撮影:今村拓馬
最近、「人的資本経営」という言葉が取り上げられるようになっています。
そこで今回は、人的資本経営とはどういうものなのか、なぜ注目されているのか、働く個人にはどのような影響があるのかについてお話しします。
ESGがもたらした潮目の変化、大企業は戦々恐々
「サステナビリティ」「SDGs」「ESG」などのワードは、多くの人の耳になじんできました。
ESGとは、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)を指しますが、「社会」の中の課題の一つが「人的資本経営」です。
経済産業省による定義は、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」。
企業が人材の育成や活躍を促進することで成長を目指す取り組みは、当然これまでも行われてきました。「それと何が違うの?」と思うかもしれませんね。
今起きている新たな潮流は、人的資本への取り組みと成果そのものが「企業価値」と見なされ、それが投資判断の材料になってきている、ということです。
これまで投資家たちは、主に財務状況や事業成長性などを見て投資の判断をしてきました。しかし昨今、「ESG」への取り組み・成果を投資判断指標とする「ESG投資」が、グローバルで活発化しています。
例えば、米国証券取引委員会(SEC)は2020年、「人的資本」の情報開示の義務付けを発表しました。
日本では2021年、東証がコーポレートガバナンス・コードを改訂し、その中で人的資本の情報開示を強化する方針が盛り込まれています。
政府も、今夏にも人的資本への投資に関わる情報開示を企業に対して求める方針。6月中には投資家に伝える項目を骨子案としてまとめるべく動いています。
つまり、人材の採用・育成・活躍促進に関する自社の状況を、世の中に向けて、データとともに「開示」していかなければならないわけです。それは着々と「義務化」へ向かっています。
これに対し、上場企業の人事担当者たちは戦々恐々。まずは自社の状況を正確に把握するため、データを収集し、分析を進めているのです。
人的資本について定量化・分析する指標は、さまざまな国・機関から出されていますが、代表的なのが、国際標準化機構(ISO)が設けたガイドライン「ISO30414」。
ここでは、以下11の項目と、それにひもづく58の指標が挙げられています。
- コンプライアンスと倫理
- コスト
- ダイバーシティ
- リーダーシップ
- 組織文化
- 組織の健康、安全、福祉
- 生産性
- 採用、異動、離職
- スキルと能力
- 後継者育成
- 労働力確保
こうした世界的潮流の中、「義務」と捉えて取り組む大手企業が多いのも事実ですが、それだけではありません。
これだけ変化のスピードが速く、先行きが不透明な時代、企業の成長を左右するのはやはり「人材」です。
「人材こそ重要な資本」と考え、人的資本経営の実践に向き合う企業も多数。それは大手企業に限ったことではなく、スタートアップやベンチャー企業でも同様の動きが見られます。
日本企業が苦手な3つの領域
では、日本企業が「人的資本経営」を実現するにあたり、苦労を強いられるのはどのようなポイントなのでしょうか。
先の11領域を眺めてみると、「リーダーシップ不足」はよく指摘されます。そのほか、私の観点では、「ダイバーシティ」「組織文化」「生産性」などだと考えます。
「ダイバーシティ」のテーマで主に挙げられるのが「女性活躍」ですが、2015年の女性活躍推進法から6年以上経っても、女性管理職比率は目標に遠く及ばない状況。女性の意識、そして男性管理職たちの意識を変えるのはなかなか難しい実情が見てとれます。
「組織文化」は、従業員満足度、従業員エンゲージメントといった測定によって可視化されます。日本企業の従業員は他国に比べ、エンゲージメントがかなり低い傾向にあるという調査結果があるようです(下図参照)。
なぜ、日本企業の従業員はエンゲージメントが低いのでしょうか。転職エージェントとしての経験からの私見をお話ししましょう。
日本の大手企業では、活躍ポジションを与えられないミドル層の方が多数見受けられます。
特に「役職定年」の後は、「自身が必要とされていない」「うとまれているのではないか」と感じる方も多く、転職を検討するようになります。
しかし、経験・スキルがその会社内でしか通用せず、転職市場では評価を得られずに、会社にとどまる道しか選択できない方を多く見てきました。
そのようなミドル・シニア層の姿を見ている若手は、自社での将来ビジョンをポジティブに描くことができません。また、「裁量権を持てるまで時間がかかりすぎる」「スピードが遅すぎる」といった点に不満を抱き、転職に踏み切る若手が多数いるのも事実です。
こうした不安・不満が、エンゲージメントの低さの一因となっているように感じます。
また、「生産性」の向上のために組織のスリム化を図りたい企業も多いのですが、日本では労働基準法により、簡単には「解雇」ができません。最近は、早期退職・希望退職プログラムを導入したり、その対象年齢を引き下げたりする企業が増えていますが、効果を生むまでのハードルは高いといえるでしょう。
自分を「資産」と捉えて価値向上を目指そう
このように、「人的資本経営」は企業の人事にとって悩ましい課題なのですが、働く個人にとってはメリットが大きいといえます。社会全体が、人材の能力向上・活躍を推奨し、その取り組みを強化する企業が増えるということですから。
転職を考える人は、企業を選ぶ際、人的資本の開示情報を確認し、自身のキャリアの志向に合うかどうかの判断材料にしてもいいと思います。この情報は、企業ホームページの「サステナビリティ」などのページに掲載されています。
ただし、自身の能力開発を、所属企業にゆだねていればいい時代は終わりました。
一人ひとりが自身を「資産」と捉え、企業にとってどのような価値を生み出しているのかを常に自覚することが大切です。
自身の立ち位置を客観視し、今の自分には何が足りないのか、何を学べば資産価値を高められるのか、考えていただきたいと思います。
繰り返しますが、変化のスピードは加速しています。その変化に応じ、企業の事業戦略も変わっていきます。戦略が変われば、必要な人材も変わる。どのような人材が「価値ある資産」であるかも変わっていきます。
自身が在籍企業で「価値ある資産」ではなくなれば、社外に出て、自身が資産価値を発揮できる場所を探さなければなりません。
そんな時代であることを意識しながら、自身のスキルのアップデート、リスキリング(学び直し)の習慣をつけていくことをお勧めします。
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※本連載の第79回は、6月13日(月)を予定しています。
(構成・青木典子、撮影・鈴木愛子、編集・常盤亜由子)
森本千賀子:獨協大学外国語学部卒業後、リクルート人材センター(現リクルートキャリア)入社。転職エージェントとして幅広い企業に対し人材戦略コンサルティング、採用支援サポートを手がけ実績多数。リクルート在籍時に、個人事業主としてまた2017年3月には株式会社morichを設立し複業を実践。現在も、NPOの理事や社外取締役、顧問など10数枚の名刺を持ちながらパラレルキャリアを体現。2012年NHK「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」に出演。『成功する転職』『無敵の転職』など著書多数。2男の母の顔も持つ。