中絶をめぐる「ロー対ウェイド裁判」が覆る可能性を示唆する最高裁意見のリークを受け、全米規模でデモが起こっている。写真は5月14日、ニューヨーク・ブリックリンにて中絶権行使派のデモの様子。
REUTERS/Caitlin Ochs
こんにちは。パロアルトインサイトCEO・AIビジネスデザイナーの石角友愛です。
本日はアメリカで今、大きな注目を集めている中絶制度に関して、民間企業、とりわけ先進企業がどんな動きを取っているかを解説します。
中絶制度をめぐっては、これまでも多くの議論が交わされてきました。ある意味で、アメリカで最も政治的に重要な議題の1つとも言えます。この背景には、1973年の「ロー対ウェイド」(いわゆる、ロー対ウェイド裁判)に対する最高裁判決が、女性の人工中絶権を認める歴史的な判例となっていることを知っておく必要があります。
判決では、妊娠3カ月までは全面的に、また条件付きの場合、6カ月まで女性の人工中絶権を認める内容となっています。つまり、特定の時期までは、「女性が人工中絶を選ぶ権利は憲法により保障されている」と認める内容です。
これには判決当時から、アメリカ国内の世論は賛成派と反対派に大きく分断されていました。
具体的には、受精が成立した瞬間、または心拍確認の瞬間から人権を認めるべきだとし、中絶に反対する保守派と、女性の選択権を堅持しようとするリベラル派が長年、この判決を巡り争ってきたのです。
連邦最高裁判例のリーク「事件」
5月3日、最高裁の多数意見の草案がリークした直後に、抗議に集まった人々。背景の建物はワシントンD.C.にある連邦最高裁判所。
REUTERS/Yana Paskova
こうした中で、2022年の5月初旬、この連邦最高裁判例について、現在の最高裁内で書かれた多数意見の草案が外部にリークされるという「事件」が起きました。そもそも、最高裁文書が漏洩(ろうえい)するという異例の出来事に加え、リークされた草案が現行の判例を覆す内容になっていたことが発覚し、アメリカ国内で大きな動きが起こる発端となりました。
もっともトランプ政権以降、共和党が強い州では中絶に関して、独自の法律を通す動きが強まっていると言われています。例えば、ハートビート(心臓音)法案(妊娠6週目以降の中絶を禁じる法案)という法案を通す共和党派の州が増えており、米国プランド・ペアレントフッド※などにより提出された報告書によると、2019年に入ってから41州で250以上の中絶制限法案が提出されているということです。
※Planned Parenthood Federation of America、PPFA。 全米家族計画連盟、中絶手術を提供する団体
こうした州の中では、性的暴行などによる望まない妊娠における中絶をも違法化しようとする動きが出てきています。
例えば、CNNの報道によると、オクラホマ州の法案では、たとえレイプや近親相姦の被害者であっても、受胎の瞬間からほぼすべての中絶が禁止され、中絶手術を行った医師に対しても最高で10年の禁固刑を含む厳しい罰則を課しています。
また、ケンタッキー州の法案では、FDA(Food and Drug Administration:連邦食品医薬品局)に認められているにもかかわらず、州民が郵送による薬物中絶を受けることを禁止しています。
テキサス州では、最高裁に至った別のケースで、「自警団」訴訟制度を創設しています。
これは、妊娠6週目という早い時期であっても、心拍が検知された後に中絶を援助したり手術を提供したりした者(妊娠した本人以外の人物)に対する、民間訴訟を許可するものです。
今までは、異なる州でこのような動きがあったとしても、憲法で守られた確固たる権利として最高裁の「ロー対ウェイド」の判決があることで、大きな抑止力となっていました。しかし、この判決が覆されたとしたら、今後保守派の州では独自の極端な中絶禁止の法案を通す動きが、より活発になる可能性があります。
ある調査では、全米50州のうち、過半数を超える26もの州で、中絶手術が禁止になる可能性があるとも指摘しています。
赤い州が最高裁判決が覆された場合に人工中絶手術を禁止するであろう州。
出典:Guttmacher Institute
テレワークも背景の1つ。スタバらが乗り出した「社員の中絶」への支援
このような背景を踏まえ、民間企業では、コロナ禍で進んだリモートワークを背景に、「中絶が実質的に禁止になる可能性がある州に住む社員」に対して、どんな支援をするかが今大きな課題になっているのです。
なぜなら、そのような州に住む社員が人工中絶手術を受けるためには、リベラルな州まで移動しなければならないケースが出てくるからです。
アマゾン、スターバックスの対応:
スターバックスの従業員資源担当副社長代理であるサラ・ケリー氏による従業員向けのメッセージ(英文サイトを機械翻訳して表示しています)
出典:Letter to Starbucks Partners
実際に、アマゾンやスターバックスを含むいくつかの企業は、オクラホマやサウスダコタといった州の従業員が中絶規制の強化に直面する中、「居住地近くで中絶手術が受けられない場合、州を移動するための旅費を支払う」という医療給付金拡充の方針を発表しました。
スターバックスの従業員資源担当副社長代理であるサラ・ケリー氏は、従業員向けのメッセージで、「多くの皆さんと同様に、ロー対ウェイド事件で初めて確立された中絶の憲法上の権利に関連する最高裁判所の意見案に深い懸念を抱いています」と述べた上で、「今後、医療へのアクセスに影響が生じる事態となった場合、私たちは皆さんが『サポートされている』と感じられるような体制の構築に取り組みます」と伝えました。
具体的には、同社が用意するスターバックス・ヘルスケアに登録しているパートナー(従業員)は、居住地や政治的信条に関係なく、中絶や性別適合手術を受ける際に、自宅から100マイル(約160キロ)以内にそれらのサービスがない場合、対象となる旅費の払い戻しを受けられる、という内容です。
地域口コミサイト「Yelp」の対応:
グルメアプリ「Yelp」でサンフランシスコの口コミを表示したところ。
撮影:伊藤有
テキサス州に200人強の従業員を抱え、世界最大級の地域情報口コミサイトを運営するYelpもまた、中絶のために州外への移動が必要な従業員の旅費を負担すると発表しています。ある記事によると、Yelpは妊娠中の人々に中絶をしないように説得しようとする「リプロダクティブ・ヘルス・クリニック」がYelpの検索結果に表示されないようにアルゴリズムを手動で分別し、調整したといいます。
アルゴリズムの手動調整のような手法は、Yelpのような口コミサイトにとって、大きな決断です。通常はサイトの公平性や透明性を担保するために、表示結果を運用側が恣意的に変えることはよしとはされません。しかし、中絶問題に関して、Yelpははっきりとしたスタンスを取っていることが、このことからも考察できます。
ライドシェア大手Uber、Lyftの対応:
2021年9月に公開されたLyftの声明。
撮影:Business Insider Japan
また、前述のように、法案に「中絶手術をいかなる形でも支援してはならない」という内容を組み込む動きは、他のテック企業にも影響しています。
ライドシェア大手のウーバーやリフトは「中絶手術をする場所までの移動手段を提供したドライバーに対して、法的支援を行う」と宣言したと報じられています。
このように、中絶問題は女性の人権の問題では済まない影響をアメリカ社会に与えています。医師や薬局などの医療業界、中絶手術を担う病院の検索ツールやローカル情報を提供する口コミサイト、そして病院までの移動手段を提供する交通業界にまで影響を及ぼしています。
アメリカ企業へのビジネスリスクとは
この中絶をめぐる従業員支援の動きは、リモートワーカーを多く抱える企業だけでなく、中絶手術を禁止する保守的な州に本社を持つ企業にとっても、重要な課題になりそうです。
例えば、New York Timesの記事によると、サンフランシスコからテキサス州オースティンに本社を移したテック企業、QuestionPro社のCEO、ビベック・バスカラン氏は、採用面接で中絶法の話になることが多いと言います。バスカラン氏は「面接では、“私の個人的な価値観はテキサスとはあまり結びつかないのですが、私にテキサスに移住することを強要するつもりですか”と言う女性もいました」と述べ、テキサスの制限的な法律が「人材採用の妨げになる」可能性があることが分かります。
また、中にはテキサス州にのみオフィスを構えることのリスクを考慮して、よりリベラルな州に拠点を展開する企業も増えています。ヒューストンに本社を置く化学品会社ソルジェン社のCEO兼共同設立者のガウラブ・チャクラバルティ氏は、テキサス州に移ることが不安な採用担当者のために、今後数カ月のうちにボストンに2つ目のオフィスを開設することを決めたと語っています。
通常、民間企業は、政治的運動とは距離を置くものです。が、今回のケースではとりわけテック業界などで複数の企業が、積極的な措置を取っていることが特徴です。
その理由は、テック企業では若くリベラルな社員を多く抱えていることが大きな要因のひとつだと言えます。実際、イェール大学のジェフリー・ソネンフェルド教授(経営学)がABCニュースに伝えたところによると、この騒動で新たな従業員支援の仕組みを導入した企業の多くはハイテク業界に属し、従業員は若くてリベラルな傾向があるといいます。
もちろん、民間企業がこのような積極的措置を取ることに対しては反対意見もあります。
例えば、必要以上に政治色が強くなることで、企業のブランディングにリスクを与えうることなどです。しかし、中絶問題はもはや単なる政治的課題ではなくなってきている、という見方が増えているように感じます。大企業の場合は特に、何も措置を取らないということは選択肢にないとまで言えるほど、アメリカでは大きな動きが巻き起こっています。
日本企業でも、税制優遇等の目的でテキサスなどの州に拠点を持つ企業が増えています。
アメリカで採用をする全ての企業にとって、この中絶制度に関する動きは大きなビジネス上の課題と認識されつつあります。
もちろん、アメリカに進出する日本企業にとっても、他人事ではありません。
(文・石角友愛)
石角友愛:2010年にハーバードビジネススクールでMBAを取得したのち、グーグル本社で多数のAI関連プロジェクトをシニアストラテジストとしてリード。その後HRテック・流通系AIベンチャーを経て、パロアルトインサイトをシリコンバレーで起業。順天堂大学大学院医学研究科データサイエンス学科客員教授(AI企業戦略)及び東京大学工学部アドバイザリー・ボードを務めるなど幅広く活動している。著書に『いまこそ知りたいDX戦略』、『いまこそ知りたいAIビジネス』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『経験ゼロから始めるAI時代の新キャリアデザイン』(KADOKAWA)、『才能の見つけ方 天才の育て方』(文藝春秋)などがある。