2022年10月にゴールドマンサックスの単独CIOになる予定のマルコ・アルジェンティ。
Goldman Sachs; Vickt
2019年10月、マルコ・アルジェンティ(Marco Argenti)は、パートナー兼共同CIO(Chief Information Officer)としてゴールドマン・サックスに入社した。
アルジェンティは巨大IT企業アマゾンのクラウド部門であるアマゾン・ウェブ・サービス(AWS)に6年間在籍し、テクノロジー担当バイスプレジデントまで務めた人物だ。
AWSは2016年以来アマゾン最大の稼ぎ頭であり、その成長の速さからアナリストの間ではいずれAWS単独で3兆ドル(約411兆円、1ドル=137円換算)の事業価値に達するだろうとの予測も浮上していた。そのAWSから歴史あるゴールドマン・サックスへの転身ということで、アルジェンティの移籍は大きな話題を呼んだ。
ゴールドマンを「IT企業」に
アルジェンティは入社後間もなく、ゴールドマンのIT部門のリーダー格の2人、イリヤ・ゲシンスキー(Ilya Gaysinskiy)とアテ・ラティランタ(Atte Lahtiranta)とミーティングを設定した。
議題は、顧客により良いサービスを提供するにはどうしたらいいかというものだったが、ここで言う「顧客」とは、それまでゴールドマンがサービスを提供してきた巨額資金を運用するヘッジファンドのマネジャーやアメリカの大手企業のことではない。
アルジェンティが相談したかったのは、ゴールドマンが他社と協業する際、ビジネスを強化するためのコードを書く開発者たちとどう業務を進めていけばいいのか、ということだ。
2020年初頭、アルジェンティは開発者の労働環境改善にあたるチームを立ち上げ、ゴールドマンの個人向け部門のエンジニアリング・チームの責任者でもあったゲシンスキーをそのリーダーに任命した。採用から協力体制まで、ゴールドマン・サックスのエンジニアに関する業務を一つのチームにまとめるための動きだったとゲシンスキーは振り返る。
このエンジニアの労働環境改善チーム結成のエピソードひとつとっても、アルジェンティと共同CIOを務めるジョージ・リー(George Lee)がどれほど本気でゴールドマンをIT企業に変えようとしているか、また、アルジェンティとゴールドマンがどこに会社の成長を賭けているかがよく分かる。
銀行業務は人間関係を基盤にしたビジネスであり続けてきたが、社会全体に対するデジタルの影響が大きくなるにつれて、ウォール街も変化を迫られている。それは金融業界のリーディング企業であるゴールドマンも同様で、投資のプロや富裕層を対象としたこれまでの主力事業以外の分野にも手を広げ始めている。これは、デジタルシフトに向けたウォール街の試行錯誤を示す劇的な変化だ。
2022年10月にはリーが新設される応用イノベーション室(Office of Applied Innovation)のトップに就任する予定で、アルジェンティは単独CIOとなる。この人事異動によりアルジェンティは1万2000人のエンジニアを率いることとなり、数千億円規模のIT予算と自らの理論を確立する権限が与えられる。ゴールドマンの顧客には今後、投資家だけでなくエンジニアも含まれることになる訳だ。
社内の情報筋によれば、アルジェンティはさっそくエンジニアたちに対し、これまで以上の説明責任と結果責任を持たせるべく動き始めているようだ。しかし、社歴の長い社員全員がすぐに適応できる訳もなく、この数年で退職したエンジニアもいるという。
それでも、アルジェンティはゴールドマンをITでも存在感のある企業にし、データ・フローの集まるところへ会社の舵を切るというミッションに邁進中だ。
「ゴールドマンの歴史上初めて、エンジニアが顧客となるのです」とアルジェンティは言う。
コンピューター好きの少年
1967年生まれのアルジェンティは、イタリア西海岸にある小さな町、ラ・スペツィアで育った。アルジェンティはコンピューター好きの少年だったが、裕福とは言えない彼の家にはコンピューターがなかった。
夏休みにアルバイトして貯めたお金でようやく手にした自分専用のコンピューターはシンクレアで、今の電卓のような形をした「1980年代のかなり昔のマシン」(アルジェンティ)だったという。
「どういう訳かソフトウェアの世界が私の頭、私の思考回路にとても合っていたんです」とアルジェンティは語っている。
ピサ大学でコンピューター技術を学んだ後、アルジェンティは、カナダとイタリアのソフトウェア、電子商取引、携帯電話の企業で役員を歴任した。その後、ノキアに約5年間在籍し、2013年にAWSに入社している。
ゴールドマンから引き抜きの話があったときは、すぐに転職を決めた訳ではなかったものの、「ゴールドマン・サックスから電話が来たら普通は拒まないでしょう」とアルジェンティは笑って当時を振り返る。
しかしそんなアルジェンティも、新しいものをつくるチャンスにはすぐに惹かれた。AWSでの最後の数年間は、フォルクスワーゲンやフィリップスなどのメーカーと協働し、アマゾンのIoTビジネスを指揮していた。
「この仕事はソフトウェアを書く仕事というよりも、書き換える、つまりビジネスを再構築する仕事と言えるでしょうね。ソフトウェアの考え方をビジネスや実際のモノに応用しているんです」
ゴールドマンのデイビッド・ソロモンCEOとジョン・ウォルドロン社長がアルジェンティのビジョンを高く評価している様子だったことも後押しになった。「金融機関としてトップクラスの競争力を維持していくにはテクノロジーが必要だと、彼らは理解していたんです」とアルジェンティは言う。
ニューヨーク・ウォール街にあるゴールドマン・サックスの本社 。
JOHANNES EISELE/AFP via Getty Images
ゴールドマンは2014年にMarquee(マーキー)という機関投資家向けの市場データ提供サービスを始めたが、この頃には同社の経営陣も、テクノロジーが競争上の武器になっていることをすでに理解していた。
Marqueeはゴールドマンが持つデータの宝庫にアクセスできるサービスで、ブラックロックのAladdin(自動的に流れてくる情報のダッシュボードを確認したり、リスクマネジメントを行ったりすることができるツール)に対抗して作られたものだ。
アルジェンティがゴールドマンに入社した数日後にはAWSカンファレンスが開催されたが、そこでのソロモンの話しぶりは銀行のトップというよりもIT企業のCEOのようだった。開発者はゴールドマンのAPIを通して「拡張可能なサービス」を利用できると、Marqueeの素晴らしさを力説した。
また、アルジェンティの就任から2年経った2021年秋にラスベガスで行われたAWSのイベントでは、ソロモンはAWSのアダム・セリプスキー(Adam Selipsky)CEOとともに、ゴールドマン・サックスがFinancial Cloud for Dataを開始すると発表した。
これは開発者の使い勝手がいいデータ・ストリーミングサービスで、資産運用マネジャーやヘッジファンドなど、買い主となるゴールドマンの顧客を対象にしている。これにより、ゴールドマンを再度情報の流れが集まる場所に位置付けたことになる。
IT業界のリーダーたちと新たな関係をつくる
Marqueeの責任者も務めるゴールドマンのパートナー、クリス・チャーチマン(Chris Churchman)は、アルジェンティがアマゾンで顧客中心主義といったアマゾンの社風やリーダーシップの原則を身につけていたこと、ゴールドマンのIT部門にそれを植え付けるポテンシャルを持っていたことが、経営陣には魅力的に映ったのだと話す。
「ウォルドロンとソロモンの指揮のもと、ゴールドマンでは顧客中心主義を非常に重視してきました。アマゾンでは当たり前の顧客から逆算していく思考をアルジェンティがゴールドマンのIT部門に伝授することで、システム開発面からも顧客中心思考を実現する後押しになるのです」
ゴールドマンにとってはIT業界のリーダーたちと新たな関係をつくるチャンスとなり、それが会社の将来をつくることになる、とチャーチマンは言う。
「今までは、顧客企業のシステム開発やデータのインフラ部門の担当者たちとはあまりやりとりがなかったのですが、今では彼らと、これまでになく深い関係構築ができています」
オートノマス・リサーチ(Autonomous Research)でシニア・リサーチ・アナリストを務めるクリスチャン・ボル(Christian Bolu)は、MarqueeやFinancial Cloud for Dataといった新しいIT施策がゴールドマンにもたらす収益効果を数値化するのは難しいものの、こうした新しいITプロダクトが顧客獲得・維持に効く差別化要因になりうる、と言う。
「ゴールドマンがマーケットシェアを拡大するうえで、より優れたテクノロジーの提供というのは一つの手段になりますね。顧客は情報を利用する際、画面を見たり誰かに電話したりという方法から、コンピューター同士でデータをやりとりする方法にシフトしています。その流れに乗っていなければシェアを失ってしまうでしょう」
新しいゴールドマンのカルチャー
開発者を優先しようとするアルジェンティの姿勢は、社風の転換でもある。ゴールドマンをもっとテクノロジー企業のようにしたいと考えているのだ。
アルジェンティは技術面での信条や語りかけるようなメッセージをコミュニケーションにおいて多用するなど、ゴールドマンに多くの変化をもたらしたが、その多くはアマゾン時代の経験が基になっている。
このほか、エンジニアリング・マネージング・ディレクターからテック・フェローまで、ゴールドマン社内の優秀なシニアエンジニアが参加してシステム運用の重要指標を確認する週次ミーティングもアルジェンティの声掛けで開催されるようになった。ゲシンスキーによれば、これもアマゾンのカルチャーに由来するものだという。
金融とマーケットの世界にどっぷり浸かったゴールドマンの上層部にはいないタイプだったにもかかわらず、ゴールドマンはアルジェンティに声をかけた。いや、声をかけたのはそれが理由だったのかもしれない。
「カルチャーという側面も、アルジェンティが採用された理由のひとつです」とチャーチマンは言う。
アルジェンティは普段、ゴールドマンのオフィスでスーツではなくニットの長袖ポロシャツを着ている。話し方も、金融機関の上層部にはあまり見られない、気さくな率直さがある。
ちなみに、アルジェンティはシアトル時代の友人と「エレメント47」というロックバンドを組んでおり、ギターを担当している。イタリア語で「銀」を意味するアルジェンティの苗字がバンド名の由来になっている(エレメント47とは、銀の原子番号のことだ)。
Facebookに投稿されたエレメント47で演奏するマルコ・アルジェンティ(左)の写真。
Facebook/Element 47
アルジェンティのこうしたテック大手仕込みのリーダーシップスタイルが、ウォール街の最大手企業で常にスムーズに馴染んできた訳ではない。
アルジェンティが開発者にとっての使いやすさという新しい視点を取り入れたタイミングは、ゴールドマンが個人向け、富裕層向けの部門でIT人材を定着させることに苦労していた時期と重なる。個人向け部門のIT人材の退職率は、2020年と2021年で14%に達していた。
ゴールドマンは、個人向けバンキング部門であるマーカス(Marcus)の立ち上げから6年経ってもなお、ロボ・アドバイザーなどの新しいプロダクトや競争の激しい個人向けフィンテック市場での当座預金口座などについて、高コストや実現可能性の問題に直面していた。
ゴールドマン全体で開発者の環境改善を推し進めるにあたり、主にソフトウェアのプロダクトやツールの開発における「ボトルネック」の解決に注力したとアルジェンティは話す。なかでも重要だったのが、画面上の文字をマシンの上で動くコードにするという、時間のかかる「ビルド(構築)」のプロセスだった。
「ビルドをまず終わらせないと実際のテストができないため、開発者にとってはここが一番フラストレーションがたまる部分」(アルジェンティ)なのだが、今は以前よりかなり速くなったという。
アルジェンティの細かさや厳しさにやる気を出す社員もいるものの、必ずしも全ての社員がそうとは限らない。ゲシンスキーによれば、アルジェンティのアプロ―チに慣れるのに時間がかかったIT部門の社員もいるという。
「彼のスタイルに合わない人もいます。細かい部分について、なぜそれが必要なのかを彼に直接説明しないといけませんから」
進歩に必要なのは、「健全な同僚からのプレッシャー」と、協力しようという継続的な働きかけだ、というのがアルジェンティの意見だ。
「説明責任を果たすことで、自分事として捉えられるようになります。開発者はオーナーですから、自分事として説明責任を果たしてもらうんです」
アルジェンティはゴールドマンのプロダクト開発について、新鮮かつ、より長期的な視点をもたらしてくれたとチャーチマンは見ている。以前、新たなMarqueeをリリースするか、問題点を改修するまで待つべきかとアルジェンティに相談したところ、こんなシンプルな答えが返ってきたという。
「iPhoneの発売が半年遅れたことなんて誰も覚えていないでしょう。いい製品だったということしか記憶に残っていませんよ」
(翻訳・田原真梨子、編集・大門小百合)