撮影:今村拓馬
7月10日に投開票が行われる参議院選直前に、ぎょっとする映像を見た人はどれだけいただろうか? 日本維新の会比例区から立候補している猪瀬直樹元東京都知事が、同じく日本維新の会から東京選挙区に出馬した海老沢由紀候補の応援演説をしながら、海老沢氏の体をベタベタと何度も触った、あの映像である。
それなりの報道とそれなりの非難を集めた事件だが、非難の際に使われた「公然セクハラ」という言葉、当の猪瀬氏が謝罪した際に使った「軽率」という言葉、触られた海老沢氏が謝罪を「誠実」とかばう展開、それによって登場した「当人が良いと言っているのだから良い」論、一連の出来事を受けた維新の会代表の松井一郎大阪市長の「人によってそういうふうに受け止められる可能性があるならやめるべき」というコメントなど、違和感を感じるポイントだらけだった。
体を触っただけで暴行とみなす欧米
まずこの行為を「公然セクハラ」と呼ぶこと。ハラスメントというのは、英語の原義では、相手が嫌がる行為をすることを指す。日本では、性的な意味のある「触る」行為も「ハラスメント」に含まれるという解釈もあるようだが、欧米には同意なく肉体に触れることは「assault (暴行)」と見なされる。人間の肉体は、その人に属するもので、性的な意味があろうとなかろうと、当人の同意なく触ってはいけないという前提がある。
例えば殴り合いが起きた場合、先に触ったほうが処罰の対象になる。
先日、トランプ大統領の弁護人を務めたルディ・ジュリアーニ元ニューヨーク市長が、息子アンドリュー・ジュリアーニ氏の遊説同行中に訪れたスーパーマーケットで、彼に反感を持つスタッフに背中をはたくように触られたことを、「暴行」と主張して、スタッフが逮捕されるという事件が起きた。スタッフの手が背中に触る瞬間のビデオが流出して、「暴行」に当たるかどうか物議を醸しているが、少なくとも他者の肉体を勝手に触ってはいけないという前提は共有されているように思う。
次に「軽率」とは、物事を深く考えずに軽々しく行うことだ。確かに猪瀬氏の行動は軽率だったが、謝罪をする際にこの言葉を使うことは自分の行為自体をその言葉に収束させ矮小化することになる。
海老沢氏の「当人が良ければ良い」論も、公人が公の場でこうした行為をすることが、社会に、特に子どもたちに間違ったメッセージを送ることにもなる。さらに世の性加害の被害者が受けるフラッシュバックといった悪影響も無視しているし、松井代表の「人によってそういうふうに受け止められる可能性があるのなら」という回りくどい「仮説」も、問題を受け手の感じ方に収束させている点で不適切である。
性加害を矮小化する言い回し
不適切行為をはたらく政治家は後を絶たないが、議員辞職にまで追い込まれるケースは少ない(写真はイメージです)。
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セクハラや性加害が問題になるたびにお約束のように使われる「~と受け止められかねない」「不快な思いをさせたなら」といった構文も、矮小化の一種だ。
もうひとつ、世界の潮流とのズレを大きく感じるのは、いまだにこうした問題に多くのメディアが沈黙してしまうことである。今回の猪瀬氏の行動をテレビ局がほぼ報じなかったことは、テレビ局内の放送内容を決める中枢の人たちが、この行為を問題に感じなかったということなのか、はたまた選挙前のこの時期に、こうした行為を問題にすることにリスクが伴うからなのか。
「政治家 セクハラ」と日本語検索してみると、過去数カ月だけでも現職の政治家や関係者によるセクハラや不適切な行為のオンパレードである。だいたいの事件は謝罪によって終わり、ときには離党につながることもあるが、議員辞職にまで至ることはまずない。
女性に対する加害・暴力行為が「女性問題」と表現されることもある。こうしたことを一つひとつ考えてみると、女性に対するセクハラや暴行がいつになってもなくならない背景には、問題を矮小化されたり、存在しないことにする男性優位社会の構造的な問題があることに気づく。
こうした何層にも重なる世界基準とのズレについて書くと、必ず「欧米中心主義だ」とか「日本には独自の文化があって」と言い出す人がいるが、これも的外れだ。日本は自他共に認める先進国としてG7に名を連ねながら、ことジェンダー平等では120位という不名誉な評価を受けているのだから。
中絶する社員をサポートする米企業
「中絶は違憲」との最高裁判決に、アメリカでは各地で抗議デモが起こっている(フロリダ州で2022年6月25日撮影)。
REUTERS/Marco Bello
とはいえ、今のアメリカに目を向けてみると、単純に日本より進歩しているとは言い切れない。
6月24日、アメリカの最高裁は、女性たちに中絶の権利を認めた1973年の「ロー対ウェイド」判決をひっくり返したことで、保守州で中絶ができなくなった事態を見て、衝撃を受けている人も多いだろうと思う。
一度は絶対に覆されないはずと見なされていた50年前の判決が過去のものになってしまったのは、トランプ前大統領が任命したブレット・カバノー判事とエイミー・コニー・バレット判事を含む保守派の判事たちが、任命の際に宣誓のもと証言したことを一斉に破るという異常事態が発生したからだ。
理由は何であれ、アメリカの女性の権利をめぐる状況は50年分後退したと言わざるを得ない。
ただ、アメリカに見えるひとつの希望は、民衆の抵抗運動をサポートする企業がどんどん増えていることである。
2020年に刊行した『Weの市民革命』でも紹介したが、伝統的に政治と距離を取ってきたアメリカの経済界はここ数年、銃規制やBlack Lives Matterなどのムーブメント、さらには消費・社内アクティビズムを受け止めて、中立の立場を捨て、Z世代、ミレニアル世代、人種マイノリティやLGBTQの従業員たちと連帯するようになっている。
今回の最高裁判決を受けて、さらにこの傾向は強まっている。アメリカを代表する企業が一斉にこの最高裁判決を非難したり、中絶を必要とする従業員に対して、中絶ができる他の州までの旅費を負担することを発表。これは2022年の企業アクティビズムの最大の特徴である。パタゴニアにいたっては、プロチョイス(中絶の権利賛成派)のデモに参加して逮捕された従業員の保釈金も負担する意向を示している。
LGBTQ支援をマーケティングの材料にするな
ニューヨークでは毎年、6月最後の日曜にプライド・パレードが行われる(写真は2019年)。
REUTERS/Lucas Jackson
もちろんこうした運動との連帯に、ウォッシング的要素があるかどうかは注視しなければならない。
こうした企業から政治家への献金の流れの追跡を専門とし、企業のダブルスタンダードを追及する急先鋒に、ジャッド・レガム氏という独立系のジャーナリストがいる。
女性の権利や多様性を標榜しながら、中絶反対派の利益を代表する議員たちに政治献金をしてきた企業は名指しで非難され、ボイコットの対象になる。余談だが、レガム氏は主にサブスタックというニュースレターのプラットフォームを使って発信しているが、この分野においては情報の発信が圧倒的に早く、既存メディアにも情報ソースとして使われているのも興味深い。
6月はLGBTQのアイデンティティを祝福する「プライド」月間であるが、近年日本でも遅ればせながら、多くの企業が、プライド月間を記念したマーケティング・キャンペーンを打つようになった。
こうした傾向は歓迎されるべき一方で、歴史的に過酷な抑圧と弾圧を受けてきたLGBTQ人口が、自身のジェンダー/性的アイデンティティを祝福するために生まれた概念「プライド」を、ただレインボーの旗をマーケティングに使うだけのイベントにしてしまったら、それは企業による「ウォッシング」である。
プライド月間に、婚姻を拒否された同性のカップルが起こした訴訟を大阪地裁が却下し、「結婚平等が認められないのは合憲」と判断を下したことは皮肉としか言いようがない。それ以上に、プライド月間の始まりにマーケティングポストを発信していた企業から、大阪地裁の判決を非難したり、同じ結婚の権利を与えられなかったLGBTQの人々と連帯するような動きがほとんど見られなかったことには失望する。
私はTwitterの日本法人が出していたプライド月間のプロモーションツイートの下にぶら下がるLGBTQ差別のツイートを見て通報したが、明らかに規約違反にもかかわらず、何の対策にもつながらなかった。企業が、平等な権利を与えられていない人たちをマーケティングの材料に使い、その権利のためには闘わないことにはいい加減がっかりしている。
(文・佐久間裕美子、編集・浜田敬子)
佐久間裕美子:1973年生まれ。文筆家。慶應義塾大学卒業、イェール大学大学院修士課程修了。1996年に渡米し、1998年よりニューヨーク在住。出版社、通信社勤務を経て2003年に独立。カルチャー、ファッションから政治、社会問題など幅広い分野で、インタビュー記事、ルポ、紀行文などを執筆。著書に『真面目にマリファナの話をしよう』『ヒップな生活革命』、翻訳書に『テロリストの息子』など。ポッドキャスト「こんにちは未来」「もしもし世界」の配信や『SakumagZine』の発行、ニュースレター「Sakumag」の発信といった活動も続けている。