手元資金が豊富だったエアビーアンドビー(Airbnb)の経営陣は当初、新株発行による資金調達を伴わない「直接上場」を目指していたが、パンデミックによる経営危機がその計画を狂わせた。
Stefanie Keenan,Tolga TEZCAN、picture alliance, fotograzia/Getty;Airbnb; Anna Kim/Insider
2019年6月のある日、米エアビーアンドビー(Airbnb、以下エアビー)の経営陣は、高級ブティックやレストランなどが集まるサンフランシスコのヘイズ・バレー(Hayes Valley)地区にあるフレンチレストランに向かっていた。
一行は、最高経営責任者(CEO)のブライアン・チェスキー、最高財務責任者(CFO)のデイヴィッド・スティーブンソン、バイスプレジデント(財務担当)のエリー・マーツ、最高執行責任者(COO)のベリンダ・ジョンソンという面々だった。
彼らはレストランで投資銀行のバンカーたちと会う予定だったが、人目につくのを避けていた。エアビーの新規株式公開(IPO)計画が外部に漏れることを心配していたからだ。
会合の相手であるゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)は、1900年代初頭のパリを思わせるヘイズ・バレーの一角にあるレストラン、アブサン・ブラッスリー&バーのプライベートダイニングを予約していた。
レストランの正面入り口には、緑のネオンサインで店名が大きく掲げられている。だが、通りに面した正面入り口とは別の目立たない場所に、プライベートダイニングの専用入り口があり、店内でも人目につく心配はない。
ゴールドマン・サックス側の顔ぶれは、共同最高情報責任者(Co-CIO)のジョージ・リー、エアビー担当の責任者であるニック・ジョバンニ、インターネット業界担当のジェーン・ダンルヴィ、株式資本市場の共同責任者デビッド・ラドウィグ。
エアビー側に渡す資料を持参し、IPOに向けたさまざまな選択肢について議論した上で、この上場をいかに特別なものにするか、自分たちのアイデアを提案した。
ゴールドマン・サックスのバンカーたちは、硬派だが顧客と緊密な関係を築くのが得意なジョバンニを中心に、エアビー経営陣の上場の動機を粘り強く探った。
同時に、従業員への株式売却機会の提供、高いバリュエーション(評価額)の設定など、IPOにあたっての優先事項を検討するよう促した。
当時のエアビー社内のコンセンサス(一致した意見)は、新株を発行せず既存の株式だけを上場する「直接上場」(ダイレクトリスティング)を目指すというものだった。
直接上場なら、発行済み株式を保有する従業員や投資家に手元の株式を売却して利益を得る機会を提供できるだけでなく、発行済み株式の30%を保有する3人の共同創業者をはじめとする既存株主にとって、新株発行に伴う1株当たり価値の希薄化を避けられる。
一方、新株発行を伴う一般的な新規株式公開(IPO)を選ぶメリットとしては、市場への供給量をうまくコントロールすることでバリュエーションを高め、さらなる成長に向けた企業買収などに使える資金を調達できることが挙げられる。
ただ、エアビーは豊富な手元資金(現預金に加えて即時換金可能な有価証券合わせて30億ドル)を抱えていたため、社内では資金調達の必要性について突っ込んだ議論をしていなかった。
ウィーワークCEO更迭の衝撃
2019年9月19日、エアビーは上場計画を発表した。たった1行のニュースリリースという異例のスタイルだった。
「エアビーアンドビーは本日、2020年中に株式を新規公開する予定であることを発表します」
その時点では、直接上場なのか、従来型のIPOになるのかは明らかにされなかった。
週が明けた9月24日、チェスキーCEOを不安に陥れるニュースが飛び込んできた。
シェアオフィス大手のウィーワーク(WeWork)が、共同創業者兼CEOのアダム・ニューマンの退任を発表したのだ。
パーティーなどでの派手な言動とは裏腹に、ニューマンは巨額の赤字から脱却する道筋をつけられず、企業統治についても投資家から疑問を突きつけられていた。結果として、ウィーワークはIPO計画の延期を決定し、大株主のソフトバンクグループ(の孫正義会長兼社長)の意向を受けて、ニューマンは事実上更迭された。
チェスキーは疑問を募らせた。
「ウィーワークのIPOはなぜあんなにうまくいかなかったのか」
(上場の助言業務を担当する主幹事である)ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレー(Morgan Stanley)のバンカーたちにその疑問をストレートにぶつけてみたが、納得する答えは得られなかった。
当時、チェスキーと連絡を取り合っていたある人物は、次のように証言する。
「彼の心理状態はかなり不安定になっていました。『アダム・ニューマンは世界の頂点にいたのに、自分の会社を失ってしまった。創業者でも、IPOのプロセスを一歩間違うだけでこんなことになってしまうのか』と怖じ気づいているようでした」
それでも、エアビーは上場計画を推し進めた。そのまま何事も起きなければ、エアビーにとって2020年は明るい年になるはずだった。
CFOのスティーブンソンと彼のチーム、そして主幹事のゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは、米証券取引委員会(SEC)に申請書類を提出して上場プロセスを正式にスタートさせるまで、あと一歩のところに来ていた。
先に触れたように手元には数十億ドルのキャッシュがあり、市場環境の変動に耐えながら成長計画を断行するには十分すぎるように思われた。
ところがそのとき、思いもよらない事態が同社を襲った。
当時のエアビーにとって最大市場の一つだった中国で新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が発生、旅行が一斉にキャンセルされた。他の地域でも、エアビーを利用して宿泊を予約する旅行者が減少した。
2020年2月から3月にかけて、同社は一転存亡の危機に直面した。世界保健機関(WHO)が3月11日にパンデミック(世界的大流行)を宣言すると、予約のキャンセルに拍車がかかった。
スティーブンソンが率いる財務チームは上場どころか、パンデミックを乗り切るための戦略に集中せざるを得なくなった。
四半期で10億ドルのキャッシュが流出
エアビーが立てた戦略の一つが、「オンライン体験」事業だった。
料理やワイン、ヨガの教室、地元の名所を巡るツアーなどをバーチャル旅行の形で提供するというものだ。講師やガイドを務めるのは、民泊施設のホスト(家主)だ。
オンライン体験は、旅行のキャンセルで宿泊料収入が激減したホストを救済するための策でもあった。
旅をテーマにしたオリジナルビデオ番組を制作する「スタジオ」事業も始めた。
ただし、こうした新事業への投資だけで、四半期で10億ドルのキャッシュが流出する可能性があった。
そんな事態に困惑していた幹部の一人が、グローバル政策・渉外担当の責任者クリストファー・レヘインだった。クリントン政権で大統領官邸スタッフを務めたレヘインは、スティーブンソンのチームが何を成し遂げようとしているのか理解できなかった。
パンデミックはいつまで続くのか。何パーセントの人が旅行を続けるのか。それが分かれば、戦略の妥当性を評価できるだろうが、パンデミックは誰にとっても初めての経験であり、この問いに対する答えは誰も持ち合わせていなかった。
そのような状況下で、財務チームの電話会議に参加したチェスキーは、幹部たちの議論を聞きながらある決意を固めた。会議参加者の一人によれば、チェスキーは当時次のように発言した。
「パンデミックの影響をモデル化することは誰にもできない。私たちは公衆衛生の観点から最も有益なことをすべきであり、旅行か健康かの二者択一をゲストに迫るようなことをしてはならない。旅行は、地域社会にウイルスを拡散させる可能性があるからだ。
ゲストが来なくなったホストたちを支援するために、キャッシュの使い道を考えよう」
「直接上場」を断念
エアビーは、パンデミック宣言以前に宿泊を予約したゲストがキャンセルを希望する場合、全額を返金する決定を下した。
この決定は当然ながら、宿泊料収入を当てにしていたホストにマイナスの影響を与えることになる。
2020年3月11日、当時エアビーのホームズ(戸建て賃貸)部門のプレジデントを務めていたグレッグ・グリーリーは、同社の公式ブログにパンデミックへの対応方針を説明する記事を投稿した。
その一部を抜粋すると、以下の通りだ。
「新型コロナの感染拡大はエアビーにとっての危機というだけでなく、宿泊料収入が断たれるホストや、旅行を中断せざるを得ないゲストなど、当社のコミュニティに属するそれぞれのステークホルダーにも影響を与えることを理解しています。
ホストとゲストの両方を公平にサポートするために、私たちはできる限りのことをすると約束します」
この投稿でグリーリーは、エアビーの契約ではほとんど使われることのない「情状酌量規定」という条項を適用して、ゲストが予約をキャンセルしても全額を返金することを明らかにした。従来は宿泊料の25%をキャンセル料として受け取り、ホストに渡していた。
一方、ホストに対しては、本来得られるはずだったキャンセル料相当分を新たに設けた基金から補てんすることにした。
そして、このような混乱の中でも、エアビーは上場に向けた準備を続けていた。
3月13日、エアビーとモルガン・スタンレーの幹部は、目論見書の作成を続けるための会合を開いた。そしてその週末、直接上場を断念する決断を下した。
予約が激減し、先行きの見通しが立たない中で、パンデミックを乗り切るには手元資金が欠かせない。上場の目的はそこで大きく変わった。
エアビーは直接上場を断念し、新株発行による資金調達を伴う従来型の新規株式公開(IPO)に切り替えることにしたのだ。
それは目論見書を書き直す作業の始まりでもあった。
その後……
エアビーは2020年4月までに増資と借り入れによって20億ドルの資金を調達した。5月には正社員全体の25%に当たる人員を整理し、マーケティング費用や新規投資を凍結することで、財務体質を強化した。
同社にとっては苦渋の決断だったが、投資家は安心を得た。
同年12月、エアビーはモルガン・スタンレーを主幹事とし、公募・売り出し価格68ドルで株式を公開した。初値はその2倍以上となる146ドルに達し、2020年最大のIPOとなった。
※編集部注:本稿はダキン・キャンベル著『Going Public: How Silicon Valley Rebels Loosened Wall Street's Grip on the IPO and Sparked a Revolution』(未邦訳)からの抜粋を翻訳したものです。
(翻訳:田原寛、編集:川村力)