2017年に発表され注目を集めた「経産省ペーパー」から5年。経産省では今もその「遺産」が引き継がれているという。
撮影:今村拓馬
2017年5月。ある文書が大きな話題となった。経済産業省の若手官僚たちによる「不安な個人、立ちすくむ国家〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜」。
65ページにも及ぶパワポの提言書は、公開直後から大きな反響を呼び、150万ダウンロードされ、書籍化までされた。急激に進む少子高齢化に対して、抜本的な改革が必要だと訴えた通称「経産省若手ぺーパー」の発表から約5年。
もはやこの提言自体が話題になることはないが、いま経産省を取材してみると「若手ペーパー」がもたらした影響は、いくつかの変化の胎動を生み出したという。
経産官僚8人への取材から、「ペーパー」の「遺産」を探った。
あの哲学は個々の政策に反映している
大臣官房秘書課課長補佐の河野孝史さん(2007年入省)が秘書課からの1本のメールを目にしたのは、アメリカ留学から帰国した直後だった。官僚組織のトップである事務次官の名前を冠した「次官・若手プロジェクト」への参加の呼びかけ。ミッションは「中長期的な政策の軸を考える」という漠としたものだったが、手を挙げた。留学中に日本の戦後復興の「功罪」を研究し、「大局観に立つ仕事をしたい」と思っていたからだ。
公募に応じた25歳から36歳までの30人は、半年以上にわたった週1回の定例ミーティングに加え週末には合宿もし、プロジェクトを主導した菅原郁朗事務次官(当時)だけでなく、外部の識者とも長時間の議論を繰り返した。菅原氏は、若手が長期的な視点で未来の国家像を議論し発信することが省内変革につながることを期待した、とインタビューに答えている。経産省の動きは国土交通省や農林水産省、総務省などにも波及した。
だがそれから5年。あのプロジェクトが具体的に経産省をどう変えたのか、変わっていないのか、なかなか霞が関の外には伝わってこない。
「経産省若手ペーパー」では「居場所のない老後」「非正規雇用・教育格差と貧困の連鎖」などの日本が直面する課題が網羅されていた。
「経産省ペーパー」を編集部キャプチャ
河野さんはこう振り返る。
「組織として総括していないので発信できていないが、個人としてはあの経験はしっかり残っています。解決策まで作り込まなくても問題提起だけでも発信する重要性を学び、そこから人的なネットワークも広がりました」
河野孝史さん。エネルギー政策やデジタル政策担当を経て、現在は働き方改革を担当。
撮影:浜田敬子
河野さんはこの数年間折に触れ、ペーパーを読み返している。やればあのぐらいのことができると自分の中で拠り所になっているだけでなく、目の前の仕事をするときにも、大きな視座で問題意識を持つことを常に意識するようになった。
「それは大きく一気に社会構造を変えることではないかもしれない。けれど、参加メンバーたちは個々の政策を作る時にもあの時の哲学を細部に反映していると思う。
一方、コロナでやらなければならない仕事が膨大になり、大きな哲学で考え続けることが難しい状況にもなった。世の中を本当に前に進めているのかというフラストレーションもあるが、そのフラストレーションから逃げない人が経産省には多いと感じている」
相次ぐ若手発プロジェクト、進む省内副業・兼業
組織としてプロジェクトからの学びはなかったのか。当時「働き方改革」の牽引役で、プロジェクトを陰で支えた伊藤禎則さん(現・秘書課長)は、あのペーパーを機に若手が省内で「旗を掲げる」活動が増えたという。大阪万博や福島の復興を考える数々のプロジェクトには地方組織も含めて誰でも参加できる。業務時間内の活動も認められ、1人が複数の名刺を持つ「省内副業・兼業」が浸透しつつある。
「当時次官が目指したのは経産省のトランスフォーメーション。若手の活動を幹部や上司も認める風土は定着し、結果、若手の抜擢も進み年功序列も崩れつつあります。『止める仕事』『注力する仕事』を精査し、民間から人材を積極的に採用する動きも進んできました。一旦やめた人を『出戻り』で迎えるケースもさらに増やします」(伊藤さん)
現在でも、退職後にスタートアップで働いていた元官僚が週2で経産省の仕事をしているケースもあるという。
オンライン取材に応じた海老原史明さん(左下)、橋本直樹さん(右下)、岡村弥実さん。それぞれが「省内副業・兼業」で成果を上げている。
撮影:浜田敬子
「旗を揚げる」若手有志プロジェクトの一つが、行政にデザインのアプローチを取り入れ、人に寄り添う優しい政策の実現を目指した「JAPAN +D」。省庁横断的であるだけでなく、民間のデザイン思考やデザイン経営を専門とする人たちとのコラボレーションを目指している。
このプロジェクトの中核メンバーでもある海老原史明さん(中小企業庁事業環境部金融課総括補佐、2007年入省)は、これまで「空飛ぶクルマ」プロジェクトのために週1だけ霞が関で働く「週1官僚」を民間から募るなど、柔軟な発想でいくつもの提案をしてきた。
「こうした活動の意義は本業に付加価値を加えられることと、組織の活性化。霞が関では上の年次の人ほど人脈も実績もあります。そうした経験値のある人とフラットに議論するには、若手も多くの情報や人とつながり、引き出しを増やす必要があると思っています」(海老原さん)
特許庁総務部総務課調整班長の橋本直樹さん(2010年入省)も本業のほか、I-OPEN、一般社団法人STUDIO POLICY DESIGN、NPO法人PolicyGarageといくつもの活動を同時並行で進めている。I-OPENでは、子どもの貧困問題などの社会課題に取り組むスタートアップやNPOに対して知的財産やライセンスのアイデアを提案し、より課題解決につながる仕組みを作れるようアドバイスしている。橋本さんはこうした活動の意義をこう話す。
「役所ではどうしても2、3年ごとに異動があるが、部署が変わってもこうしたプロジェクトには関わり続けられる。さらに次官を目指すという単一の公務員像でなく、こうした働き方が公務員の多様なキャリアパスを作ることにもなります」
経産省の若手有志のプロジェクトで、省内の壁を開放して、アーティストらに壁画を描いてもらった。
提供:岡村弥実さん
今回話を聞いた経産官僚の中で1番印象的だったのは、クールジャパン政策課長補佐の岡村弥実さん(2017年入省)だった。省内部活動として芸術を楽しむ「霞藝会」を立ち上げ、エレベーターホールの壁をアーティストが制作活動できる場として開放する活動にも参加した。自身も週末は学生時代から続けている劇団で脚本を執筆する。その岡村さんは「官僚になって、今が1番楽しい」と話した。
若手の有志活動を応援する立場のクールジャパン政策課長の俣野敏道さんは、こう話す。
「霞が関は理不尽な働き方ばかり注目されるが、プロジェクトのオーナーになることで、主体的に自分をマネジメントできる感覚を得られ、これが前向きな政策立案にもつながります。とはいえ公務員にはやらなければならない『守り』の仕事があり、時には世論に批判されることもある。『守り』にはチームみんなで臨むのは変わらない」
ペーパーは問題意識に勇気を与えてくれた
八木春香さんは1年半、メルカリに出向した経験がある。
撮影:浜田敬子
こうした部署を超えた有志活動や議論を後押しするのが、オフィス改革やDX(デジタルトランスフォーメーション)だ。省内はフリーアドレス化し、2022年1月にはTeamsを導入、官房長などが登場するポスターも制作して活用推進を訴えた。
大臣官房業務課課長補佐として省内業務改革に取り組む八木春香さん(2011年入省)は、チャットツールの導入による変化を感じている。新しい政策を作るときに「誰が担当か」関係なしに、興味がある人がどんどん参加して議論するようになった。
ツール導入にあたって、各部署の課長補佐のトップが参加する政策企画委員という仕組みも作った。中央省庁に限らず役所といえば、自分の部署の仕事だけに精通し、情報を他部署と共有しない「サイロ化」が問題になってきた。結果、同じような政策や予算要求をダブって進めていても気づかないという非効率な状況も生まれていたが、この政策企画委員の間で「できるだけ“上流”の情報や各課が何をしているのかを省内全体で共有してオープンにすること」(八木さん)を目指している。
「全省でどの方向に向かっているのか、自分の仕事が全体の中でどういう意味を持つのかわかるようになると、仕事への向き合い方も変わります。部署の壁を取っ払わずに、ツールだけ導入しても本質的な改革にはならないので」(八木さん)
チャットツールの導入を知られせるポスター。あえて官房長に出演を依頼し、活用を訴えた。
提供:経産省
八木さんは経産省初のベンチャー出向組で、2018年から1年半メルカリに出向した。メルカリといえばフラットな組織と社内情報を全て共有するオープンなカルチャーで知られる。メルカリへの出向を希望したのは、「自分たちの組織はこのままでいいのか」と省内改革の必要性を感じていたからだった。
実は2017年の「若手ペーパー」にも声はかかっていた。だが当時は「目の前の仕事に業務量的にも心理的にも余裕がなく」参加を見送った。その後、イノベーション政策や人材政策を担当する中で、大企業のイノベーションや人材流動性を推進するなら、まず自らの組織が変わるべきではと考えるようになった。
「私がそう考えるようになったのも、あのペーパーの影響があったと思います。若手が発信した問題意識が社会の同世代の反響を呼んだことで、自分たちの問題意識や方向性に自信が持てました。参加しなかったメンバーも勇気づけられ、省内でも改革が提案しやすくなったし、それが受け入れられる安心感もあります」
経産省初・大阪に住んでリモートワーク
大阪に住みリモートワークを経験した出光さん。
撮影:浜田敬子
現在、関西の民間企業に出向している出光啓祐さん(2009年入省)も、この3、4年の省内の変化を感じている。2021年8月から、家族の仕事の都合で大阪に居住しながら約4カ月、リモートで霞が関の仕事をした。出勤は月に1、2回。経産省はリモートワークが浸透しているとはいえ、それでも地方に住むケースは初めてだった。
「若手と幹部層が政策を議論する形が定着し、人事政策でも個人の希望がキャリア設計に組み込まれるようになりました。若いうちから上司との1on1でキャリアの相談もできるなど、民間の人事制度の最先端を取り入れようしていて、民間企業と比べても意外と働き方は進んでいると感じています」
経産省では2012年から全職員に対して毎年マネジメント実態調査を実施し、組織、職場、仕事という3つの観点での満足度を聞いている。コロナによってリモートワークが定着したこともあり、「働きやすさ」の満足度は改善傾向にある。一方で、これだけさまざまな動きが出ていても「働きがい」の面、つまり自律的に働けているのか、自分の仕事は社会に役に立っているのかという点では、満足度は低下しているといい、改革はまだ道半ばだ。
今、外から霞が関を見ている出光さんに、やりがいを感じるには何を改善していけばいいのかを聞くと、こう話した。
「自分たちがやっていることを発信することと、なぜこの仕事が必要なのかを言語化して仕事を相対化すること。国会対応も含めて緊急的なものにリソースを柔軟に配分することで、過重労働はなくなります。民間との間で人材の流動性を高めることは重要ですが、そのためにも霞が関でしか通用しない暗黙のルールを形式化することも必要です」
(文・浜田敬子)