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終わらぬコロナショック、相次ぐ商品の値上げによるインフレ懸念のニュースが連日報道されています。
景気後退も意識される不安定な社会だからこそ、生活を支え、生き方を前向きにシフトさせる防波堤として、「ベーシックインカム」の議論が再び注目されても良いのではないでしょうか。
『AI時代の新・ベーシックインカム論』の著者である駒澤大学経済学部准教授の井上智洋氏に、近年のベーシックインカムの実証成果と、インフレ下での有効性について聞きました。
そもそもベーシックインカムとは?
駒澤大学経済学部准教授の井上智洋氏。
撮影:反中恵理香
そもそもベーシックインカムとは、「政府が、すべての人に必要最低限の生活を保障する収入を無条件に支給する制度」のことです。
2010年代にはフィンランドやオランダをはじめヨーロッパ諸国を中心に、ベーシックインカムの導入をめぐる議論や実証実験が進んでいましたが、近年、アメリカの多くの州で導入をめぐる動きが盛んになっています。
2021年には、新型コロナウイルスの給付金が個人に配られたことで、現金給付がいかに役立つかを実感した人々により、ベーシックインカムの支持が高まっています。
「テクノロジーで仕事はなくなる」のか
—— 2010年代の終わりに、日本でもベーシックインカムが注目を浴びました。当時は「仕事がテクノロジーに代替されてしまうのでは?」という議論も活発でした。これは今、どう着地したのでしょうか。
井上:2015〜2017年あたりに、日本でベーシックインカムの議論が盛り上がった時に流行っていたのが「将来なくなる職業ランキング」です。これはオックスフォード大学のカール・ベネディクト・フレイ博士とマイケル・A・オズボーン博士の論文「雇用の未来(2013)」が元ネタになっています。
出典:カール・ベネディクト・フレイ マイケル・A・オズボーン「雇用の未来(2013)」
フレイとオズボーンの論文は、やがて多くの批判を受けるようになりました。
「1つの職業の中にもいろんなタスクがある。タスク単位でテクノロジーに仕事が奪われたとしても、職業がまるごとなくなることはない」といった反論があちこちから寄せられたのです。
(論調としては)「職業が残る」か「消滅する」かの1択。「消滅しない」なら「仕事はなくならない」みたいな見方です。特に日本ではそれで納得して議論が収束したところがあると思っています。
—— そもそも、「残る」か「消滅する」かという2つの選択肢を前提にした議論は、少々乱暴なようにも思います。
井上:私はタスクがいくつか減ったら、全体の仕事量は減るし、人手も今ほど必要なくなる可能性があると思っています。
世の中何事もゼロイチで議論される傾向がありますが、多くの問題は程度問題です。職業がなくなるかどうかのゼロイチの話はそもそも主要な論点じゃないんです。そうじゃなくて、「仕事がどの程度減るか」について議論すべきです。職業がまるまる消滅しなくても、雇用が例えば7割とか減っちゃったら大変なことになるじゃないですか。
これからの未来のことなのに、あたかも「職業が消滅しない」ので「仕事はなくならない」というのが結論であるかのように捉えられて、議論を収束させてしまったというのは残念な話です。
—— 日本ではアメリカと違い、終身雇用制度ゆえにメンバーシップ型組織の終身雇用制度が長く根付いてきました。そのため、たとえ効率化が進み、仕事がなくなっていたとしても「従業員余り」が表からは見えづらいところはありませんか。
井上:日本だと、アメリカに比べてリストラしにくいという事情もあります。
ITやAIによって仕事が減っても社内失業的に企業が抱え込むとか、事務職から営業職にトレーニングして配置転換するなど、「企業の外からは見えない形でなんとかやれている」現状があるんじゃないでしょうか。
逆に、アメリカの方がテクノロジーによって雇用が減る事態「技術的失業」が目に見えて起こりやすいです。実際、ITやAIによってコールセンター、旅行代理店、証券アナリスト、保険外交員とか事務職の人などがリストラされている現状があります。それゆえに、ベーシックインカムへの注目も日本以上に高まっています。
—— 確かに失業率の上昇とベーシックインカムの導入は、欧米では関連して議論されてきました。
井上:アメリカではイーロン・マスク氏などの有名な起業家が率先してベーシックインカムの必要性を説いていますね(※)。
※アメリカではTwitter創業者のジャック・ドーシー氏が2020年にベーシックインカム実証に資金を提供。イーロン・マスク氏もその必要性に言及している。
「格差先進国アメリカ」のベーシックインカム実証実情
アメリカでの実証実験の多くは、2019〜2020年頃から約2年間の計画で開始されています。一方、コロナ給付が個人に潤沢に配られたことで、ベーシックインカムの議論が2021年に再び高まってもいます。
関連記事:33 basic and guaranteed income programs where cities and states give direct payments to residents, no strings attached (Business Insider, Dec 17, 2021)
コロナ以前の2019年から実証実験をはじめた米カリフォルニア州北部ストックトン市は、初年度の実証実験結果について報告書を公開しました。資格取得などの自己投資に使った傾向、フルタイム勤務が増え、メンタルヘルス改善、健康状態・幸福度が上がるなどポジティブな結果が報告されています。
図:筆者の調査をもとにBusiness Insider Japan作成
ストックトン市での一連の調査が終わった2020年以降、世界は大きく変わりました。コロナショック、そして景気後退が予想される局面ですが、井上氏は調査の信憑性は何ら影響を受けず、今も有効だと語ります。
井上:(ストックトン市の例は)2年間の実証実験の初年度の結果ということで、パンデミック前の2019〜2020年の調査結果です。が、データの信憑性については、パンデミック後の世界でもあまり変わらないと思います。
変化があったとすると、働きかた→オンライン、米経済状況→インフレくらいではないでしょうか。マインドセットには多少変化があったかもしれませんが。
「アメリカは良いインフレ、日本は悪いインフレ」なのか
撮影:反中恵理香
—— いま、まさに物価高などでインフレになろうとしています。国内でも「インフレ手当て」の支給を決めた先進企業も出てきました。もう少し、インフレとの関係性について教えてください。
井上:インフレについては慎重に議論しなければいけないと思っています。
小麦やガソリンなど食料品やエネルギーの価格が上がっています。これは世界中で起こっていることなんですが、アメリカと日本ではインフレのタイプが全く異なります。
インフレには2種類あり、(1)デマンドプル型インフレ、(2)コストプッシュ型インフレがあります。
良いインフレというのは、(1)デマンドプル型インフレです。現在のアメリカはこの傾向が強いとされます。景気が良くなり国民が多少物価が上がっても購買意欲が高いのでお金を使い、需要を伸ばすことで起きるインフレです(注:とはいえ、いきすぎたインフレはデマンドプル型でも社会的な懸念が大きい)。
アメリカはコロナ対策で個人に対してお金を配りまくっています。
2020年3月に個人にまず1200ドル(イメージ的には日本の給付金10万円より少し多い程度)を配り、現金給付は合計3回。1人合計最大3200ドルが配られました。更に失業給付増額、労働者も更に条件のよいところに転職して賃金を上げています。賃金が上がると、自ずと物価も上がります。
悪いインフレというのは、(2)コストプッシュ型インフレです。原材料やエネルギー価格の上昇により物価が上がるインフレ、物価が上がって国民は余計に支出せざるを得ない状況です。今の日本で起こっているのは(2)コストプッシュ型インフレです。
(2)のコストプッシュ型インフレでデフレから脱却してもあまり意味はありません。(2)は、モノの値段が上がって生活がひっ迫して需要が減ります。たくさんモノを買うマインドにないから(2)だけでは、さほどインフレは加速しません。
インフレを加速させないベーシックインカムとは
—— 日本は「悪いインフレ」に足を踏み込みつつあります。仮に、こうした状況下でベーシックインカムのような制度があったとして、悪いインフレが加速するようなことにはならないのでしょうか。
井上:一般的にベーシックインカム導入によってインフレが加速してしまう可能性はあると思います。
ただ、今の日本のようなコストプッシュ型のインフレの場合、むしろ景気は悪化していく一方なので、このような状況でお金を給付したとしてもインフレはそれほど加速しないはずです。ベーシックインカムでなくても良いのですが、今の日本の状況では生活の安定と景気の回復のために、国民に現金を給付すべきだと思います。
なお、ベーシックインカムを「税金」でまかなうか、「国債発行」でまかなうかでインフレを加速させるか否かは異なると思っています。
国債を発行するとインフレになりやすいけれど、税金を増税してベーシックインカムを導入する場合は、国民からお金を取って国民に給付(再分配)するだけなので、インフレは加速しにくいです。(事実として)アメリカのコロナ禍の大規模なお金配りは、国債発行でまかなっているので、インフレを加速させている側面があります。
—— 将来的に、ベーシックインカムの制度設計をどのように考えるのがよいでしょうか。
井上:私は最低限の生活を保障するための給付を「固定BI」、景気をコントロールするためのベーシックインカムを「変動BI」として、「二階建てベーシックインカム(二階建てBI)」にするのがよいと思っています。
「固定BI」とは、政府が最低限の生活保障のために給付するベーシックインカムです。支給額を例えば7万円と決めたら、短期的には変動させません。ただし、7万円では十分な生活を営めないので、生活補助金といった方が良いと思いますが。長期的には経済成長に合わせて増やしていくことも可能だと思っています。10万円、15万円と増やしていくうちに、最低限の生活保障をちゃんと保障できるものになっていくでしょう。
「変動BI」は、中央銀行が景気をコントロールするために給付するベーシックインカムです。景気の良いときにはベーシックインカムの支給額を増やさず、景気が悪いときには支給額を増やすことで、景気をコントロールする役割を担います。前は、景気が良いときに支給額を減らすべきだと考えていたのですが、生活が苦しくなる人もいると思うので、こういう時は昔ながらの金利の引き上げで対応するのが良いと思っています。
ベーシックインカムは日本の閉塞感の打開策になるか
—— 国内におけるベーシックインカムの社会実験といえば、2020年にZOZO創業者で投資家の前澤友作氏が「前澤式ベーシックインカム社会実験」を実行しました。井上先生は監修として参加されていました。示唆のある結果はあったでしょうか。
井上: 「前澤式ベーシックインカム社会実験」の監修として研究チームに参加しました。Twitterで応募した人の中から抽選で選ばれた1000人に100万円を支給するというプロジェクトです。
コロナ危機下でありましたが、お金をもらったことで、留学や起業、結婚などに向けた前向きな意欲が高まりました。給付の仕方を100万円を一括給付とか、12カ月間毎月8万3000円の分割給付などと分けたので、それに応じて人々の振る舞いが異なるのも見どころです。
詳しい結果は、2022年9月、オーストラリアで開催されるBIEN (Basic Income European Network)で論文として発表する予定です。
「前澤式ベーシックインカム社会実験」の資料より。
出所:前澤友作氏のツイート
「前澤式ベーシックインカム社会実験」の資料より。
出所:前澤友作氏のツイート
——いずれ日本でもベーシックインカムは導入されるようになるのでしょうか?
井上: 世論もやがてベーシックインカムを受け入れるようになると私は思っています。最初に違和感のあった人も耳を傾けてくれるようになり、手ごたえを感じているからです。
ただ、政治的には当面難しい部分があるかなと。いま力を持っている年配の政治家の方々は、働かずにお金を得るのはいけないという「モラル」の面と、政府の借金を増やしてはいけないという「財政健全化」の面の両方でベーシックインカムに拒否感を抱いていると思います。どうやったらその拒否感をうまく払拭できるかを最近はよく考えています。
(文・反中恵理香)