撮影:今村拓馬
自宅のソファに座るaba CEOの宇井吉美(33)は、取り込まれた洗濯物の山に埋もれていた。
「あ、ごめんなさいね。洗濯物がそのままで(苦笑)。いつも日常はこうだから。私の起業自体がドタバタだったし、仕事も生活も、かけ足しながらって感じですね」
今回、追加でお願いした2回目のオンラインインタビューでのこと。宇井はスマホを片手に持ち、息子の空くん(5)と娘の海美ちゃん(2)の世話をしながらも、私の質問にシャキシャキと答えた。
時々、宇井のところに寄ってきた子どもたちが姿を見せる。宇井は子どもの興味を引く「最強グッズ」であるiPadを渡して、子守役を夫の横沢和彦さん(33)にバトンタッチ。夫は大学の研究室仲間だ。宇井がようやく別室に場所を移したのも束の間、空くんが「(iPadの)電池が切れたー」とやってきた。
2人目出産と工学博士号取得が同時期
創業後、宇井は二児の母にもなり、子育てと事業、さらには研究にも向き合ってきた(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
宇井は日本のケアテック界の牽引者として注目を集めている。今回の取材で、経営と子育てに奮闘する彼女の日常を垣間見た。「全身起業家」である宇井には、葛藤もある。
ビジネスが軌道に乗りかけた2016年に妊娠。オムツ交換の適切なタイミングを介護者に報せる「Helppad(ヘルプパッド)」を製品化する時期と重なった。2019年に2人目を出産した折は、大型の資金調達と大学院での博士号(工学)取得も同時並行だった。
今も、仕事漬けの日常の中で、子育てにまみれてる自分がいる。子どもを保育園に迎えに行き、帰宅後は夕食、お風呂、寝かしつけまで一通り済ませる。その間に、必要があればテレビ会議もこなす。夜中まで資料づくりは続く。「気づいたら朝」という寝落ちは日常茶飯事。夢にも仕事のことが出てくる。
年末に子どもが緊急入院した時には寝ずに看病したが、付き添いの間にも、子どもが寝ているベッドマットの柔らかさや小児科ならではの安全配慮など、事業のヒントになりそうなことは頭にメモしておいた。
「私は母親としてもダメダメだし、会社の代表なのに、事業にフルタイムでコミットできない状況をつくってしまっている。これではみんなに迷惑がかかってしまうなという罪みたいな意識は当初からあって。いくら事業が拡大しても、多くの方にabaの事業を賞賛いただいても、『こんな自分で期待に応えられるのかな』と思ってしまうところがあるんです」
「排泄ケア」を明るい話題に変えたい
abaスタッフの集合写真。そのほとんどがエンジニアだという。
提供:aba
一人で起業したabaは、創業後10年を経て正社員が10人に。そのうち、エンジニアが8人を占め、高度なロボティクス技術を支えている。スタッフは業務委託も含めれば40人に増えた。
外部のファンドから資金も入れた現在、宇井は「弱い自分」やネガティブな感情を越え、企業を一段高い所へと押し上げていく新たな時期を迎えている。だからこそ、自分が経営者としてジャンプするために必要なメンターを探し当て、「目下、猛烈にアタック中」なのだという。
「私、グーグルに日本人で初めて会社を売った加藤崇さん(ヒト型ロボットベンチャーSCHAFT元CFO)と最近会ってお話しして、初めて『私はこういう起業家になりたい!』と思えたんです。加藤さんにビジネスパートナーになっていただけたら最高です。文字通りスゴい人で、愛情深い人。それに、こう言うのもおこがましいんですけど、すごい『たたき上げ』感のある人で。自分と近いニオイがするんです」
父親の事業失敗の影響で奨学金を得て大学に進学したという加藤のエピソードは、彼の成功譚とともにメディアで語られてきた。そんな加藤の姿を、宇井はかつての自分の姿に重ねている。
高卒の父親に自分が大学に進学する必然性を説得するため、ロボティクス界で著名な教授を探り当てたこと。その教授に「祖母の介護をした経験から、私は人を救う介護ロボットをつくりたい!」と訴えたこと。大学に進んで落ちこぼれた自分が、教授のサポートで掬い上げられたこと。
学生起業した後、abaは長期に渡り売り上げが立たず、経営の危機に陥ったこともあった。それでも今、事業の夢に向けてまっしぐらに突き進んでいる。宇井には暗いイメージがつきまとう排泄ケアを明るい話題に変えるような、底抜けのパワーがある。
「こんな私ですが、メディアでもたくさん取り上げてもらいました。よく考えたら、女性起業家で、夢を運ぶテクノロジーの会社で、若者が立ち上げた大学発ベンチャーという私を、暗く取り上げるほうが難しいじゃないですか。
そういう私が介護のことを話すことで、ケアテックが世の中に広まり、介護のイメージも一緒に明るくなって、介護をする人が排泄のケアにも前向きになれるとしたら、私がこうしてメディアに出てお話する意味はあるのかなと。私はもっと、介護が楽しくなるように仕掛けをしていきたいんですよ」
介護負担の「引き算」で人の余裕をつくる
余裕さえあれば、人の人生に立ちあえる介護は本来楽しいと宇井は話す(写真はイメージです)。
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aba本社での取材の折、オフィスには排泄ケアシステムの次世代型プロトタイプが机の上に置いてあった。極薄のセンサーがいくつも張り付いた、シート状の機器だ。この研究開発は内閣府のプロジェクトに採択された。国の補助制度により製品化の折には、機器の購入価格は一般家庭でも購入できる程度に下げられる見込みだという。
「私はおばあちゃんの介護経験からこの事業を始めました。介護事業者さんだけでなく、いよいよ在宅の介護でも使えるようになればと」
abaが掲げるビジョンは「よく生き、よく死ぬ 未来つくり」。介護される側の「よく生きる」を支え、その役割を担う介護者をエンパワーするという立ち位置に徹する。宇井が職員として介護施設で働いていた時期に、熱心な介護職員が忙しさに燃え尽きて辞めていく悲しい現実を見ている。「忙しい介護者の手を空けてあげたい」というのは、宇井の願いなのだ。
「介護も子育ても、手を取られて自分の人生を犠牲にする、という目で見られがちですよね? でもそれは、楽しむ余裕がないから。
人がやると難しかったり、つらかったりする作業をテクノロジーに引き受けてもらえばよくて、私たちは負担の『引き算』で人の余裕をつくりたい。多くの人に、介護の本来の楽しさをぜひ感じてほしいんです」
シンガポールへ進出。日本のケアテックを世界に
撮影:今村拓馬
宇井が作りたいのは、「ドラえもんのお医者さんカバンみたいなケアテック」だという。
「つらい介護を代わってくれるテクノロジーじゃなくて、介護が楽しくなってしまうというテクノロジー。それを利用する人が自分たちにフィットさせる形で必要な介護をつくる。その力を引き出していく処方箋としてのテクノロジーを出してくれるようなカバンです」
“お医者さんカバン”を世界に提げ、日本発のケアテックを広めていく計画も進めている。世界でも慢性的な人手不足を解決する介護ロボットの研究開発が加速する中、abaはヘルプパッド事業をシンガポールでも展開する予定だ。JETRO(日本貿易振興機構)のDX促進事業の一環で、2022年からは現地パートナー企業と連携して実証実験を開始する。
宇井は、日本発のケアで「人類みんなが温かさに包まれたら」と考えている。
「ケアテックというものは、半導体みたいにいい製品を作れば世界に行き渡るというものじゃないんですよね。大事なのは、介護の思想を乗せて広げていく、というところ。
日本のケアテックがちゃんと世界に広がらないと、日本のよき介護が消えちゃうんじゃないかという危機感が、私にはあって。私自身が介護職をやってみて、日本の介護は本当にすばらしいなと思っているから。こんなに素晴らしいケア文化が目の前に広がっているのに、この土地の中でしか受けられないのはもったいないなと思うんですよ」
宇井の頭の中に広がる未来構想は広大だ。登る山に難所はいくつもあるかもしれない。それでも、山を登る先導役の宇井自身が、楽しげなのがいい。
(敬称略・完)
(文・古川雅子、写真・今村拓馬)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。