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2022年6月24日、アメリカの最高裁が1973年のランドマーク判決「ロー対ウェイド」を覆したことは、アメリカを、そして世界を震撼させた。49年前に決着がついたはずだった「中絶は女性の権利」という前提が覆されたからだ。
きっかけになったのは、2022年に始まったミシシッピ州での訴訟「ドブス対ジャクソン・ウィメンズ・ヘルス・オーガニゼーション」。ミシシッピ州内唯一の中絶クリニックが、2018年に州が妊娠15週目以降の中絶を禁じた州法は違憲だとして提訴したケースが最高裁までのぼり詰め、9人の判事のうち、5人の判事が中絶を禁止/制限するミシシッピの州法を「支持」、ロバーツ最高裁長官が「容認」、反対したのは3人の判事のみという結果になった。
トランプが勝たなければ起きなかったはずのこと
歴史的な経緯をざっと説明しておこう。1970年代初頭の時点で、人工中絶が可能だったのはアラスカ、ハワイ、カリフォルニア、ニューヨーク、ワシントンの5州とワシントンDC(特別区)だけだった。中絶を望む女性たちはこれらの州に越境しなければならなかった。
「ロー対ウェイド」は、当時、母体に危険があると認められなければ中絶が許されなかったテキサス州で、妊娠していたジェーン・ロー(身元保護のため使われた仮名)を代表する女性弁護士2人がヘンリー・ウェイド司法長官に対して起こした訴訟だ。この訴えは最高裁への上告申請が認められ、最高裁は1973年、「すべての国民の法の下での平等」を定めた米国憲法修正第14条を根拠に、7人の判事の支持を受けて中絶に対する規制を「違憲」とした。
「ロー対ウェイド事件」と呼ばれた訴訟で原告となった“ジェーン・ロー”ことノーマ・マコービー(左)。女性解放運動の象徴的存在だったが、その後洗礼を受けたことでプロライフ派に転向した。1998年撮影。
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余談だが、ジェーン・ローとしてこの件の原告になった女性の本名はノーマ・マコービーといって、「ロー対ウェイド」判決の後、中絶禁止を求める「プロライフ」運動に加わり、運動の顔となって活動した。しかし、2017年に亡くなる直前にドキュメンタリー映画『AKA Jane Roe』の取材に答えて、プロライフ運動を推進する団体から金品を受け取っていたこと、長年口にしていた「中絶は間違っている」という考えを本当は信じていたわけではないことを明かしていた。
今年6月の最高裁判決は、クラレンス・トーマス判事、サミュエル・アリート判事、ニール・ゴーサッチ判事、ブレット・カバノー判事、エイミー・コニー・バレット判事によって支持された。
ジョージ・ブッシュ(父)大統領に任命されたトーマス判事、ブッシュ(子)大統領に任命されたアリート判事、またトランプ前大統領に任命された3人の判事は例外なく、任命の際の公聴会ではロー対ウェイドの判例に忠実でいる意向を示していたはずが、自身の証言を覆して支持の立場を取った。
オバマ政権時代には、議会の過半数を占める共和党がオバマ元大統領による最高裁判事の任命を阻止し、トランプ政権時代には3人の保守派判事が任命されることを民主党は阻止できなかった。つまり、「ロー対ウェイド」の終焉は、中絶反対を標榜したトランプ大統領が選挙に勝たなければ起きなかったはずのことだ。
49年前に確立されたはずの女性の基本的人権が21世紀になって奪われた背景には、こうした政治的な要因がある。しかしそれでも、どの世論調査を見ても、回答者の過半数が支持する「女性が自分の肉体についての決断を自分で下せる」という前提がひっくり返った衝撃と影響は大きい。
「偽善」指摘される企業も
若い世代から多くの支持を集めるアレクサンドリア・オカシオ・コルテス下院議員(手前右で取材に応じる女性)も、連邦最高裁前で中絶の権利を求める抗議運動に参加した(2022年7月19日撮影)。
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この判決が下ったことにより、トリガー法を採用していたアーカンソー、ケンタッキー、ルイジアナ、ミシシッピ、サウスダコタ、ノースダコタなどの州では、自動的に中絶が禁止になった。一方、カリフォルニア、コネチカット、ハワイ、メイン、メリーランド、ネバダなどの州では、ロー対ウェイドが覆ったとしても、州内では中絶の合法性を維持する州法を通過させていた。
中絶禁止に踏み切った州は、キリスト教的価値観の強いいわゆる保守州ばかりだが、保守州の中にはプライバシーを重んじるモンタナ州や、州外からの希望者を受け入れる行政令に知事が署名したノースカロライナ州のように、中絶の合法性を維持している州もある。
強硬な中絶反対派の共和党議員の間では、中絶を目的とした州外への移動すら禁じようとする動きもあるが、移動を禁じる法律の合憲性は低いという見方が優勢だ。一方で、テキサス州やオクラホマ州は、州外であっても、中絶を施すクリニックや医師、また中絶しようとする人を幇助した人物を訴えることができるという法律を通し、中絶を必要とする人に極めて高いハードルを課している。
こうした状況に、女性の選択を基本的人権ととらえる「プロチョイス」派は、最高裁や州裁判所の前で活発な抗議運動を展開している。判決直後から全米各地で数々の行進や集会、デモが活発に行われているが、つい先日も、アレクサンドリア・オカシオ・コルテスをはじめとする民主党の一部議員やアクティビストたちが、ワシントンDCの最高裁前で座り込みを行い、道路をふさいだという理由で逮捕された。逮捕される、という部分も含めて、抗議のパフォーマンスである。
拙著『Weの市民革命』で書いたように、ミレニアルやZ世代の若者たちにとって、自分たちが信じる価値観と企業が連帯するかどうかは、消費行動を決める上で大きな要因になっている。
実際、最高裁判決が下ってからというもの、AT&T、シティグループ、アップル、アマゾン、テスラ、ウーバー、ディズニーなどアメリカを代表する大企業が、自社の従業員が中絶のために州外に移動しなければならない場合、そのコストを肩代わりするとの意向を発表した。こうした動きに追随する企業のリストは日に日に長くなっているが、それでもアメリカ経済界の規模を考えると、ほんの一部にすぎない。
さらに、政治献金の流れを調べる独立系メディア、Popular.infoによると、こうした「対策」を発表した企業の多くが、民主党だけでなく、中絶禁止運動を推進してきた共和党にも献金を行っている。Tinder、Match.comなど複数のマッチングアプリを運営するテキサス州のマッチ・グループは、Popular.infoによって「偽善」を指摘された後に、共和党議員への献金を差し止めた。
こうした事態は、企業が表明するスタンスが、真の連帯なのか、単なるPR戦略なのかを見極めることの複雑性を示唆している。Popular.infoは、中絶禁止を推し進めてきた議員たちへ献金した企業のリストも公開しているが、その中には、私自身もサービスを利用する企業も入っていた。特に、インターネットのプロバイダーの中では大手のベライゾン、スペクトラムが献金を行っており、その献金の額に差はあるものの、自分の暮らすニューヨークで、中絶推進派に献金していないインターネット・プロバイダーを探すのはほぼ不可能なのだ。
中間選挙の「お約束」は覆されるか
新たな大統領が誕生した後の中間選挙は投票率が下がるのが通例だが、今年11月の中間選挙は中絶問題が起爆剤となって、より多くのリベラル層を選挙に向かわせるかもしれない。
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中絶は殺人であると主張する「プロライフ」運動の背景に、キリスト教的価値観があることは言うまでもないが、実際に中絶が禁止になったことで、多くの人が想像しなかったであろう影響も出ている。
そもそも中絶の選択の理由には、母体や胎児の健康に危険がある場合や、経済的に出産が難しい場合、レイプや近親相姦によって妊娠した場合など、のっぴきならない理由が圧倒的に多いことはさまざまな調査によって明らかになっている。
しかし出産を希望している場合でも、流産して母体に危険が及んだり、胎児の命を救えなかったりといったことが起きたときに、法を犯すことを恐れる医療従事者たちが流産後の処置を拒否し、胎児の心拍が停止するまで医療を受けられないというケースが頻出しているのだ。
こうした事態は、ますます「プロチョイス」運動と政治アクティビズムにガソリンを供給している。今年は11月に中間選挙が予定されているが、今回の最高裁判決が大きく影響する可能性は大いにある。8月2日に中間選挙本線に向けた準備線とともに、州憲法から中絶の権利の保障を除外するか否かの住民投票を行ったカンザス州は、共和党が圧倒的に強い保守州であるが、59%が反対票を投じて中絶の権利が守られる結果になった。
これまでの歴史を見ると、新たな大統領が誕生した後の中間選挙は、エンゲージメントも投票率も低下する傾向があった。しかし今回の中間選挙は、中絶禁止に加え、銃規制や同性婚など、リベラルの有権者たちに重要な課題が俎上に上っていることもあり、普段より高いエンゲージメントが期待されている。
特に、これまで与えられてきた権利を奪われた女性たちが、どれだけ選挙キャンペーンや投票に参加するのかがカギになるが、カンザスの住民投票の結果はひとつのテストケースになったといえる。
民主党が上院・下院でどれだけ議席を守り、また新たな議席を獲得できるかによって、最高裁の判事の数を増やし、新判事を任命できるかが決まることになる。現時点での世論調査を見る限り、時流はリベラル側にあるように見えるが、景気、インフレといった数あるイシューの中で、中絶問題がどれだけの起爆剤になるかは未知数でもある。
いずれにしても、政治的環境の変化が起きるまでの間、影響を受けるのは、突然州内で中絶できなくなった保守州に暮らす貧困の女性たちであることは間違いない。
(文・佐久間裕美子、連載ロゴデザイン・星野美緒)
佐久間裕美子:1973年生まれ。文筆家。慶應義塾大学卒業、イェール大学大学院修士課程修了。1996年に渡米し、1998年よりニューヨーク在住。出版社、通信社勤務を経て2003年に独立。カルチャー、ファッションから政治、社会問題など幅広い分野で、インタビュー記事、ルポ、紀行文などを執筆。著書に『真面目にマリファナの話をしよう』『ヒップな生活革命』、翻訳書に『テロリストの息子』など。ポッドキャスト「こんにちは未来」「もしもし世界」の配信や『SakumagZine』の発行、ニュースレター「Sakumag」の発信といった活動も続けている。