結局「値上げ許容度高まっている」黒田発言は何が「地雷を踏んだ」のか。家計の実質所得に配慮が薄すぎて…

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5月19日、ドイツで開催された主要7カ国(G7)サミットに参加した日本銀行の黒田東彦総裁(中央)。

REUTERS/Thilo Schmuelgen

日本銀行の黒田東彦総裁が都内での講演で、相次ぐ商品やサービスの値上げに対し、「日本の家計の値上げ許容度も高まってきている」と発言して大きな批判を浴び、翌日には撤回した。

黒田総裁の発言は事前に用意された予定稿に沿ったもので、正確に言えば、予定外の「失言」ではない。実際、従前の政策姿勢ともまったく矛盾がない。

2013年以降、日本はアベノミクスの名のもとで、拡張的な財政・金融政策により民間部門(とりわけ家計部門)の粘着的なデフレマインド(=長期デフレのなかで企業や消費者に染みついた、物価は上昇しない、あるいは経済状況は良くならないと考える悲観的な心理)を払拭し、インフレ期待を底上げしようとしてきた。

端的に言って黒田日銀は「物価上昇(要するに値上げ)が普通に行われる社会を目指してきた」と言ってもいいだろう。物価上昇が賃金の上昇を誘発し、結果として景気も回復していくという論理だ。

物価上昇が「原因」で、景気回復をその「結果」とするこの考え方は明らかに倒錯(とうさく)で、筆者も含めて経済・金融の専門家からは疑問を呈する声が数多くあがってきた。

批判を浴びた黒田総裁の「家計の値上げ許容度も高まってきている」発言には、上記のように、ここまで日銀が目指してきた「インフレ期待の底上げ」が実現しつつあるという意味合いも含まれていたのだろう。

いずれにしても、そうした文脈は拾い上げられることなく、市民が値上げを受け入れているとの表現に変換されて世論の大きな反発を招き、メディアの批判にさらされる結果となった。

一連の騒動から、日本においては「いかに物価上昇が受け入れられないか」をあらためて感じさせられた。

物価上昇が普通に行われる社会を目指す黒田日銀の政策は、9年前の導入当初こそ熱狂的に受け入れられたものの、いまその実現が見えてきたところで世論からバッシングを受け、実質的にはここで幕を閉じたと筆者は考えている。

「値上げを受け入れている」は実態と違う

黒田総裁は6月7日の参議院財政金融委員会で「家計が自主的に値上げを受け入れているという趣旨ではない。誤解を招いた表現となり申し訳ない」と実質的に発言を撤回した。

発言の趣旨は従前の政策に合致しているとしても、少なくともその表現にはまずさがあった。

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物価上昇、値上げの波はすでに日本社会全体に及びつつある。

Shutterstock.com

批判を浴びた黒田発言は、渡辺努・東京大学教授が4月に実施した「なじみの店でなじみの商品の値段が10%上がったときに、どうするか」というアンケート調査において、「値上げを受け入れ、その店でそのまま買う」との回答が半数を超えた事実に依拠しているという。

すでに多くの指摘がなされているように、この調査結果に対応する社会の実態は、市民が「値上げを受け入れ」ているのではなく「あきらめている」と認識すべきだろう。

最近の消費者物価指数(CPI)をみれば分かるように、「なじみの店」「なじみの商品」にわざわざ限定しなくても、社会全体で一般物価が上昇している状況がすでにある。

そんななかでも、家計は生きるために消費・投資をしなければならない。

調査では「値上げを受け入れ、その店でそのまま買う」が半数を占めたとのことだが、その逆の「値上げを受け入れず、その店では買わない」という選択肢は、どこもかしこも値上げの状況のもとでは選択の余地がない。

そうした家計の苦しい状況を無視して、「自主的に受け入れている」としたのであれば、確かに配慮を欠いた発言だったと言うほかない。

なお、日銀が四半期に1度公表している「生活意識に関するアンケート調査」を参考にした場合は、家計の実態について別の景色も見えてくる。

直近の同調査結果(調査実施期間は2月4日〜3月2日)を見ると、現在の暮らし向き(1年前対比)について、「どちらとも言えない」が減って、代わりに「ゆとりがなくなってきた」が顕著に増えている。

その結果、「ゆとりが出てきた」から「ゆとりがなくなってきた」を引いて求められる指標「暮らし向きD.I.」は、パンデミック発生当初の最悪期に相当する低い水準まで悪化している【図表1】。

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【図表1】現在の「暮らし向き」に対する感覚の変化。全国の満20歳以上の個人を対象に「生活意識に関するアンケート調 査」を日本銀行が実施した結果。

出所:日本銀行「生活に関するアンケート調査」より筆者作成

物価上昇への「嫌悪感」が日銀に向かう可能性

批判を浴びた黒田発言は、家計の実質的な所得環境がいかに悪化しているかについての問題意識が低かったことを示しているとの見方もできる。

日本経済全体の所得環境は目に見えて悪化しており、その事実を踏まえるなら、市民は「値上げを受け入れている」のではなく「受け入れさせられている」という表現のほうがしっくりくる。

それは「生産」の実態を示す実質国内総生産(GDP)ではなく、「所得」の実態を示す実質国内総所得(GDI)を見るとよく分かる。

実質GDPと比べて実質GDIの停滞は著しく、2%以上低い水準で推移している。両者の差は交易条件の変化(交易利得・損失)によるもので、海外への所得流出(交易損失)が大きくなると実質GDIは低下する。それはもちろん、家計部門の実質所得環境の悪化を意味する。

最近よく言われる「悪い円安」も、家計部門のコスト負担増大が議論の本質であって、その意味では円安の善し悪しより、実質所得の善し悪しが本当の問題意識と思われる。

円安は輸入価格の上昇を通じて交易損失を拡大する方向に作用するので、実質所得に対する影響から「悪い」という判を押されやすくなる。今回批判を浴びた発言に限らず、黒田総裁が円安について語るときは、得てしてこの家計部門の実質所得への配慮が薄い印象がある。

いずれにしても、今回の発言をめぐる一連の騒動により、世論の物価上昇への「嫌悪感」が今後日銀の金融政策へと向けられやすくなった可能性がある。政府・日銀としては極力避けたかった展開だろう。

就任以降、金融政策にはさほど関心を示してこなかった岸田政権だが、この世論の変化に対応する動きを見せるのか、7月10日に投開票の迫る参院選を境とした変化に注目したい。

※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。

(文・唐鎌大輔


唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。

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