9月21日、国連総会に出席したイギリスのリズ・トラス新首相。政権が打ち出した経済政策は早くも物議を醸しており……。
REUTERS/David 'Dee' Delgado
9月23日、ロンドン発で欧米の金融市場は総崩れとなった。イギリスのトラス新政権で財務相に就任したクワーテング氏が同日の議会下院で発表した経済対策がきっかけだった。
英政府は、所得税率の引き下げや法人増税の凍結などを柱とする政策を発表し、市場を驚かせた。
欧州では目下、ロシアからの供給源に端を発するエネルギー価格の上昇をどう抑えるかが喫緊かつ最重要の課題であり、欧州委員会でも発電用ガス価格の上限設定や電力消費削減(節電)の義務化などが議論されている真っ最中(詳細は前回寄稿を参照されたい)。
イギリスでもそうした眼前の危機に対する「痛み止め」政策は(エネルギー料金の凍結など)検討されてきたが、トラス政権はそれより「高成長で痛みを忘れさせる」政策に賭けることにしたようだ。
クワーテング財務相が発表した新たな経済対策は「成長計画」と銘打たれており、需要の抑制ではなく創出に尽くす方向性が読み取れる。
しかし、それが奏功する保証はない。少なくとも、債券・為替市場をはじめとする金融市場の反応を見る限り、トラス政権の賭けに勝算を感じていない。
減税を柱とする経済対策費用は5年間で1610億ポンド(約25兆5000億円)と巨額で、発表を受けて英2年債利回りは4%を突破、2008年10月以来約14年ぶりの高水準を記録した【図表1】。
【図表1】ポンド/ドル相場(青)と英10年債利回り(橙)の推移。
出所:Bloomber資料より筆者作成
そのような急激な金利上昇と並行して、外国為替相場では通貨ポンドが急落する最悪の展開となり、ポンド/ドルは37年ぶりの安値を更新、年初来の対ドル下落率ではついに(変動相場制導入以降で過去最大の下落率を記録したばかりの)日本円と並ぶに至った。
「持続不可能」な債務水準への懸念
トラス政権が採用を決めた「拡張財政」プラス「金融引き締め」政策は、インフレ抑制に取り組む政府の意思表示としては迫力不足の印象が否めない。
クワーテング財務相は議会で「我々は成長を優先させると約束した」「新時代に合わせた新たなアプローチを約束した」と発言し、拡張財政を正当化したものの、端(はな)から市場に敬遠されるのでは、いかにアプローチが新しくても政策の持続自体が難しくなる。
何と言っても、イギリスはアメリカに次ぐ世界第2の対外純債務国だ(債務残高は2021年末時点で113兆7000億円)。
ドルのような基軸通貨国でもないイギリスの金融市場が、それでもこれまで安定していたのは、ロンドンの金融街シティが国際資本フローを集めることができていたからだった。
金融市場の心理が完全に離反した足元の状況が続けば、これまでのような国際資本の求心力も働かなくなり、ポンド建ての資産価格も切り下がる可能性が高い。
トラス政権がこの状況を鎮圧するには、(今回の経済対策に伴う追加の政府借り入れを含めた)持続不可能な公的債務がさらなる金利上昇と景気の悪化を招くと考える市場参加者に対し、その懸念を修正し、信頼を回復する必要がある。
とは言え、イギリスはすでに非常に苦しい状況に追い込まれており、信頼の回復と言っても簡単ではない。
消費者物価指数(CPI)は7月に前年同期比10.1%、8月も9.9%と、欧米諸国で唯一の10%前後で推移している。主要7カ国(G7)の中央銀行の中で最も早く(2021年12月に)利上げに着手してインフレ抑制に動き出したのはイングランド銀行(BOE)だったが、エネルギー価格の高騰という供給要因まではやはり制御できていない。
そうした現状があるところに今回の財政拡張なので、市場関係者が物価上昇の加速を懸念するのも当然だ。
「無理筋」なポリシーミックス
インフレ抑制という目的に限って言えば、現在のイギリスは、金融政策(中央銀行)が抑制に躍起になる一方、財政政策(政府)が逆に物価上昇を焚き付けるという「ねじれ」た状態にある。
日本にも「ねじれ」があって、財務省の管轄する為替介入により通貨高を志向する為替政策(政府)と、緩和継続により通貨安を肯定する金融政策(日銀)の矛盾が指摘されている。
ただし、日本の為替政策と金融政策の組み合わせは、理論上、維持不可能なポリシーミックスとして専門的に知られる【図表2】。
【図表2】ポリシーミックスの組み合わせ。日本の現状は上から2段目、イギリスは下から3段目。
出所:各種報道・資料より筆者作成
一方、日本と違って、イギリスにおける政府の拡張財政と中央銀行の利上げは「ねじれ」ではあるものの、理論的に維持不可能な組み合わせというわけではない。
しかし、前節で述べたように、インフレ抑制を目指す本気度に疑義が抱かれるポリシーミックスではある。「政府(財政政策)はインフレ抑制に乗り気ではない」という仕草を少しでも見せれば、インフレ期待への影響などが不安視されることになる。
いま振り返れば、ボルカー米連邦準備制度理事会(FRB)議長時代(1980年代)のアメリカも現在のイギリスと同様、拡張財政と利上げの組み合わせを選択していた。
当時のアメリカでは、金利上昇とドル高によって「双子の赤字(経常赤字・財政赤字)」が生み出された(ドル高は最終的に1985年のプラザ合意で是正)。
当時のアメリカと同じポリシーミックスを採用しているのに、現在のイギリスでは為替市場の反応は真逆で、ポンド安が起きている。
先進国であれば本来、経済成長を促す拡張財政とそれに伴う金利上昇は、資本を呼び込むことにつながる(自国通貨高に進む)はずだが、いまのイギリスはそうなっていない。
トラス政権の経済政策発表で金融市場がパニックに陥った9月23日、サマーズ元米財務長官はブルームバーグテレビジョンのインタビューで、「イギリスは沈み始めた新興国のように振る舞っている」と発言した。金利上昇と通貨急落が併存する状況に対する端的な評価だ。
成立間もないトラス政権は、ジョンソン前政権が決めた国民保険料や法人税の引き上げを撤回することで、存在感を誇示しようとしているフシがある。
だとすれば、与党・保守党内部での足並みの乱れがすぐに解消する展開もあまり期待できないことになる。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
(文・唐鎌大輔)
唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。