老人ホームでの介護体験だった(写真はイメージです)。
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なぜ、排泄ケアのテクノロジーに照準を絞ったのか? きっかけになったのは、彼女が大学時代に初めて受けた介護実習だった。
入居者の多い特別養護老人ホーム。広いホールの奥には、当時、認知症の人専用の小さなケア室があった。実習初日、宇井はその部屋で、排泄介助の現場に立ち会った。
最重度の介護を要する認知症のお年寄りを、介護職員が二人がかりで取り囲んでいた。一人がお年寄りの体を押さえ、もう一人はお腹を押す。その度に、お年寄りはうめき声を上げる。ショックを受けている宇井に、実習生を引率していた介護職員は、「下腹部を押して排便を促している」と説明した。宇井は泣きながら尋ねた。
「これは本人が望んでいるケアなんですか?」
職員は複雑な表情を浮かべて「分からない」と答えた。家で看ている家族からは、「施設にいる間に排便をさせてから帰してほしい」と頼まれているという事情も打ち明けた。
「私たちは、夜のご家族の負担も考えながら日中のケアを組み立てなきゃならない。でも、あなたにそう聞かれちゃうと、何がいいケアなのか、分からないとしか言えないですね」
介護職員の本音に触れ、宇井は「プロもこんなに悩んでいるんだ」と胸が痛んだ。自分が何も知らずに直球の問いを投げたことを悔いた。同時に、3大介護の中でも介護者の負担が最も重い排泄介助にテクノロジーを使って、なんとか介護職の人たちの力になりたいという思いを募らせた。
「見守りロボットとか、人を癒す話し相手とか、いろんな介護ロボットがある中で、この排泄センサーを続けているのは、排泄課題をクリアにすることが介護職たちの余裕を作る一つの近道なんじゃないかなと思っているから。
排泄って毎日のことだし、課題としてもすごく大きくて重たい。ここをクリアすることで、介護職に余裕を取り戻せると考えたんです。テクノロジーで人の手を空けて、介護職に笑顔を取り戻してあげたいなと」
現在はヘルプパッドの他にもプロジェクトの数が増え、共同開発先にはパラマウントベッドや花王をはじめ大手企業が名を連ねる。abaは2021年秋には経済産業省が推進する「J-Startup」に選出された。日本ケアテック協会の理事も務めている宇井は今、ケアテック界の旗手として、官民からの注目を集めている。
介護者、技術者、起業家の3つが同居
撮影:今村拓馬
宇井を一言で表すとしたら、「熱源」。宇井の語りに触れた人は皆、心が溶かされていく。
2012年に日本MITエンタープライズフォーラムが主催した「第12回ビジネスプランコンテスト&クリニック(BPCC12)」で、abaは一般部門の3賞を受賞。
この時、宇井のプレゼンを聞いていた投資家の孫泰蔵は「絶対応援せんといけん」と直感し、事後に自ら宇井に会いに行った。「名刺、交換させてもらえませんか」と先に名乗り出たのは、孫である。
このコンテストでの出会いがその後の投資につながった。2019年、abaはユーグレナCEOの永田暁彦が代表を務める「リアルテックファンド」と孫がファウンダーの「Mistletoe」含め、個人投資家や国のプロジェクトなどから、総額約3.3億円を調達している。現在の累積調達額は約10億円近くになる。
宇井は学生時代に、自分の祖母がうつ病になり家族の介護を経験している。起業してからは、介護現場の理解促進と研究費を稼ぐために介護施設でアルバイトをしていた。宇井からほとばしる言葉が人の心を打つのは、全てが経験に根ざしているからだ。インタビューで「自身はどんな起業家だと思うか?」と尋ねると、面白い自己分析を打ち返してきた。
「私はイソップ物語で言うところの『コウモリ野郎』なんですよ。わかります? 獣でも鳥でもない、非常に中途半端な存在。私は現場で何年か働いたし、広い意味で家族介護も経験したけれど、厳密にはプロの介護職でもない。プロの技術者でもないし、プロのビジネスパーソンでもないと思うんです。中途半端だなと落ち込むときもあるけれど、だからこそ私は、一生このまま。お高く留まるなんてできないです」
これは、決して自己卑下ではない。宇井は介護者、技術者、起業家の3つの立場が同居する自分を、ポジティブ思考で捉えようとしている。
「介護側の人から『テック? 何を言っているのあの人たち?』と疑問をぶつけられたら、『工学系の人たちは、こういう意味で言ったんだと思いますよ』と翻訳できるし、ビジネスサイドからは『介護ならではの風習のここをハックすると、もっとうまくいきそうですね』と違う視点を投げ入れられる。
逆にテックやビジネス側の人には、介護現場のエピソードをとうとうと話して、介護職にリスペクトを持ってもらうこともできると思うんです」
次回は彼女の生い立ちに触れ、いかにして「熱源」が温度を上げていったかに迫る。
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(文・古川雅子、写真・今村拓馬、デザイン・星野美緒)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。