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「静かな退職(Quiet Quitting)」という言葉が、最近にわかに注目を集めている。
一義的には「必要以上に一生懸命働くのをやめること」を意味するこの新語をめぐっては、まずそのトレンドがウォールストリート・ジャーナルの記事で取り上げられて話題になった。その後、これに対する反発が巻き起こると、さらに反発への反発も起こった。
今や誰もが「静かな退職」について、Z世代の働き手だけでなくその親世代も含めて(それが何を意味するかにかかわらず)一家言を持っている。
私たちはこの現象を、若手世代が仕事とプライベートの線引きを肯定するものとして祝福すべきなのだろうか。それとも、Z世代のさらなる権利意識の表れとして非難すべきなのだろうか。
まさか自分の記事が発端だったなんて
私は基本的に、この種の議論に首を突っ込むのが好きではない。読者と共有するに値する分析を展開するのに時間がかかりすぎるからだ。しかし今回は事情が違う。
今年3月、私は「ハッスル・カルチャー(仕事を全力で頑張るという文化)の次に来るものは何か」というテーマで記事を書いた。原稿の執筆にあたりコロナ禍の影響によって全力投球で働くことを静かに控え始めた人たちを取材し、この種の働き方を「コースティング・カルチャー(coasting culture:惰性で仕事をする文化)」と名づけた。
人事担当者は、このような非自発的な従業員の行動を「退職実施中」と呼ぶ。しかし私は、この新しい仕事観にはもっと深い意味があると感じていた。私たちが当たり前のように持っていた常識(従業員は身を粉にして働くものだという常識)に、従業員が密かに反旗を翻しているのだ。
最初に「静かな退職」という新語を耳にしたとき、なんとなく自分が執筆した話と似ているなと思った。少し経って、それが偶然の一致ではなかったことを知った。『ロサンゼルス・タイムズ』のマット・ピアース記者によると、「静かな退職」の由来を探ったところ私が過去に書いた記事がきっかけになっているという。
ブライアン・クリーリー(Bryan Creely)というキャリアコーチがTikTokで私の記事に何度か触れながら、「あなたは仕事を『静かに退職』した人ですか?」と視聴者に問いかける。「静かな退職」はこのときに生まれた言葉らしい。この投稿は反響を呼び、口コミで広がった。
「静かな退職(Quiet Quitting)」のほうが、私が名づけた「コースティング・カルチャー」よりはるかにキャッチーだ。しかし多くの人が指摘しているように、実際に仕事を続けているのに「静かに退職」したと言われると混乱するだろう。
仕事において120%の力を発揮しないことと、仕事をまったくしないことを同一視するのはいただけない。その意味で、「静かな退職」という言葉は不正確だ。しかしこれは、「大退職(Great Resignation)」や「反労働運動(antiwork)」のサブレディットなど新しく辞書入りした言葉と同じく、この前例のない職の不安な時期に仕事との新しい関係について何かを表現しようとする試みと見なすことができる。
「静かな退職」とは仕事を辞めることではなく、ものの見方を変えること、つまり「ハッスル・カルチャー」をやめることを意味するのだ。
単なるサボりか、ワークライフバランスの見直しか
「静かな退職」に関する議論は、その定義をめぐって展開されているものが多い。「静かな退職」の反対派は、これはクビにならない程度に最低限の仕事をすること、つまりサボることだと考えてけしからんと言う。一方の推進派は、これは明確で持続可能なワークライフバランスを確立するものだと言って称賛する。これでは、お互いにまったく別のことを話しているかのようだ。
両者の緊張感は、この議論の発端となった私の記事にも表れている。私はその記事の中で、コロナ以前は昼夜問わず働いていた4人(以下はすべて仮名)を紹介した。
ジャスティンとダリルの2人は、勤務時間を週40時間(つまり所定の勤務時間)に減らした。ベンチャーキャピタリストのステイシーは勤務時間を密かに週30時間に短縮し、職務怠慢にならない程度にゆるく働くようになった。4人目のアンソニーは、フリーランスのエンジニアとして複数の仕事を掛け持ちし、実際は週10〜15時間しか働いていないのに週80時間分の請求ができることを発見した。
この記事が公開されたとき、ジャスティン、ダリル、ステイシーについてはさほど声は上がらなかったが、アンソニーに対しては非難轟々だった。ある人事担当者は「これは詐欺だ!」と呆れていたし、読者の中にも「どうしてこれが違法にならないんだ」と激怒し、アンソニーを「道徳的な不届き者」だと断じる人もいた。
しかし私は、アンソニーのことを嫌なやつだとは思わなかった。むしろ、職場のロビン・フッドとして金持ち企業から時間を盗んでいるように私の目には映った。彼は長らく働き詰めの生活を送っており、数え切れないほどの時間を会社に奪われてきた。これが倫理にもとる行為なのであれば、少しくらいは見返りを求めたっていいじゃないか。実際、この記事が公開されると「アンソニーやるじゃん」というツイートもいくつか見かけた。
では、「静かな退職」とはジャスティンやダリルのように給料分の時間数しか働かないと決めて働くことなのだろうか。それとも、アンソニーのような働き方をすると決めた人たちを指すのだろうか。
一つの言葉でくくられるにはあまりに異なる行動だ。しかし現在の状況を考えれば、この混乱ぶりも頷ける。
仕事を減らしたら幸せになれるか
リモートワークの台頭により、私たちは新しい働き方をめぐって模索の最中にある。上司のためにどれだけ頑張ればいいのだろうか。何年も頑張ってきたのだから少しくらい惰性で働くことはアリだろうか。期待以上の頑張りを拒否することと、意図的に期待を裏切ることの違いは? もし同僚が「静かに退職」したせいで自分がその穴埋めをしなければならなくなったら、彼らに対してどういう気持ちを抱けばいいのだろうか。
私たちはみな不安になりながら、行き当たりばったりで、そして不器用に、自分の道を切り開いている。だからこそ、「静かな退職」という新語が多くの人の心に響いているのだと思う。
私たちはみな、自分のモヤモヤをうまく言語化したいと思っている。「静かな退職」という言葉は、それを取り巻く混乱と熱い議論の中で、私たちの生活の中心にある何かに触れているのだ。
そもそも私がこの議論の発端となった記事を書こうと思ったのは、それが理由だ。仕事と自分の関係をどう見直せばいいのか知りたかった。その手がかりの一つが仕事を減らすということであり、私もやってみた。しかし実際にやってみて満足のいく結果が得られるかどうかは別の話だ。仕事を減らしてうまくいったという人たちに話を聞けば、罪悪感にさいなまれることなく、仕事中心の生活から抜け出す方法が分かるかもしれないと思ったのだ。
この試みはある程度成功した。先日、2018年と2019年につけた日記を読み返していたところ、こんなことが分かったからだ。
当時の私の日記はほぼ毎日、仕事のことで埋め尽くされていた(当時はブルームバーグに在籍していた)。日記には、次の記事の企画を立て、締め切りに間に合わないことを心配している様子が記されていた。どうすれば前に進めるか戦略を練り、記事が不発だったときは自分を慰めていた。私は寝る直前に日記を書いているのだが、寝入る直前に毎日こんなことを考えていたのかと気づき、悲しくなった。
けれど今の私の日記は、もう仕事のことだけではなくなった。これは進歩と言える。コロナ禍以前の数年間はおそらく週平均50〜60時間は仕事をしていたと思うが、現在は週40時間かそれ以下だ。仕事をしていない時間の方が長くなり、仕事をしていないときは仕事以外のことを考える時間が増えた。たまにステイシーのようになることもあるが、基本的にはジャスティンであるよう努力している。
では、人生の中で仕事の占める割合が減った私は、幸せになったのだろうか。これが「静かな退職」の核心にある真の疑問であることが分かった。ハッスル・カルチャーの最大の魅力は、長時間労働で得られるお金ではなく、充実した人生への道しるべを与えてくれることだったのだ。
ハッスル・カルチャーは、仕事が私たちの人生を価値あるものにしてくれる、仕事が私たちを救ってくれるという、宗教にも似た救いの手を差し伸べてくれた。差し伸べられたその手を拒めば、人生の意味や目的を、仕事ではなく、家族や友人関係、余暇、福祉活動など、別のところに見出さなければならなくなる。
それは、どんなに絶好調なときであっても簡単なことではない。ましてやコロナ禍によって孤立や不確実性から抜け出しきれていない今の時期はなおさらだ。
自己救済的な意味で「静かな退職」を選ぶのは、充実した人生への道のりの第一歩に過ぎない。仕事以外で人生を充実させる余地が生まれたら、実際に仕事以外の人生を歩んでいかなければならないのだ。私はまだこの部分で苦戦している。今年に入って結婚生活が破綻したことで、以前のようなハッスル・カルチャーに戻り、仕事での成果に依存しながら悲しみを紛らわせようとしている自分に気がついた。
「静かな退職」をめぐる議論は、私たちがお互いに、あるいは自分の内面に向かって、「どうすれば充実した人生を送れるか」という最も根本的な問いを投げかけることに他ならない。
コロナ禍によってプラスの変化があったとすれば、これまで考えなしに送っていた日常に気づかされたことだ。私たちは立ち止まり、自分にとって何が一番大切なのかを問いかけ、勤務先のニーズ以外の何かで自分の人生を構成する方法を想像するよう迫られている。
もしその探究心を捨て、ハッスル・カルチャーに落ち着いてしまうのだとしたらもったいない。「静かな退職」の是非はさておき、この新語がこれだけ話題になるということ自体、私たちはもうだまされないという明るい兆候なのだと思う。
[原文:What 'quiet quitting' is actually about]
(編集・常盤亜由子)