「スマホ決済サービスで、給与を受け取れるようになる」。そんな未来が近づいているが、労働者、雇用主、事業者それぞれにどのようなメリットがあるのだろうか(写真はイメージです)。
撮影:小林優多郎
給与を「PayPay」などのスマートフォン決済サービスで受け取る「デジタル給与払い」の実現に一歩近づいた。9月半ばには報道各社が報じて注目を集めている。
厚生労働省は2022年度中をめどに省令を改正し、2023年度にもデジタル給与払いが可能になる見通しだ。
「PayPay」や「楽天ペイ」など一部資金移動業者は「検討している」と話し、今後の動向を注視していく考えだ。
これから何が起こるのか? そしてPayPayなどの事業者、雇用者である企業、そして支払いを受ける労働者、それぞれのメリットを整理する。
目次:
2. 決済サービスのみの支払いはNG。労働者は「選択肢が広がる」
施行は2023年度、実際の利用はもう少し先か
撮影:今村拓馬
日本において、労働者に支払う賃金は「通貨で、直接労働者に」支払わなければならないと定められている(労働基準法第24条)。つまり、直接の現金払いのみだ。
加えて労基法には、厚労省令で定める別の方法での支払いも認めている。
同省令(労働基準法施行規則)では、「労働者が指定する銀行その他の金融機関」(一般的には銀行口座)と「労働者が指定する金融商品取引業者」(同じく証券総合口座)が指定されている。今回の省令改正では、ここに資金移動業者を追加する、というのが基本的な方針だ。
デジタル給与払いの議論をしていたのは、厚労省が設置する諮問機関である労働政策審議会の労働条件分科会。9月13日には、これまでの議論をまとめた制度設計案の骨子が厚労省側から提示された。
厚生労働省。
撮影:今村拓馬
これを踏まえた議論が分科会で行われ、結果を受けて厚労省が改正に向けた作業を進めることになった。
もともとの議論では、「2022年度のできるだけ早期の省令改正」を目指していたが、手続きがスムーズに進めば、11月中にも改正は実現できる見込みだ。
施行は2023年4月からになる見通し。
ただ、実際に資金移動業者へのデジタル給与払いが実現するのはさらに将来の話となる。施行後に資金移動業者の申請を受け付け、厚労省の審査が必要なためだ。
決済サービスのみの支払いはNG。労働者は「選択肢が広がる」
お金を受け取る仕組みが増えるとどうなるのか(写真はイメージです)。
撮影:小林優多郎
デジタル給与払いが実現すると、社会に何が起きるのか。各ステークホルダーのメリットを整理すると次のようなものになる。
労働者側:普段使いの慣れた決済サービスに給与が即座に入金され、引き出しなどもせずにすぐに支払いに使える、など。
雇用者側:振込にかかる手数料が削減できる可能性。
決済サービス事業者(資金移動業者)側:利用者の裾野の拡大や利用増、金融サービス強化の実現の可能性。
労働者は給与をPayPayや楽天ペイなどのスマホ決済サービスなどで受け取れるようになり、給与の受け取りに際して、現在の「現金」「銀行口座」「証券口座」という選択肢に加えて、新たに「決済サービス」を選択できるようになる。
これまでの議論では、あくまで労働者側の同意と任意性が重視されており、「現金、銀行(証券)口座もしくは決済サービス」のどちらかから選択する。「現金もしくは決済サービス」の選択は認めないとされている。「決済サービスだけでしか給与を支払わない」という形態もできない。
例えば、日雇いアルバイトの支払いの場合、「銀行振込だと翌週、現金だと即日払い、さらに決済サービスも即日払い」という選択肢なら認められる、ということだろう。
銀行振込と決済サービスだけの支払いに同意があれば、雇用者側は現金を用意せずに支払えるし、労働者側も即日の受け取りが可能だ。身近な決済サービスに入金されるので現金とあまり変わらず利用できる。
受け取り先の決済サービスの指定は、労働者が任意で選べるのが前提だ。
例えば「PayPay限定」というのは好ましくない。ただし、分科会の議論では「資金移動業者は、その所在状況等からして1社に限定せず複数とする等労働者の便宜に十分配慮して定めること」とされているため、義務とまでは言えないようだ。
この項目自体はこれまでも存在していて、「振込先銀行を1行に限定することが直ちに違法とは言えない」というグレーゾーンではあったので、同様の位置づけだろう。
決済サービス事業者が「参入する」とは明言できない理由
省令改正で対象となる資金移動業者は、3種あるうちの第2種資金移動業者のみ。
資金移動業者は金融庁に登録が必要で、85事業者(8月31日現在)が登録されている。そのすべてが第2種資金移動業者であり、現在決済サービスを提供している事業者はすべて対象となりうる。
そのうち、一定の要件を満たした事業者が厚生労働省に申請できて、審査の上で厚労大臣が指定した事業者のみが、デジタル給与払いに対応できる。
現時点では、厚労省の審査の詳細も不明なため、資金移動業者側が「参入する」と明言できるわけでもない。
実際、「前向きに検討している」(PayPay)、「検討している」(楽天ペイメント)、「提供に向けて今後検討していく」(NTTドコモ)といった具合で、検討自体はしているが確実なことは言えない、という状況のようだ。
申請にあたっての要件は5つあり
- 破綻時に給与を「速やかに」保証する仕組みがあること。
- 不正時に補償する仕組みがあること。
- ATMなどから1円単位で引き出しができ、さらに少なくとも毎月1回は手数料の負担なく口座への資金移動が1円単位でできること。
- デジタル給与払いの実施状況と財務状況を厚労大臣に報告できる体制があること。
- 技術的能力と社会的信用があること。
となっている。資金移動業者は、資金決済法において破綻時にユーザーの資金を返還できるよう保全規制が定められ、「履行保証金」を供託する必要がある。
ただ、最終的な返還までは約半年が必要ともいわれており、これが厚労省の要件1にある「速やかに」に該当しない。
厚労省が分科会に示した制度設計案の骨子。5つの要件を全て満たす必要がある。これまではこうした要件はなかったが、資金移動業者の参入で銀行口座並みの安全性、確実性を確保するために定められた。
出典:厚生労働省
これは労働者保護の観点からの措置で、銀行でも「金曜に破綻したら月曜に返金」というスピードが必要だ。資金移動業者も、「4〜6営業日」(厚労省)で返金できるよう、供託金を確保しなければならない。
従来の資金決済法における規制は、利用者保護の観点だが、加えて労働者保護の施策が必要として、「2階建て」という規制を積み上げる。
出典:厚生労働省
資金決済法では、保全規制として供託金が必要だが、デジタル給与払い分は速やかに返金できる体制を整えるなど、保証体制が必須となる。
この場合、あくまで筆者の推測だが、「決済サービスの残高のうち、賃金分はすぐに返還されるが、自らチャージした残高は遅れて返還される」というパターンもあるかもしれない。
「生活の糧」である給与の安全性を確保するため、速やかな返金が必要となる。図には「保証機関」とあるが、これまでの供託金とは別に確保する必要はないが、4〜6営業日で返金できるような体制が必要。
出典:厚生労働省
「残高100万円」の上限はそのまま
加えて資金決済法の規制上、第2種資金移動業者だとアカウント上に100万円までしか残高を保持(滞留)できない。
そのため、残高が100万円以上になったら、利用者側はその日のうちに出金をするなどの対応が必要となる。
現状、例えばPayPayは100万円を超えるチャージはできないが、デジタル給与払い参加の条件として、100万円を超える場合には「当日中に登録口座に自動払出」もしくは「自動払出をしてから給与入金」といった設計が求られる見込みだ。
100万円を超えたからといって直ちに給与が受け取れなくなる、ということはないだろう。
ただ、頻繁に払出が求められると、その分は資金移動業者のコストになる。毎月2回目の払出からは手数料が必要になることはありえる。
もともと資金移動業の残高は、「為替取引(送金や支払いなど)をするために一時的に保持(滞留)させている」という前提があるため、入金された給与を銀行口座のように長期間にわたって保持しておくという仕組みではない。
そのため、「デジタル給与払いを利用するには銀行(証券)口座が必須である」という点は注意が必要だ。
例えば、アメリカのペイロールカード※は銀行口座を持たない層にも利用されているが、銀行口座の取得・維持が比較的容易な日本とはあまり比較にならない。
※ペイロールカードとは:アメリカで1990年代後半に登場した給与振込用の決済カードのこと。国際ブランドが付随し、ペイロールカード口座に振り込まれた金額の範囲内で決済、ATMでの現金引き出しなどができる。
労働者のメリットはチャージの手間の削減
労働者側のメリットは?(写真はイメージです)
撮影:今村拓馬
こうした点をふまえると、当初は「月給制の正規社員の給与をすべて決済サービスでも支払う」という例は多くはないかもしれない。
基本的には日雇いやアルバイトのような、比較的少額な支払いで活用することが想定される。海外送金サービスを組み合わせて外国人労働者に利用されるパターンもありえるだろう。
正規雇用の社員でも、例えば企業内で報奨金のような仕組みがあった場合、それを決済サービスで支給する、ということもありえる。
仕組み上は、給与の一部を決済サービス、残りを銀行口座に振り込む、という方法もできなくはないし、いったん全額が決済サービスに入金されたあと、一部を残して自動で銀行口座に払い出す、というやり方もできそうだ。
例えば、毎月のおこづかいを決済サービスに振り分けておく、という使い方もできるだろうし、決済サービスの積立投資や保険などにそのままスライドさせる、という利用方法もある。
毎回チャージしてから積立投資をするのではなく、給与であれば自動的に毎月入金されるので、手間がなくなる。
事業者側は「デジタル給与払い」単体では儲からない?
事業者側のメリットは?(写真はイメージです)
撮影:今村拓馬
資金移動業者にとっては、ユーザー数増加と利用頻度の拡大が最大のメリットだ。
特にコード決済のようなプリペイド型の決済サービスにおいては、事前にチャージをしてもらうというハードルがある。毎月自動的に入金されると、チャージが不要になるため、利用の拡大が図れる。
「チャージする手間がないなら使ってみよう」というユーザーが出てくるかもしれない。また、デジタル給与払いへの対応状況によっては、今まで使っていなかった決済サービスの利用に繋がる可能性もある。
一方、資金移動業者からすれば、デジタル給与払い単体での事業性はあまり考えていないだろう。実際、「日々の支払いに伴う決済システム利用料や金融サービスの利用に伴う利益の拡大に期待している」と話す事業者もいる。
雇用者側は手数料の削減の可能性あり
銀行振込の手数料に比べて、スマホ決済への入金の方が手数料は削減できる可能性がある。
撮影:今村拓馬
雇用者側となる企業などにとっては、振込に掛かる手数料の削減につながるかもしれない。
これまで給与の銀行口座への振り込みでは、全銀システムの手数料の一部(内国為替制度運営費)が不要なため、通常の振込手数料よりも安価になっている。
それでも、それなりの金額が掛かるため、決済サービスでコストが下がるなら歓迎という声もあるだろう。
法人口座から決済サービスへの給与振り込みに対しては、全銀システムの仕組み上、規約変更で資金移動業者を追加して、内国為替制度運営費を無料にすると見込まれる。そのため、決済サービスへの給与振り込みの手数料は下げられるだろう。
手数料が銀行よりも安く、さらに法人口座からCSVファイルや全銀ファイルなどで一括して振込指示が可能なことが求められるだろう。
もし、こうした推測通りになるなら給与振り込みでコスト削減につながる可能性はある。
ただ、前述の通り「決済サービスのみ」という選択はできない見込みなので、銀行振込と併存することになる。
厚労省が定める要件次第で、資金移動業者の動きも変わってくるだろう。審査や規制がどうなるか不明な点は多く、実際にどれだけの対応サービスが出てくるかは分からない。
厚労省では省令改正の公布後、要件などを何らかのかたちで公表する考えで、それを受けた資金移動業者各社の動向が注目される。