経産省が「起業家を1000人シリコンバレーに派遣する」という計画が賛否両論を呼んでいる。
JHVEPhoto / Shutterstock
シリコンバレーに日本人起業家を1000人送り込もうという政府の計画がある。7月28日、萩生田経済産業大臣が訪米した機会に表明したと、NHKが報道。FNNプライムオンラインも萩生田経産相のコメントとして報じている。
NHKの報道によると、経済産業省は、起業家や企業の新規事業担当者を支援し、2027年までの5年間にこれまでの10倍の1000人規模を派遣する計画だ。
現地の経営者や投資家などにビジネスプランを提案し意見をもらうことなどで、起業家の育成を目指すという。
この「訪問」部分を読んで、シリコンバレーに関係の深い日本人たちが一斉にソーシャルメディアで悲鳴をあげた。
企業訪問は「猛獣を見るサファリツアー」
某企業担当者からは「バスに乗って、あれがフェイスブック、こっちがグーグルと、猛獣を見るサファリツアーだね」とのボヤキも……。
lunamarina / Shutterstock
Quora日本代表・江島健さんの下記のツイートが、これらの悲鳴を端的に表している。私も同じ趣旨のコメントを書いた。
「お願いだからやめてくれ。ただでさえ企業訪問という名の観光ツアーで評判最悪な日本人というトラウマの古傷をえぐってどうする?(後略)」
シリコンバレーに住み、テック関連の仕事をしている日本人の多くが「気軽に企業訪問したい日本人たち」からの、訪問先を紹介してくれという依頼に苦慮した経験がある。訪問してくる人はビジネス提案を装いながら、実際には出張の口実や単なるお勉強に過ぎず、ちゃんとした準備もしてこないことが多い。
しかし日々必死で事業をしているベンチャー企業やベンチャーキャピタルはそんなものにつきあう暇はないので、迷惑である。紹介を頼まれる日本人は板挟みになる。
ただし、こうした現象は日本に限ったことではない。「あー、欧州からも来るよ、バスに乗って、あれがフェイスブック、こっちがグーグルと、猛獣を見るサファリツアーだね」という某企業担当者のボヤキを聞いたこともある。
こうした「ビジネス観光客」を目当てにプログラムを運営する商売もあり、そのロシア人創業者が「最近は中国のお客が多いねー」と言っていた。いずれも、コロナ前のことではある。
この他にも「今時シリコンバレーだけってどうなの」「起業って自分でやるものだろう」「滞在ビザはどうするんだ」「日本の起業環境を整えるほうが先」「学生を支援する奨学金が先」など、さまざまな批判が飛び交っている。
7年間続き、700人以上が卒業
類似のプログラム「始動」は、故・安倍元首相が打ち出した方針に呼応したもので、700人が卒業している。
撮影:今村拓馬
とはいえ、文句を言っているだけでは何も始まらない。
起業やテック業界のキャリアを目指す日本の若い人たちを本気で支援したい、と思って活動している日本人は数多い。現地の人たちに迷惑をかけず、前向きに問題を解決しようという動きはたくさんある。
調べていくうちに、今回の政府の方針は、こうした試みの1つである「始動」というプログラムのことを言っているのではないか、と思えてきた。
「始動」は、経産省主催、ベンチャーキャピタルのWorld Innovation Lab(WiL)が実質的に運営する「インキュベーション・プログラム」だ。
インキュベーター(またはアクセラレーター)というのは、通常は初期のベンチャーを育てながら投資もする商売だが、「始動」では投資はせず、「育てる」部分だけを担う。
2015年に故・安倍元首相がシリコンバレーを訪問した際に打ち出した「人のかけ橋を作る」という方針に呼応して始めたもので、コロナ時の遠隔オンリーの時期を含め、これまで7年間続き、700人以上が「卒業」している。
そこで「始動」のトップであるWiL・CEOの伊佐山元氏に今回の「シリコンバレー1000人派遣」と「始動」がどう関係するのか、話を聞いてみた。
実はすでにある「始動」プログラムの拡大、ではその実績とは?
今回の「1000人派遣」は、始動の拡大版だということがわかった。
画像:© Sido
わかったのは、この計画は安倍元首相の時と同様、伊佐山氏が企画して経産省に働きかけたものであり、現在の「始動」の活動をほぼそのまま拡大し、対象人数を増やすという話であるということだ。
「始動」は、ベンチャー起業家だけでなく、会社勤めや医師などの自営業者が対象だという。
プログラムは、日本での研修から始まる。一期5〜600人の応募者の中から120人が選抜され、週末に講師を招いて、事業計画の作り方やプレゼンテーションのやり方などの研修を受ける。
3〜4カ月の研修期間のあと、最終的に上位に残った20人がシリコンバレーにやってくる。
シリコンバレーでは2週間ほど滞在し、メンターとのセッションや、現地ベンチャーキャピタルを訪問してピッチ(起業アイデアの売り込み)をする。年々、参加者のピッチの質は上がってきているそうだ。このうち、日本とシリコンバレーでの講師への講演料とシリコンバレー研修の渡航費・滞在費とを経産省が出している。
「始動」では、3〜4カ月の研修の後に残った20名ほどがシリコンバレーに派遣される。
撮影:今村拓馬
計画の「1000人」という数字については、シリコンバレーまで来る最終選抜者を10倍に増やすと、1回200人・5年で1000人となり辻褄が合う。その人数を一度に受け入れるとなるとかなり大変であることは確かで、現地日本人や地元企業の負担は増える可能性はある。とはいえ、とりあえず「全く事情を知らない日本人が押しかけてくる」わけではなさそうだ。
伊佐山氏によると、卒業生のうちベンチャーを興して資金を調達するのは全体の一部だけだが、最初の5期の卒業生が興したこれらのベンチャーの時価総額は、全部合わせて現在700億円近いそうだ。経産省が負担する費用は毎年1億円に満たないので「ペイオフとしては決して悪くないと思う」という。
卒業生からの評判も概して良いようだ。
まず政府支援プログラムに選抜されたという「お墨付き」効果がある。これまで上司に何を言っても見向きもされなかったのに、始動のおかげで日の目を見ることもある。また、参加者同士の横のつながりもできる。
伊佐山氏によると、今後プログラムに変更もあり得るし、入札プロセスを経るので必ずしもWiLが受注するかどうかはわからないという。このため政府発表に「始動」の名前は入っていない。
とはいえ、実際にはWiLが引き続き担当することになる可能性は高い。
スタートアップ支援に正解はない
日本のベンチャー投資はアメリカの100分の1というデータもある。
Tada Images / Shutterstock
伊佐山氏は、彼の父が通産省の要職にあった関係もあって経産省とつながりが深く、「始動」だけでなく他にも日本政府との共同プログラムがある。彼のこうした政府を巻き込むやり方を冷ややかに見る向きもあり、伊佐山氏本人も、批判があることは承知しているという。
前述のように、WiLだけが起業支援をやっているわけではない。
JETROが協力するニューヨーク市主催のプログラムが良いとの話も聞いたし、私自身も関わっているジャパン・ソサエティによるInnovation Awardsというイベントも、10年以上にわたって続いている。政府がお金を出すやり方もそうでないやり方も、多くの人がそれぞれの目的とやり方で頑張っている。
起業は正解のない世界である。それと同様に、ベンチャー支援のやり方も正解はない。シリコンバレーや起業に興味のある人は、ぜひ広く探してみてほしい。
最後に、いくつか指摘しておきたい事項がある。
- 日本の経済は長期的に競争力を失っている
- 日本のベンチャー投資額規模は統計によってやや異なるが、日本経済新聞によると「アメリカの100分の1」。日本の年間総額は米国の「数日分」に過ぎない
- このため、コロナが終われば、なんとかしようとして「サファリツアーの人たち」が押し寄せる懸念があるが、現地に迷惑をかける行動では効果を得られない
- ベンチャー支援の多くは善意だが、中には「無知な日本人を食い物にする」輩もいる。そして、善意と食い物の境目は曖昧だからこそ、十分気を付けてほしい。私自身だって真面目にコンサルをやっているつもりだが、「高い料金取って食い物にしやがって」と思っている人もいることだろう
この記事を批判した友人たちも、「それでもシリコンバレーを体験する人が増えること自体は良いこと」と口をそろえる。正解のない時代だからこそ、その対処の仕方をこの地で体験する日本人が増えてほしいと私自身も願っている。
(文・海部美知)
海部美知:ENOTECH Consulting CEO。経営コンサルタント。日米のIT(情報技術)・通信・新技術に関する調査・戦略提案・提携斡旋などを手がける。シリコンバレー在住。