6月24日は、アメリカ最高裁が女性から人工中絶の権利を奪った日として記憶されることになる(写真は抗議のシンボルであるハンガーを掲げ声を上げる女性たち)。
REUTERS/Mike Stone
6月24日、アメリカ連邦最高裁は州の妊娠中絶禁止措置を認める判決を下した。
このニュースは世界に大きな衝撃を与えた。日本も例外ではなく、判決内容に対する驚きと落胆の声に加え、「最高裁の独立性はどうなっているのか」という声が大きくなっている。
アメリカの司法システムが日本でこれだけ注目を集めたことは私の記憶にない。何といっても、「州が独自に中絶禁止を行うことを合憲とする」という判決のインパクトは大きい。
なぜアメリカ連邦最高裁は女性の人工妊娠中絶の権利を奪ったのか。その理由を考えてみたい。
針金のハンガーが意味するもの
人工妊娠中絶を認めた1973年の「ロー対ウェイド判決(Roe v. Wade)」は、当時の女性解放運動の総称である「ウーマンリブ」が勝ち取った成果だった。しかし、これを違憲とする今回の判決によって、その権利も、成果も奪われることとなった。
女性の社会進出などで日本よりも圧倒的に先行していたはずのアメリカで、このような時代に逆行する動きが認められたことに対しては、日本を含め世界中が首をかしげている。
確かに急激な変化だ。この判決に合わせて、中絶の全面禁止を決めた州は10を超える。その動きはさらなる広がりを見せており、今後半年以内に全米の約半数の州で中絶がほぼ不可能になる。
中絶を違憲とする最高裁の判決以降、中絶禁止に動いた州は6月21日時点で10を超える。
(出所)Guttmacher Instituteの資料をもとに編集部作成。
驚くのは、レイプや近親相姦などの場合でも中絶を禁止する州も多いことだ。「胎児の命を守る」という名目で、母体の保護はないがしろにされる。
中絶が禁止になった州に住む女性は、中絶しようと思えば他州で処置を行わなければならなくなる。ただ、中絶が認められた他州のクリニックに通うほどの金銭的な余裕がない女性の場合、自分の近くで非合法で処置をしてくれる場所を探さざるを得ない。場合によっては自らが処置をすることもある。
判決に反発するデモの女性たちが持っているのが、針金のハンガーだ。1973年の判決以前は、中絶を禁止する州では実際にハンガーの針金で胎児を殺めたケースもあった。不衛生で危険な状況であり、命に関わる。50年近く守られていた女性の権利が消えてしまう。デモに参加する女性たちが手にしているハンガーは、そんな時代への逆戻りは断じて許せないという強い憤りの象徴だ。
一方で、妊娠中絶は「子殺し」として、ロー判決以降、州の中絶禁止の復活を強く訴えてきたキリスト教福音派にとっては50年ぶりの悲願達成となる。
どちらにしても歴史的ではある。
実は「あり得ない」というほど乖離してはいない
今回のような判決が出るのは「歴史的」ではある。ただ、もう少しアメリカの最高裁や司法の仕組みや最近の変化をしっかり見てみると、「起こるべくして起こった」という気さえする。
特に世論の分断がそれを示唆している。
各種世論調査では、6割程度の人々が「ロー判決」を支持している妊娠中絶容認(プロチョイス)派である。逆に言えば、「ロー判決」破棄を支持する妊娠中絶反対(プロライフ)派も4割程度はいる。
聖書の字句をそのまま信じるキリスト教保守(宗教保守、福音派)は国民の20〜25%を占めている。中絶には圧倒的に反対だ。宗教保守ほどキリスト教に熱心ではないが中絶には反対、という層も一定程度いるとすると、「4割」という数字もうなずける。
中絶反対のデモに参加する若い女性たち。福音派はここ20年ほど、若い女性の参加者を前面に押し出すことで、中絶に反対しているのは他ならぬ女性たち自身なのだとアピールしている。この写真では中絶容認派のデモを反対派のデモが包囲している。これも「女性の意見は中絶容認だけではない」とメディアに見せつける常套手段だ。
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中絶禁止についての意見にはかなり地域差がある。人口が大きいカリフォルニアやニューヨークなどではプロチョイス派が圧倒的だ。ただ、宗教保守の牙城である南部や中西部などいくつかの州では、人口は少ないもののプロライフ派が多い。上述のように妊娠中絶禁止に動く州の数を見れば、ほぼ拮抗する。
アメリカ全体で見るべきなのか、州の数で見るべきなのかは大統領選挙の結果をめぐる議論と似ている。例えば2016年の大統領選では、ヒラリー・クリントンの得票はトランプよりも約300万票多かった。しかし、州ごとの選挙人の総計ではトランプが80近く上回って勝利し、大統領になった。
今回の判決はこのように微妙ではあるが、やはり日本人が考えるほどアメリカの世論と最高裁の判決の差があるわけではない。これまでの政治学の研究では、アメリカの連邦最高裁の判決は、おおむね世論に従うとされている。「世論通り」とは言えないものの、「世論調査の結果とは異なる」わけではない。
「最高裁の保守化」という大きなベクトル
今回の判決で大きかったのが、判事の構成である。一気に保守派の判事の数を増やしたトランプ政権の影響は大きい。
ただ、それでもトランプ政権だけが悪者というわけではない。「最高裁の保守化」は長年の結果でもあるためだ。
1973年の「ロー判決」の際、明らかに保守派といえる判事は1人だけだった。リベラル派は3人で、中道的な判事が5人いた。実際の判決ではリベラル派3人、中道4人の計7人の判事が州の中絶禁止に異を唱えた。
2022年6月末時点の最高裁判事の顔ぶれ。前列左から、アリトー、トーマス、ロバーツ、ブライヤー、ソトマイヨール。後列左から、カバノー、ケーガン、ゴーサッチ、バレット。このうちブライヤー、ソトマイヨール、ケイガンの3判事がリベラル派、それ以外の6判事が保守派という構成だ(2022年6月にブライヤー判事が退任し、代わって7月に同じくリベラル派のジャクソン判事が就任した)。
(出所)米連邦最高裁のホームページより
日本の最高裁判事は70歳定年だが、アメリカの連邦最高裁の判事は終身制である。自ら引退するか、死去しないと次の判事への交代はない。アメリカの大統領はバイデンで46代目だが、現在のロバーツ主席判事は第17代目であり、それだけ最高裁の構成は新陳代謝が緩やかなのだ。
ただ、それでも「ロー判決」のころから考えると、最高裁判事の構成は明らかに変わった。1980年代から保守派判事が増え、最高裁が少しずつ保守化していくベクトルが顕著だ。
判事の構成は1992年代初めからオバマ政権の最終年の2016年初めまで長年、「保守4、リベラル4、中道1」という時代が続いた。
事態が大きく変わったのがトランプ政権だった。2016年初頭に保守派のスカリア判事が死去し、空席となった席に同じく保守のゴーサッチを任命した段階ではバランスは変わらなかったが、2018年に引退を決めた中道のケネディ判事と、さらには日本でも有名なリベラル派のギンズバーグ判事が2020年に急逝した後の席に、カバノーとバレットという保守をそれぞれ任命した。この3人の保守判事任命で一気に「保守6、リベラル3」に変わった。
大統領を2期8年務めるとして、在任中に最高裁判事を任命するのは多くの場合、せいぜい2人だ。だがトランプ前大統領の場合、1期4年の間でたまたま3人を任命することになった。
ここまでだと単なる偶然かもしれない。だが、大きかったのは上院のルール改正である。
下院と違って、上院の議事進行は単純過半数ではない。計100議席の上院で、もし少数派が41人以上いれば、59人の多数派の議事を止めることができる「フィリバスター(合法的議事妨害)」という制度がある。
しかしトランプ政権発足直後の2017年4月に、連邦最高裁については、単純過半数で大統領の任命した候補を承認できるフィリバスターの例外事項を上院の共和党側がまとめた。当時の共和党は52議席しかなかったが、上院内の規則改正は単純過半数で可能だった。
この奥の手が決定的だった。トランプ政権が任命した3判事の上院での承認は、ゴーサッチ(54対45)、カバノー(50対48)、バレット(52対48)と、いずれもフィリバスターの例外規定を通さなければ承認されなかったはずだ。
2018年7月、トランプ前大統領は保守派のカバノーを判事に任命した。
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「保守派の判事を任命したトランプ前政権が悪い」「政治との独立性は疑問だ」などの声が広がるのは当然であろう。ただ、最高裁判事は大統領が任命して議会上院が承認するため、その際の大統領と議会の関係や政党の力関係でどんな人物を任命できるかも変わってくる。つまり、投票する上院議員の間に、議会や大統領の力関係を変えるような勢力が現れなければ、こうはならなかったはずだ。
宗教保守の政治化
この勢力こそ、宗教保守だ。この50年の間、共和党の強固な支持母体に成長している。
第二次世界大戦後、民主党は議会でずっと優勢だったが、1980年代ごろから共和党も盛り返していった。その原動力となったのが、共和党に肩入れしていった宗教保守だった。
「ロー判決」以前は、宗教保守は政治とは比較的距離を置いていた。しかし、「ロー判決」は宗教保守にとって衝撃的だった。「このままでは自分たちの主張が通らない」と妊娠中絶規制を進めることを目的に、宗教保守は共和党に接近していった。
宗教保守の政治への影響が最も現れたのが中西部、南部の共和党化だった。このうち特に南部は1980年代ごろまでは民主党の牙城だった。北東部などのリベラル派とは異なる、保守的な「南部民主党(議員)」が形成されていた。
しかし、北東部や都市を基盤とする民主党の政治家たちが妊娠中絶を認める動きを示したため、宗教保守は民主党に見切りをつける。
2000年の大統領選でアル・ゴア氏を破り第43代大統領に就任したジョージ・W・ブッシュ。その勝利を支えたのが宗教保守だ(写真は2006年11月撮影)。
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1980年代のレーガン政権の前後から南部の共和党化が顕著になり、「南部民主党」の数は次第に減っていく。いまでは南部と中西部の各州は、完全に強固な共和党支持でほぼ一枚岩になっている。この中西部と南部の動きが、プロチョイスとプロライフが州の数では拮抗する現在の勢力図を形成した。
共和党側も当然、この動きに応えていく。過去20年ではG・W・ブッシュ政権もトランプ政権も、宗教保守に対する各種支援を選挙公約の目玉に掲げてきた。
その目玉とは「保守判事の任命」に他ならない。
秋の中間選挙が試金石
州による妊娠中絶の禁止が今後覆るかどうかはひとえに、宗教保守の運動が生み出した現在の最高裁判事の構成が今後変わっていくかによるだろう。
上述したように最高裁判事は終身制であるため、判事構成が変わるのには時間がかかるが、それでも例えば急逝するケースもある。それが続けばリベラル派の復権もありうる。大統領と議会の力関係が常に重要になってくるのは言うまでもない。
その意味では2022年秋の中間選挙は注視すべきだろう。なぜなら判事任命の承認を行う上院はいまのところ歴史的な僅差となると見られているためだ。民主党が多数派を維持するか、共和党が奪還するか予断を許さない。
共和党が上院で多数派となった場合、今後2年は最高裁判事の構成は変わらないだろう。多数派奪還で主導権を握ることになるマコーネル上院内総務は既に「欠員ができ、バイデン大統領がたとえ任命しても誰も承認しない」と明言しているからだ。
一方、もし民主党が多数派を維持した場合、今の超保守の構成が少しずつ変わってくる萌芽が見えるかもしれない。
女性の権利がどうなるのか、それを占う中間選挙の動向から目が離せない。
※本記事は7月19日初出の記事の再掲です。
前嶋和弘(まえしま・かずひろ):上智大学総合グローバル学部教授(アメリカ現代政治外交)。上智大学外国語学部卒業後、ジョージタウン大学大学院政治修士過程、メリーランド大学大学院政治学博士課程修了。主要著作は『アメリカ政治とメディア』『オバマ後のアメリカ政治:2012年大統領選挙と分断された政治の行方』『現代アメリカ政治とメディア』など。