「任天堂」旧本社ビルはホテルとして生まれ変わった。創業家・山内家の山内万丈さんは“中興の祖”山内溥の孫にあたる。
撮影:吉川慧、小林優多郎
京都市にある「任天堂」の旧本社ビルが、この4月にホテルとして生まれ変わった。その名も「丸福樓(まるふくろう)」。創業家の山内家がかつて用いた屋号「丸福」に由来する。
旧本社ビルは1930年代に建てられ、1950年代まで本社として使われた鉄筋コンクリートのモダン建築だ。これまで非公開だったが、任天堂ファンの間で「聖地」として知られていた場所だった。
「丸福樓」の正面玄関に「山内任天堂」のプレートがいまも残る。
撮影:小林優多郎
3代目社長の故・山内溥氏の孫で創業家の一員である山内万丈さん(29)は「世界的な企業となった任天堂も、その道のりは試行錯誤と挑戦の歴史だった。社員たちと様々なアイディアを試行錯誤し、もがき苦しんだ時代があった」と語る。
Business Insider Japanでは、任天堂“中興の祖”と呼ばれた祖父との思い出とともに、ホテルに込められた任天堂創業家の歴史と哲学を万丈氏に聞いた。
任天堂“発祥の地”は、歴史を象徴する場所「言いしれぬオーラ感じる」
取材に応じる山内万丈さん。好きなゲームは「マリオカート」だという。
撮影:小林優多郎
── 今回、任天堂の旧本社ビルをホテルにリノベーションされた経緯について。任天堂と創業家の山内家の歴史とともに伺えればと思います。
任天堂の創業は、1889(明治22)年に花札職人の山内房治郎(1859〜1940)が花札の製造・販売を始めたことがきっかけです。
事業規模が大きくなると、房治郎の娘婿で2代目の山内積良(1883〜1949)が1933年に「合名会社山内任天堂」を設立。創業の地に鉄筋コンクリート造りの本店を構えました。これが山内任天堂の旧本社で、この度「丸福樓」として生まれ変わった建物になります。
LEGOでつくられた「丸福樓」のジオラマ。建物が連なった構造だとわかる。
撮影:吉川慧
旧本社は3つの建物が連なった構造になっており、 いまインタビューをお受けしている部屋がある建物は、かつて事務所があった事務棟でした。
真ん中は住居棟で、創業家の自宅として使われました。一番奥にある建物が倉庫棟。いずれも1930年代に建設されたものになります。
ホテル名にも使われている「丸福」は山内家の屋号で、任天堂の商号でもあります。
任天堂の歴史は「花札」から始まった。丸に「福」のマークは今も用いられている。Nintendo Switch用ソフト『世界のアソビ大全51』にも花札のゲームが収録され、任天堂の過去と現在を繋ぐ。
撮影:吉川慧
戦後間もない1947年、積良は山内任天堂が製造した花札・かるた(百人一首)・トランプなどを販売する子会社「株式会社丸福」を設立。これが現在の法人としての「任天堂」の母体となりました。
その2年後、1949年には積良の孫だった私の祖父・山内溥(1927〜2013)が後継として社長に就任。以後、52年にわたって任天堂の社長を務めました。
そして「山内任天堂」は現在、創業家のファミリーカンパニー「株式会社山内」となり、この建物も創業家が所有するものになります。
── まさに「任天堂」発祥の地でもあり、歴史を象徴する建物。これまでも任天堂ファンには「聖地」として知られていた場所でした。
住居棟にはずっと曾祖母が住んでいて、ご先祖さまの仏壇もありました。
物心ついた頃から祖父(山内溥氏)や父に連れられて、この建物にも来ていたんです。山内家は、お墓参りや法事などには結構厳しい家だったんです(笑)。
父も私も、この建物には言いしれぬオーラをずっと感じていて……。
近年になって、この建物が相当つくりこまれた貴重な建築だと再認識されたこともあり、「このまま寝かせておいていいものなのか……」と葛藤していたんです。
かつて創業家が暮らしていた建物。現在は客室となっている。
撮影:小林優多郎
建物最上階に残る「任天堂」のレリーフ。
撮影:小林優多郎
この建物も、あと数年で落成から100年を迎えます。
「次の100年」に、どうすれば歴史を伝えられるか、それも私たち創業家のミッションだと考えるようになりました。
時代を越えて、この建物が愛され、残るためにはどうすればいいのか。その中で、ホテルとして残すのも一案ではという話になったんですね。
色々な方からお話をいただく中で、歴史的建造物をホテルや結婚式場として活用する事業を手掛けているプラン・ドゥ・シーさんに、プロデュースとホテルの経営をおまかせすることになりました。
さらに建築家の安藤忠雄さんにも監修をいただき、実際に旧本社をホテル化する計画が固まりました。
任天堂を世界的企業に育てた祖父・溥の哲学「運を天に任せる」
任天堂の3代目社長で万丈氏の祖父にあたる故・山内溥氏。
REUTERS/Reuters Photographer
── 山内家では墓参や法事などの年中行事を大事にされていた。任天堂を世界的ゲームメーカーに育て、“中興の祖”と呼ばれたおじいさま(山内溥)の影響だったのでしょうか。
はい。祖父は「成功」という言葉がとても嫌いだったんですね。一方で、祖父は「人は運を信じなければいけない」とも言っていました。
そして、こんなことも言っていました。
「世の中でうまくいっている人の言葉を金言のように聞いて、『なるほど』と言って真似をしたがる人がいるけれど、自分にはそれが理解できない」
「なぜなら、うまくいっているのは全て運だからだ」
経営者たるもの努力することは当然です。祖父も自分の理想を描いて、そこに到達しようと仕事に全力で取り組んでいました。
成功もあれば、失敗もあった。倒産の危機すらありましたから。
そんな祖父だからこそ、最後には「運」を天に任せることも大事だとも言っているんですね。
──まさに「任天堂」の名の通りですね。
どんなに努力してもやはり運がなければ成功できない。でも運はコントロールできない。
その自分にはどうすることもできない「運」に恵まれるためにも、祖父は墓参や先祖供養などをきちんとやっていたのかなと私の中では解釈しています。
「丸福樓」の正面玄関に残る「かるた・トランプ 山内任天堂」のプレート。
撮影:小林 優多郎
──創業以来の商品である花札をはじめ、かるた、トランプなどのゲームや遊びには「運」の要素があります。最後は「運」に任せることを重んじた考えは、任天堂を世界的ゲームメーカーに育てた人ならではの哲学にも思えます。
任天堂でのキャリア経験がない私が言うのはおこがましいのですが、娯楽・エンターテインメントは飽きられることが「宿命」ですよね。
その「宿命」とずっと向き合ってきた祖父ならではの哲学かなとも思います。
祖父と行ったトイザらスでの思い出「ソニーやセガが欲しいとは……」
後ろに写る片目のない木彫りの達磨(だるま)は、山内溥のエピソードに発想を得た展示物だ。
撮影:小林優多郎
── 万丈さんから見て「山内溥」という人物は、どんな存在でしたか。
あくまで「孫」としてという目線ですが、山内家にとっては家の中でもカリスマでしたね。
この部屋には片目のない木彫りの達磨(だるま)があるのですが、これも祖父のエピソードに由来するものです。
祖父の家には片目が塗られていない達磨の置物があったのですが、それを見て私のいとこが「この達磨は、いつ両目になるんだろう?」と言ったんですね。
それを聞いた祖父は笑いながら「ずっと片目のままだよ」と返したそうです。
つまり、両目が入って完成することはない。成功したと言い切れる瞬間は、永遠にやってこないという意味なんですね。
そんなエピソードもあって、尊敬できる偉い人なのだとずっと思っていました。
── 人柄が伝わってくる味わい深いエピソードですね。
でも、孫と祖父らしい思い出もあるんですよ。
山内家では新年の元旦には絶対に先祖の墓参りに行くのですが、帰りには祖父がトイザらスで好きなものを買ってくれたんです。年一回のごほうびみたいなものでした。
ただ、何でも欲しい物を買っていいと言われても「ソニーのプレステが欲しい」「セガサターンがほしい」とはちょっと言いにくかった。
そんなことで怒る人ではなかったですけれど、子供心になんとなく忖度していたんでしょうね……(笑)。
20代で祖父の遺産を相続、考えさせられた役割「全ては次の世代のために……」
万丈さんにとって、祖父は「ずっと追い続けるような、けれども乗り越えなければいけない存在」だという。
REUTERS,小林優多郎
── 万丈さんご自身、山内家のファミリーオフィスの一つ「Yamauchi-No.10 Family Office」の経営者です。ビジネスパーソンとしては「山内溥」をどう見ていますか。
私にとって、経営者としての祖父の背中はずっと追い続けるような、けれども乗り越えなければいけない存在です。
私は生物学上では祖父の孫ですが、戸籍上では祖父の養子になるんです。実の父親と兄弟というのは、なかなか変な感じではありますが……。
実は私自身、このことは祖父が亡くなるまで知らなかったんです。他界した時、初めて聞かされたんですね。
2013年に祖父が亡くなり「自分の役割はなんなんだろう」と、ずいぶんと考えました。
叔母2人と父と私の4人で資産は四等分。自分では一生使いきれないようなお金を21歳で相続したんです。
「これには何の意味があって、何のために託されたんだろうか」。そんなことを考える中で、やはり祖父の考えに触れたくなりました。
撮影:小林優多郎
祖父は、あまり自分の考えを残さない人でした。これは「人の言うことを真似して大成するやつはいない」という、彼の美学からだったと思います。
あまり言葉を残さなかった分、彼の判断や一緒に働いていた元部下の方々からたくさんのお話を聞いて、自分の中で祖父の解像度をどんどん上げる作業をしています。
そこから見えてくる祖父は、非常に合理的な人間です。でも、挑戦と独創性にとても富んでいる人でもあります。
私らが祖父から受け継がなければいけないのは、決して残された「お金」だけではありません。
無機質で無味乾燥とした「お金」だけを持っていても、何も生まれません。むしろ大事なのは、祖父の「哲学」なのではないかと思っています。
独創、挑戦、先見性、ユーザー目線。この4つが祖父・溥の哲学の軸だったのではないか。
そして私たちの役割は、その哲学と資産をセットで引き継ぎ、かつ私の代で消費するのではなくて、イノベーションに投資し、次の世代へと山内家の理念をつないでいくことだと思っています。
丸福樓には、後世に伝えたい任天堂創業家の思いを込めた
館内には「山内任天堂」時代の貴重な道具が残る。
撮影:吉川慧
──「つないでいく」という意味では、「丸福樓」自体が任天堂の歴史をつなぐ存在ですよね。山内家や任天堂のスピリットを感じられる場所になりそうです。
そこは特に意識しています。実はいま居るこの部屋は、任天堂の工場から運ばれてきた花札を職員の方たちが不良品と合格品に仕分けていた場所だったんです。
任天堂の原点でもある商材の「花札」を世に送り出すために重要だった場所が、どう生まれ変わるべきか。
ふと考えた時、ただ過去を振り返って眺める場所にはふさわしくないなと思ったんですね。
過去を見ながらも、未来に向いている場所。私たちなりに考えた結果、この空間は「ライブラリー dNa」という名前のラウンジフロアにしました。
任天堂や創業家の歴史にまつわる展示物がならぶ「ライブラリー dNa」
撮影:小林優多郎
壁面の展示スペースには意図的に任天堂に関わるようなもの、たとえば書籍やアートワーク、過去の創業家社長たち宛の手紙、過去の商品やハードなど……言うなれば「任天堂の創業と発展のDNA」を展示しています。
でも、歴史順に並んでいるわけではありません。ここでは、あえて無作為に並べました。それが天井の鏡面に反射し、フロアに奥行きを持たせています。
「空間の奥行き」は「歴史の深さ」の象徴でもあります。
時代とともに、形を変えて愛されてきた任天堂のDNAが、これからも広がっていく。
そこに思いを馳せていただきながら、訪れていただいた皆さんが新しいアイデアや「それ面白いな」みたいな会話を交わしていただけたら嬉しいですね。
任天堂と山内家の歩みを伝える「ライブラリー dNa」の展示物の一部。
撮影:吉川慧、小林優多郎
── なるほど。「歴史」を回顧しつつも、「未来」のものづくりを刺激する空間を目指している。
はい。その上で、私たちには後世に伝えなければいけないと考えているものが2つあります
1つは任天堂の“苦難と挑戦の歴史”です。歴史を紐解けば、もともと任天堂は花札を商っていた店。ゲームから始まったわけではありません。
そして、その花札屋がある日突然「ゲームをつくろう」と思い立って、世界的に成功したわけでもありません。
その間には「山内溥」という人が30年もの間、会社の倒産危機と向き合いながら、明日を生き残るために、社員たちとさまざまなアイデアを試行錯誤し続け、もがき苦しんだ時代がありました。
そんな時間をこの建物は見守ってきたんですね。
「丸福樓」のロビーは昭和期の面影を残している。
撮影:吉川慧
館内に展示されている任天堂製の花札とトランプ。
撮影:吉川慧
いまや「任天堂」と聞けば、華やかな世界的なエンターテインメント企業ですよね。ハッピーなキャラクターやキュートなゲームの世界観も想像されると思います。
でも、そこに至るまでには孤独で、ハングリーで、つらかった時代というのが確かにありました。
そういった苦難と挑戦の歴史が、このままだと忘れ去られてしまうかもしれない。
今を生きる人々や未来の人たちに歴史を伝え、記憶をつなぎとめる機能を、創業家だからこそできるのではないかと。
そんな機能を、この空間に持たせたいと考えたんです。
任天堂旧本社ビルの平面図。
撮影:吉川慧
── では、創業家が「後世に伝えなければならない」もう1つの要素とは。
任天堂創業家のスピリッツとクラフトマンシップです。
1930年代に建てられた建物の中には、階段室のステンドグラスや、謎の幾何学模様を施した梁など「そこまでこだわる必要ある!?」と思えるような、当時の職人の技が詰まった装飾が随所に施されています。
階段室にあしらわれた、キュートなステンドグラス。
撮影:小林優多郎
リノベーション工事前と工事後には任天堂の古川俊太郎社長や役員の皆さまにも見ていただきました。
その時にも「細部へのこだわりなどは、私たちのゲーム作りと一緒ですね」というお話をされていました。
任天堂の丁寧なものづくり、ゲームづくりの原点が1930年代から脈々と生き続けている……と感じ取っていただけることも、とても意義深いことだと思います。
かつて住居棟の浴室にあったタイル製の鶴のレリーフ。
撮影:小林優多郎
建物や客室、館内の展示品に触れていただくことで、これから何かを作ろうと挑戦している人が「あぁ、そうか。任天堂にも、昔はこんな時代があったんだ……」と感じとっていただけたら、この建物を残したかいがあったなと思います。
任天堂の「試行錯誤と挑戦の歴史」と、今も息づく「ものづくりの美学」がここには残っている。
おこがましいかもしれないのですが、創業の地で「任天堂の原点」に思いを馳せていただけると嬉しいです。
1889年、初代・山内房治郎が花札・かるたの製造・販売会社「山内房次郎商店」を創業。1947年には任天堂の前身「丸福株式会社」が設立される。3代目社長・山内溥が保有した株は、長男の山内克仁氏、養子(孫)の山内万丈氏を含む4人が相続した。 現在は、克仁氏が代表を務める山内財団、株式会社山内、万丈氏による Yamauchi-No.10 Family Officeの3社を総称して「山内家」としている。
1889年 初代・山内房治郎が花札・かるたの製造・販売会社として「山内房次郎商店」を創業
1902年 日本初のトランプ製造
1929年 2代目・山内積良(房治郎の娘婿)が店主就任
1933年 合名会社山内任天堂設立
1947年 株式会社丸福設立。※数度の社名変更後、63年に任天堂株式会社となる
1949年 3代目・山内溥が社長就任。
1953年 日本初のプラスチック製トランプを製造
1963年 「ゲーム&ウオッチ」生みの親となる横井軍平氏が入社
1977年 任天堂初の家庭用テレビゲーム機「テレビゲーム15」「テレビゲーム6」発売、「マリオ生みの親」となる宮本茂氏が入社
1980年 携帯ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」発売
1983年 家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」発売
1985年 ファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズ」発売
1990年 家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」発売
1995年 家庭用ゲーム機「バーチャルボーイ」発売
1996年 家庭用ゲーム機「NINTENDO64」発売
2001年 家庭用ゲーム機「ニンテンドー ゲームキューブ」発売
2002年 4代目社長にハル研究所出身の岩田聡が就任(2015年死去)
2006年 家庭用ゲーム機「Wii」発売
2012年 家庭用ゲーム機「Wii U」発売
2013年 山内溥氏、85歳で死去
2015年 5代目社長に君島達己氏が就任
2017年 家庭用ゲーム機「Nintendo Switch」発売
2018年 6代目社長に古川俊太郎氏が就任