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今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても平易に読み通せます。
入山先生はアメリカで教鞭をとっていた際、授業のイントロダクションで「この授業は死ぬほど難しい」と学生たちに予告していたのだそうです。最初に期待値をどこに設定するかによって心理的なハードルは大きく変わるというこのセオリー、実は一橋大学の楠木建先生も応用されているようで……。
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期待しなければ、うまくいったとき余計にうれしい
こんにちは、入山章栄です。
今回はBusiness Insider Japan編集部の小倉宏弥さんが最近読んだという本の話から始めましょう。
BIJ編集部・小倉
先日、経営学者の楠木建先生の『絶対悲観主義』という本を読んでいたら、「仕事と趣味は違う。趣味は自分が楽しければいいが、仕事は他者のためにするものだから、絶対に自分の思うようにはならない」というようなことが書いてありました。
つまり、「何事もうまくいかないと思っていたほうがいい。にもかかわらず何かがうまくいくと自信がつく」ということかなと解釈しました。入山先生はこういう考えについてどう思われますか?
なるほど、すごく面白いポイントですね。僕はその楠木さんの本は読んでいませんが、「さすが楠木先生、いいところに目をつけたな」と思います。今は何事も成功するのが前提で、「ガンガンいこうぜ」という風潮がある。とはいえいつも前向きでも疲れますからね。
僕はこの本をちゃんと読んでいないので申し訳ないのですが、楠木さんが、「あらかじめ悲観しておくほうがいい」というのは、心理学や行動心理学で言う「アンカリング効果」のことだと思いました。
アンカリング効果とは、事前にどういう期待値を抱くかによって、結果の受け止め方が変わることを言います。例えば最初に、
「これ、本当は3万円なんですよ」
と言われたあとに、
「でも今日だけ特別に2万円にします」
と言われると、すごく安くなった気がするでしょう。最初に3万円と言われると、3万円が基準(アンカー:船をつないでおく錨のこと)になるからです。
このようにもともと控えめな期待値を持っていれば、現実がそれを少し上回っただけで、すごくうまくいったように思える。逆にうまくいくと思っていたのにその通りにならないと、人間は必要以上に落胆してしまう。これがアンカリング効果です。
「僕の授業は難しいよ」
実は僕はアメリカの大学で教えていたころ、このアンカリング効果を実践していました。いま教えている早稲田大学もそうですが、アメリカの大学では講義終了後に学生が教員を評価します。もっとも、教員の最終的な評価はあくまでも研究内容によるので、学生からの評価はそれほど重視されませんが、やはりそこそこいい評価をとっておくに越したことはない。
そこで僕は授業のイントロダクションで、「この授業はかなり難しいし、大変だよ」と予告することにしたんです。
「僕の授業では毎年必ず脱落者が出る。授業をちゃんと聞いて真面目にやらないと単位はとれないよ」と宣言しておくのです。そうすれば、「このプロフェッサーは厳しいから覚悟しておこう」と、学生の心理的なハードルが上がる。
ところが実際に授業が始まると、実は僕はけっこうやさしい。もちろん授業に手は抜きませんが、学生を突き放すことはせず、最後まで丁寧に面倒を見ます。そもそもかなり厳しい印象を与えておいて、実は優しくすると、これが学生評価を上げるというわけです。
BIJ編集部・常盤
なるほど。冷たい人と思わせておいて実はいい人、というギャップ萌えですね(笑)。
はい、いわゆる「ツンデレ」に近いですよね。いつもクールな人が自分にだけ突如やさしさを示すと、急にときめくことってありませんか? これもアンカリング効果のなせるわざと言えます。
楠木さんの「うまくいかないのが当たり前だと思おう」という主張は、いわば「自分へのツンデレ」と解釈できます。ツンデレはモテますから、そういうオーラを出している楠木さんは僕より断然モテると思います(笑)。
仕事と趣味を分ける楠木・好きなことしかしない入山
BIJ編集部・小倉
その楠木先生は、「仕事と趣味は違う」とおっしゃっています。入山先生は仕事と趣味を分けていますか?
実は僕は楠木先生と正反対で、仕事と趣味を分けて考えないことにしています。だから僕は、いわば趣味でお金を稼いでいるようなもの。でも本来なら学者というのは、好きなことを仕事にしているはずなのです。ですから「一橋大学の教授は世を忍ぶ仮の姿で、本当は歌手になりたかった」という楠木さんのほうが例外ではないでしょうか。
でも世の中全体で見れば、「仕事はお金を稼ぐための手段であり、好きなことは他にある」という楠木さんのような人のほうが多いかもしれませんね。
BIJ編集部・常盤
自分の好きなことが他の人のためにもなって、かつそれで稼げるのであれば最高ですよね。入山先生は今まさにそういう状態では?
そう言っていただけると光栄ですが、実は僕は人のために何かやろうと思ったことは一度もないんですよね。人のために貢献しようというよりは、純粋にチームで何かをするのが好きなだけ。この連載でいえば、いま一緒に取材をしているこのメンバーで成果を出そうとするのが、楽しいだけなんですよ。
この連載を読んでくださっている読者の中にも多いミレニアル世代は、社会に貢献したいという意識を持つ方が多いと言われますよね。僕は本当に素晴らしいことだと思います。
でも僕自身は申し訳ないくらいそういう気持ちが弱いです。例えばアフリカで困っている人たちを助けるとか、日本国内の困窮している人たちのために社会起業をしたりするのが大事なのはとても分かる。でもそれを仕事にしよう、というところまでのモチベーションはありません。
BIJ編集部・小倉
僕のまわりでは、社会貢献をモチベーションにする人のほうが多い印象です。常盤さんもその一人だと思いますが、そういう意識はどのあたりから来ているんですか?
BIJ編集部・常盤
うーん、自分では分からないですね(笑)。
ただ入山先生のお話を聞いていてひとつ思い出したことがあります。以前、ある社会起業家の方の講演会で、学生と思しき受講者の方が「あなたのような社会起業家になるには、どうしたらいいですか?」と質問したんです。
するとその社会起業家の方はこう答えていました。「明日から世界を変えようなんて思わないほうがいい。あなたは自分の家族とかパートナーとか、自分の近くにいる人を幸せにできていますか? もしできていないと思うなら、まずはそこから始めましょう。それができないなら世界を変えることはできませんよ」と。
入山先生がおっしゃっていた、いまこの瞬間にこの場を盛り上げたいというお気持ちもこれに相通ずるなと思いました。
アフリカの恵まれない子どもたちのために活動するのも素晴らしいこと。それが得意な方はそれをやるに越したことはありませんが、入山先生のように自分でも気づかないうちにいろいろな人を笑顔にしていた、というやり方もあると思います。つまりタイプが違うのではないでしょうか。
そうですね。男女で分けるのはよくないかもしれませんが、どちらかというと女性のほうが社会貢献に熱心な人がより多いような気がします。実は僕の妻もJICA(国際協力機構)に勤めていますし、JICA職員も女性のほうが多い。
まわりの人に、「うちの奥さんはJICAなんですよ」というと、男性より女性のほうが強い興味を示すことが多いですね。
BIJ編集部・常盤
分かる気がします。私も小さいころ、テレビでマザーテレサの番組を見て泣いたクチですから。
やっぱりそうなんですね。モチベーションの源泉は人によって違いますが、そこを突き詰めて考えていくと自分なりの仕事のスタイルが見えてくるかもしれませんね。
やっぱりそうなんですね。モチベーションの源泉は人によって違いますが、そこを突き詰めて考えていくと自分なりの仕事のスタイルが見えてくるかもしれませんね。
【音声フルバージョンの試聴はこちら】(再生時間:22分30秒)※クリックすると音声が流れます
(構成:長山清子、撮影:今村拓馬、連載ロゴデザイン:星野美緒、音声編集:小林優多郎、編集:常盤亜由子)
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。