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アメリカで中絶問題をめぐる議論が再燃している。1973年、米連邦最高裁判所が妊娠約24週目までの中絶を合憲とした Roe v. Wade(ロー対ウェイド。以下ロー)判決から約半世紀。アメリカでは最も政治的な議論の的となってきたこの判決が、ここへきて覆る可能性が出てきた。5月2日に最高裁の多数派による意見書草案がリークされて以来、最高裁前や多くの都市で連日デモが繰り広げられ、メディアでもこの話が取り上げられない日はない。
アメリカには、歴史的節目を作った重要な最高裁判例がいくつかある。公立学校における白人と黒人の別学を定めた州法を違憲とした「ブラウン対教育委員会(Brown v. Board of Education, 1954)裁判」、同性愛者による性行為及びオーラルセックスなどを禁じたテキサス州のソドミー禁止法を違憲とした「ローレンス対テキサス州(Lawrence et.al.v.Texas, 2003)裁判」 、最高裁がアメリカ全州において同性間の結婚を認めた「オーバーグフェル対ホッジス裁判(Obergefell v. Hodges, 2015)」などだ。
ロー判決は、胎児が母体から出ても生きられる状態になる24週目以前の中絶は合憲とし、中絶の規制を目的とした国内法は違憲無効とする根拠になっている。歴史的判例の中でも特に重要な一つで、アメリカの法律大学院や政治大学院では、必ず時間をかけて扱われる。
なぜ中絶問題が重要な政治問題なのか
アメリカの大統領選では必ず重要な争点の一つとなる中絶問題。日本人には理解しにくいかもしれないが、中絶問題が大きな議論となるのは、アメリカはキリスト教徒たちが作った国であり、今でも基本的にはキリスト教信者が過半数を占める国であるという宗教的な背景がある。特にカトリック教徒(中でも避妊や中絶を認めない保守派)と、福音派プロテスタント(「エヴァンジェリカル」と呼ばれる保守派)は過去50年間、中絶を合憲とするロー判決に対して猛反発し、特に共和党の政治家に対して中絶を規制するよう働きかけてきた。
さらに中絶問題は「個人の選択を憲法がどう定めているか」という大きな問いであり、その解釈が人によって大きく異なる(最高裁判事の間ですら)からだと思う。政府が個人の選択にどこまで法律によって介入できるか、どこまでが憲法で保障される人権なのか、その境界線がどこにあるかという問題は、アメリカでは非常に大きいものと捉えられている。
生殖に関わる決断を女性自身に認めるロー判決の重要な根拠の一つは、合衆国憲法修正第14条の「適正な法手続き条項(Due Process Clause)」だ。修正第14条が各州に対して言っているのは、いかなる州も「法の適正な過程によらずに、その生命、自由または財産」を個々人から奪ってはならず、またあらゆる人に対する「法の平等な保護」を否定してはならないということだ。この中の「自由(liberty)」という言葉は、「個人的な選択」を含むものと解釈され、ロー判決やその後の同性婚を合憲とする判決などにおいても重要な根拠の一つになっている。
性や生殖に関する自己決定権は、全ての人権の中で最もプライベートな権利と言ってもいいだろう。だがその解釈に正面から異論を唱えているのが、今回リークされた多数派意見草案なのだ。
前代未聞の漏洩が意味すること
判決前に草案が漏洩したことは、最高裁の地位を揺るがすだろう。
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騒ぎの発端は5月2日、最高裁のサミュエル・アリート判事が書いた多数派意見書の草案(2月に最高裁判事の間で回覧されたもの)が政治ニュースサイトの Politico によるスクープで明らかになったことだった。
Politico: Supreme Court has voted to overturn abortion rights, draft opinion shows
これは、ミシシッピ州が妊娠15週以降の人工中絶を禁止(強姦や近親相姦といった例外もなし)したことが合憲かどうかを争う訴訟(Dobbs v. Jackson Women’s Health Organization)に関するもので、最高裁は6月下旬か7月初めまでに、これについて判断を示すものとみられている。現在の最高裁判事の内訳は保守系6、リベラル系3であることから、保守派がロー判決を覆すのではないかと見られていた。
執筆者のアリート判事は草案の中で、「ロー判決はそもそも甚だしく間違っており、論理的に弱い」という立場に立ち、この判決のせいで社会がより分断されたと述べている。また、「憲法は中絶について言及しておらず、よって明確に保護されてもいない」とし、中絶は憲法問題ではなく、立法府が決めるべき問題であるという考えを展開している。
さらに「憲法が明白に言及していない権利が保護されるためには、それらの権利が、アメリカの歴史と伝統に深く根ざしていることが必要である」が、中絶の権利はそのような権利には当てはまらないどころか、ロー判決が出るまでは、中絶を禁じる伝統の方がアメリカでは根強かったとも指摘している。
「この国の伝統なので、中絶の権利は保護されない」というこの論法は、時代の文脈や社会の変化を無視したものだとして、既に多くの識者から批判されている。1787年に憲法が執筆された当時のアメリカは家父長的社会で、女性は男性に従属する存在と捉えられていたのだから、当然中絶の権利どころかプライバシー権という概念も存在しなかっただろう。
この意見は中絶を全面的に禁じようとするものではない。ただ、中絶問題に対する判断を連邦から州レベルに戻し、各州が独自の判断で中絶規制を可能にする道を開こうとしている。これに対して、「こんな大事な人権問題を、州レベルで決められるようにしていいのか。憲法によって保証されるべき権利ではないのか」という非難が盛り上がっているのだ。
アリート判事のこの草案には保守派の4人の判事(クラレンス・トーマス、ニール・ゴーサッチ、ブレット・カバノー、エイミー・コニー・バレット)が支持を表明しているとされる。仮に今態度を明らかにしていない保守派のジョン・ロバーツ最高裁長官が反対したとしても、すでに5人の保守の票が固まっている以上、ロー判決が覆る結果には変わりがない。
むしろこのニュースを聞いたときにまず私が感じたのは、判決前に草案が漏洩するという前代未聞の出来事がなぜ起きたのか、ということだった。この数年、新たな判事の任命のたびに政治闘争の材料とされてきた最高裁がさらに生臭い政治の道具となり、今後その地位と信頼が失墜するだろうと感じた。
ロバーツ長官は、リークに関しての真相究明を徹底的に行うとしている。誰が何の目的で漏洩したかについてはさまざまな憶測が飛び交い、「中間選挙の前にリベラルが支持層に危機感を持たせ、結束させるため」という意見もあれば、「草案が明らかになることで、判事たちが意見を変えにくい状況を作り出そうとする保守派の仕業」という見方もある。
各州で成立する中絶規制法
妊娠6週目以降の人工中絶を実質的に禁止するテキサス州法に対してデモを行う参加者たち(2021年10月撮影)。
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ロー判決が覆るというニュースは衝撃だったが、その前兆はあった。近年、中絶を規制する州法が、保守的な南部の州を中心に次々と可決されてきたからだ。これまで例外とされていた近親相姦やレイプによる妊娠についても例外とせず、中絶手術を施した医師には最長99年までの禁錮を求める州法(ルイジアナ州)もある。
最近注目を集めたのは2021年9月、原則的に妊娠6週目以降の人工妊娠中絶を禁じるテキサス州法「ハートビート法」(通称)が発効したことだ。権利擁護団体などが連邦最高裁に差し止めを求めていたが、請求は退けられた。多くの女性は6週目にはまだ妊娠に気づいていないことが多く、手遅れになることが危惧されている。この州法でもレイプや近親相姦による妊娠も例外として扱われない。テキサスのアボット知事は次期大統領選で共和党指名候補の座を狙っているとされ、保守派の支持を得るための点数稼ぎではないかと見られている。
さらにこの州法では、中絶を行う医師や、中絶をほう助した市民(中絶クリニックに女性を車で連れていってあげた人など)を市民が訴えることができる。誰もが訴訟を起こすことができ、勝てば報奨金も手にできる。これが発効した時に識者たちは、「ロー判決が覆された場合、多くの州でこれと同じことが起きる」と警鐘を鳴らしていた。
実際アイダホ州でも2022年3月に同様の州法を可決し、「まだ生まれていない子ども(preborn child)」の家族(強姦加害者の家族も含む)が中絶を行った医師を訴えることができるとした。だが、現在アイダホ州の最高裁は発効を止めている。
オクラホマ州ではつい先日(5月19日)、受精した瞬間から中絶をほぼ全面的に禁止し、中絶行為を「重罪」(最大で禁錮10年と罰金10万ドル)とする州法案を賛成多数で可決した。これはテキサスの「ハートビート法」をさらに上回る、目下全米で最も厳しいものとして注目を集め、カマラ・ハリス副大統領は「女性に対する攻撃」と非難している。
オクラホマ州法もテキサス州法同様、中絶に協力した人や医師を市民が提訴できる仕組みになっているが、これまでもアメリカの狂信的Pro Life(胎児の生命尊重)派は、中絶クリニックを襲撃したり、中絶を行う医師を殺したりという過激な事件を起こしてきた。中絶手術を受けにきた女性たちが入れないように入口を塞いだり、血だらけの赤ちゃんの人形を掲げて「人殺し!」と叫んで嫌がらせをしたりという光景も、保守的な地域では珍しいものではない。「胎児の命を守る」と言いながら、生きている人間を殺害するところがすでに矛盾しているのだが、そもそもこういう人たちは論理では行動していないのだろう。
だから報奨金まで出るとなれば、密告したり、医師や中絶ほう助者を訴えるPro Liferの市民は、いくらでもいるだろうなと思う。この「市民が市民を見張り、訴える」という仕組みは気味が悪いが、今後この方法をとる州は増えてくるのかもしれない。
中絶反対は多数派なのか
データを見てみると、人工中絶はアメリカにおいて「世論を二分している」とは必ずしも言えない(写真はイメージです)。
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よく「アメリカでは中絶は世論を二分するトピック」という表現が使われる。でも、世論は本当に二分されているのだろうか。上記のような最高裁多数派意見は、アメリカ国民の多数派の意思を反映していると言えるのだろうか。
最近のワシントンポスト・ABCニュースの世論調査によると、「ロー判決は守られるべきだ」と答えた回答者が54%、「覆されるべきだ」は28%、「意見なし」が18%だった。これは「二分している」とは言えないのではないだろうか。過去50年で、中絶を合法とする認識はアメリカ社会に十分定着しており、アリート判事の「ロー判決が社会を分断した」という主張はむしろ逆で、今この判決を覆すことの方が社会を激しく分断することになるのではないだろうか。
保守6、リベラル3という現在の最高裁判事の配分は、今日のアメリカ国民の信じる価値観を正しく反映した判決を下せるのかという懸念は、トランプ前大統領が3人の保守派を指名した時からあったものだが、それがここへきてより強い、明確な危機感に変わってきた。
過去8回の大統領選のうち5回は民主党が勝ち、最高裁判事は大統領が任命できるのに、なぜ最高裁の保守率がこれほど高くなってしまったのか。トランプ前大統領が最高裁判事9人中の3人を任命したのは、レーガン元大統領が4人を任命したのに次ぐ多さで、一期のみの大統領にしては突出して多い。
またトランプ氏は最高裁だけでなく、連邦裁判所の判事も数多く任命した。4年間で226人という数は、歴代大統領平均と比べると多い。ブッシュ(子)とオバマ両氏は、いずれも8年間で320人程度、クリントン氏は8年間で367人だった。現在816人いる連邦裁判所の判事のうち、28%がトランプ氏に任命された計算だ(最も多いのが、オバマ氏に任命された判事で38%)。
1973年のロー判決の際、票は7対2に割れたが、その内訳が興味深い。共和党大統領に任命された5人の判事が、民主党大統領に任命された2人の判事とともに、多数派意見(中絶の権利を認める意見)を支持していたのだ。これを今日の最高裁と比較すると、最高裁を取り巻く変化、最高裁自体の変化を感じる。
上院議会における最高裁判事の承認プロセス一つとっても、党派政治の激化による影響は近年明らかに見てとれる。「どの大統領に任命された判事か」「リベラルか保守か」ということが、近年明らかにパルチザン(党派政治)化してきているからだ。
例えば、クリントン元大統領が指名したギンズバーグ(RBG)判事とブライヤー判事は、いずれも超党派の大多数(それぞれ賛成96対反対3、賛成87対反対9)の支持を受けて承認された。クリントン政権時代というと、ホワイトハウスと議会共和党との対立ばかりが印象に残っているが、それでも、今振り返ると、この頃の上院には一種のプロフェッショナリズムと冷静さがあったのではないかと感じる。
しかし、その後徐々に党派による票の分裂が明確になり、オバマ大統領二期目には、異常とも言える事態を引き起こした。2016年2月に保守派のスカリア判事が亡くなったとき、オバマ元大統領は後任としてリベラル穏健派のガーランド判事(現司法長官)を任命しようとしたが、多数派を占める上院共和党の指導部は「選挙の年だから、国民の意をくんで選挙後まで待つべき」と、前例のない主張を展開。判事の席は1年近く空席となり、トランプ氏が大統領に就任すると、保守派のゴーサッチ判事を指名した。
トランプ氏はさらにカバノーとバレットという筋金入りの保守の2人を指名することで最高裁を右傾化させた。2018年、中道派で知られたケネディ判事の引退にあたり後任として指名されたカバノー氏は、指名後に性暴力スキャンダルが浮上し、上院での公聴会は大荒れとなったが、多数派である共和党が全面的に支持することで承認にこぎつけた。そして、2020年、大統領選まで2カ月を切った時点でギンズバーグ判事が死去した際、トランプ氏は即座に後任としてバレット氏を指名した。この強引な進行はガーランド指名の際との露骨なダブルスタンダードだとして、民主党上院議員全員が採決をボイコットした。
バレット氏は7人の子(そのうち2人は養子、1人はダウン症)を育てる敬虔なカトリック教徒で、以前から中絶には反対の立場をとっている。つまり女性やマイノリティの権利に関わる数多くの重要な判例に関わってきたことで知られるリベラル派判事ギンズバーグ氏の席を、信仰心強い保守が埋めることとなった訳だ。
これらのインパクトは長期に及ぶ。大統領は4年か8年で替わるが、最高裁判事は終身職であり、本人の意思による引退または死亡によってしか交代しない。トランプによって指名された上記3人の保守判事たちはいずれもまだ50代で、今後30年くらいは引退することはないだろう。
宗教保守に配慮する政治家
トランプ前大統領は保守派の危機感と願望を票に結びつけた。
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ロー判決が下った1973年から約50年間、保守派はこの判決を受け入れず、諦めずに戦い続けてきた。その背景には、福音派クリスチャンなどの保守派が、社会の急速なリベラル化に大きな危機感を抱いていることが挙げられる。移民などの増加により、人口構成が多様化した結果、彼らは自分達の慣れ親しんだ価値観、アメリカ社会像が侵食されることを恐れている。中絶や同性愛の問題はその象徴なのだ。
このような保守の懸念を政治家たちは票に結びつけてきた。2000年、ブッシュ(子)氏は宗教右派の再組織化に着手。2004年の彼の再選は、福音派キリスト教徒の機動力に支えられた。これ以降、民主党も宗教票の獲得を目指すようになり、2008年、オバマ氏は、同性婚や中絶に反対する考えに一定の理解を示し、福音派の一部を取り込むことに成功する。しかし2012年、オバマ氏は同性婚への賛成を明確に表明、2015年には連邦最高裁が全ての州で同性婚を認める判決を下した。
2016年の大統領選では、白人の福音派キリスト教徒のうち約8割がトランプに投票している。
さまざまなスキャンダルを抱え、女性やマイノリティを蔑視し、モラルの面でも問題がありそうな人物を、信心深い保守派がなぜ支持したのか。CNNの調査によると、2016年の選挙の際、「最高裁判事任命問題が最も重要」と答えた有権者の56%はトランプに投票していた(41%がクリントンに投票)。トランプ氏は保守層の危機感と願望を巧みにすくい上げ、トランプを支持した人たちはそれと引き換えに、まさに彼らが求めていたものを得たのだ。
影響を受けるマイノリティの女性たち
ケンタッキー州では4月に中絶禁止の州法が制定され、中絶支援をするクリニックに中絶反対派と、クリニックを護衛する人々が集まった。
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連邦レベルでの中絶の権利が覆されると、アメリカ南部・中西部の約20州、つまりアメリカのほぼ半分という大きな地域で中絶が違法になる可能性がある。
そうなったとき、何が起きるか。アメリカの全ての問題がそうであるように、中絶問題も経済と人種の問題に直結する。特に低所得者やマイノリティの生活や健康上に大きな影響を及ぼすのだ(人種的には黒人女性の中絶が最も多く、最も少ないのは白人)。
クリニックが閉鎖になれば、望まない出産や危険な中絶が増えることは容易に予想される。コロラド大学のアマンダ・ジーン・スティーブンソン教授の研究によると、中絶が禁止された場合、2年目までに妊娠に関連する年間死亡者数は21%増加するという。
中絶をめぐる州のスタンスは、保守・リベラルに分断された二つのアメリカを反映するだろう。ニューヨークやカリフォルニアなど民主党の強い青い州にいる女性たちは、これまで通り、合法に中絶できる。だが、南部や中西部の赤い州の女性たち、その中でも別の州まで行って中絶手術を受けるような財力のない、選択肢を持たない女性たち(その大多数はおそらく有色人種)に最もしわ寄せがくる。若い女性やDVや性暴力の被害者も同様で、社会的弱者が犠牲になることが目に見えている。
選挙の時と同様、赤でもなく青でもないスウィング・ステートの動きに注目が集まるだろう。これらの州では、今後、議論が激化することが予想されており、中間選挙にも影響を与える可能性がある。近隣の赤い州からの女性たちが、これらの州で中絶手術を受けられるかどうかが、非常に重要なポイントになるからだ。
望まない妊娠・出産は女性の教育や精神的・肉体的健康に悪影響を及ぼし、ひいてはキャリアや収入の機会に影響を与え、その子どもの育つ環境、教育レベルにも連鎖する。これはロー判決の多数派意見の中でも述べられていたポイントだ。結局、人種や階層、「持てる者」と「持たざる者」の格差がさらに広がることにもなる。
Pro Life(胎児の生命尊重)派の人々は、生まれる前の胎児の命の尊重については強く主張するが、生まれた後の子の人生をどう支えるかという話は面白いほど出てこない。同時に、今すでに生きている女性の生命や人生についてはどう考えているのか。これは以前から私の疑問であり、今回のアリート判事の意見書草案を読んで改めて疑問に感じたことでもある。
3割は「特定の宗教に属さない」
アメリカ人の信仰心にも大きな変化が生まれている。
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キリスト教は、アメリカ人の生活の中で大きな役割を果たし、さまざまな形で深く根付いている。私がマサチューセッツ州に初めて住んだ1990年代には、日曜日にお酒が買えなかった。ピューリタンの入植に遡る法律だと聞いた時には驚いた。
合衆国憲法修正1条は政教分離を打ち出してはいるが、大統領就任式などでは「神」という言葉が頻繁に出てくるし、アメリカではキリスト教を信仰していない人が大統領になったことはない。それ以前に、信仰を持たない人が大統領になったこともない。その大多数がプロテスタントだ(バイデンは、ケネディに続いて、歴代2人目のカトリックの大統領)。
2014年のPew Research Centerの世論調査によると、「神を信じる」と答えたアメリカ人の大人は89%いた。2007年には92%だったので、減っているとはいえ高い。
ただ近年、アメリカ人の信仰心や慣習にも変化が出てきている。2021年12月のPew Research Centerの世論調査では、キリスト教徒であると自己申告する人の割合が、10年前の75%から63%に減ったとされている。またこの調査では、プロテスタントの減少の方がカトリックよりも激しいこと、日々お祈りをするアメリカ人は半分以下であること、「自分にとって宗教は非常に重要なものだ」と答える大人が4割にまで減少していること、大人の約3割が「特定の宗教に属さない」と答えていることを報告している。特定の宗教に属さない人たちは、「無神論」「不可知論」、あるいは宗教に無関心であるということだ。
今後、アメリカの中で移民やその子どもたちが増え続ければ、どこかの段階でこれらの数字にもより劇的に変化が起きるのではないだろうか。ただ、それが必ずしも価値観のリベラル化につながるかどうかは分からない部分もある。例えばカトリック信者が多いヒスパニックの場合、若くても中絶反対、避妊反対、同性婚反対という意見の人たちも少なくないからだ。
選択的夫婦別姓議論に通底するもの
女性の自由を奪う家父長的な意識は、日本における選択的夫婦別姓問題と通ずるものがある(画像はイメージです)。
撮影:今村拓馬
アメリカではPro Choice 派(女性の自己決定権利を尊重する立場)、Pro Life 派(胎児の生命尊重派。中絶は人間の命を絶つことであると考える立場)という言葉があるが、これはもはや宗教や価値観の話を超えて、政治的ポジションの問題になっている。また、人を感情的にさせる問題でもあり、議論しても双方が完全に分かり合うことは難しい。
これは友人が指摘していてなるほどと思ったのだが、この対立構造は、日本における選択的夫婦別姓問題とも似ているところがあるかもしれない。SNSなどで別姓推進派に向けられる憎悪に満ちた言葉を見ていると、論理の問題ではないのだなと感じる。そもそも「選択的」なのだから、現システムでいい人たちには関係ないし、迷惑もかけない。それでも反対派(現状維持派)は新しい考え方を受け入れたくないし、許せない。中絶をめぐる対立も同じだ。中絶する本人以外には関係ないし、中絶も避妊もしたくない人はしなければ良いだけだ。他人に「するな」と言う必要はないだろうと思う。
突き詰めればどちらも、個人の選択を尊重したい人たちと、個人の選択よりも「共同体のモラル」「固有の文化」「これまでの伝統」といったものの一貫性を優先させたい人たちとの対立なのではないか。アリート判事が草案の中で、「歴史と伝統(history and tradition)」という言葉を多用していることとも重なる。
日本では最近、緊急避妊薬を市販薬にするかどうか(欧米やアジア諸国の多くですでに市販薬化されている)、また経口中絶薬(アメリカでは2000年に承認され、早期中絶の場合には多用されている)使用の際の配偶者の同意の有無が話題になっている。
それらの議論を見ていると、女性を意思と判断力ある一人前の人間として扱わず、何らかの権力で規制しコントロールしたいというパターナリズム、patriarchical(家父長的)な価値観の表れという部分は、中絶問題と通じるところがあると感じる。女性も男性も身体に関する自己決定権は同じはずだ。でも、人生の根幹に関わるような基本的な権利を、女性からなら奪ってもいいと(おそらく無意識に)思っているのではないだろうか。
2018年、カバノー氏が最高裁判事に承認された際の上院公聴会で、現副大統領のカマラ・ハリス氏のある質問が話題になった。法律家でもある彼女は、「男性の体について政府に決定権が与えられているような法律って思いつきますか?」と尋ねたのだ。カバノー氏は何度か質問を聞き直し、最後にしどろもどろになりながら「思いつかない」と答えた。ハリス氏は静かに「ありがとうございます」と言ったが、その時の彼女の表情は「やっぱりね」という感じだった。そんな法律はないからだ。
同性婚や避妊をめぐる選択にも影響?
連邦最高裁で同性婚を合憲とする判決が下った2015年、毎年6月に全米各地で行われるゲイ・プライド・パレードは、ことのほか盛り上がった(写真はカリフォルニア)。
REUTERS/Elijah Nouvelage
今すでにアメリカでは、「ロー判決は覆され、中絶に関して時計の針が50年分逆戻りする可能性が高い」という諦めの空気が広がると同時に、今後中絶を必要とする女性たちをどう支えていくかという現実的な議論に移っている。例えばシティグループは既に、中絶が制限される州にいる従業員たちに対するサポート体制(旅費の援助など)を打ち出している。
今リベラル側が恐れているのは、ロー判決が覆ることによる他の判決への影響だ。アリート氏は草案で、「この度の判決が、中絶に関係ない他の先例に影響を及ぼすことはない」と強調しているが、本当にそうだろうか。リベラル陣営では同性愛、体外受精、避妊など、性や生殖をめぐる個人の選択、プライバシーに関わる判決がターゲットにされるのではと見られている。避妊具は(婚姻している男女でも)一切使ってはならない……という時代に逆戻りする可能性だってゼロではないのだ。
ロー判決をめぐるニュースを見ていて、2015年、同性婚を合憲とする最高裁判決が出た年のニューヨークのゲイ・パレードの盛り上がりを思い出していた。あの時、同性愛の人々やリベラルは、「やっとここまで来た」「歴史的達成」と涙を流して喜んでいたが、あの裏には「こんなことが許される世の中になるなんて」と悔しがって泣いていた保守の人たちがいたのだと思う。今回は立場が逆転し、リベラルが泣き、保守が喜んでいる。
アメリカは振り子が振れるときの振れ幅が激しい。一旦右に振り切れたら左に振れる。歴史を振り返ると、いつもそうやって進んできたのだ。こういう時、トランプ当選時に、オバマ氏が言った言葉を思い出す。
「我々は一度としてまっすぐな道を進んできたことはない。ジグザグにしか進まないのだ。時に、我々は、ある人々にとっては前進だと思う方向に進むが、別の人たちはそれを後退と思うかもしれない。それでいいのだ」
“We have never taken the straight line. We zig and zag and sometimes we move in ways that some people think is forward and others think is moving back, and that's O.K.”
今言えるのは、中絶擁護派にとっては今後、長い戦いが始まるということだ。保守は、50年間諦めずに粘り強く戦ってきた。その気長な努力は認めざるを得ない。リベラルも、今後50年くらいは覚悟して戦い続けないといけないのかもしれない。
(文・渡邊裕子、編集・浜田敬子)
渡邊裕子:ニューヨーク在住。ハーバード大学ケネディ・スクール大学院修了。ニューヨークのジャパン・ソサエティーで各種シンポジウム、人物交流などを企画運営。地政学リスク分析の米コンサルティング会社ユーラシア・グループで日本担当ディレクターを務める。2017年7月退社、11月までアドバイザー。約1年間の自主休業(サバティカル)を経て、2019年、中東北アフリカ諸国の政治情勢がビジネスに与える影響の分析を専門とするコンサルティング会社、HSWジャパンを設立。複数の企業の日本戦略アドバイザー、執筆活動も行う。Twitterは YukoWatanabe @ywny