Marianne Ayala/Insider
穏やかなBGMが流れる中、白衣を着た数十人の研究者たちがコンピューター計算とラボ実験を黙々とこなしている。ここはマサチューセッツ州ケンブリッジにあるゲノム編集のスタートアップ、アーバー・バイオテクノロジーズ(Arbor Biotechnologies)の研究室だ。2023年に臨床試験を開始することを目標に、最初の治験薬候補を開発しようと多くの研究者が実験に集中している。
アーバーは、ブロード研究所のフェン・チャン(Feng Zhang)やハーバード大のデイビッド・ウォルト(David Walt)など、ゲノム編集のパイオニアによって2016年に創業された。アーバーのようなゲノム編集に特化した企業にとっては、株価が低迷し予算や人員を削減しているバイオテクノロジー業界の苦境もどこ吹く風だ。
アーバーは現在120人いる社員数を今後1年間で20~25%増員する計画だが、2021年11月のシリーズBで調達した2億1500万ドル(約320億円、1ドル=150円換算)の資金はまだ潤沢だ、とデビン・スミス(Devyn Smith)CEOは話す。
スミスの発言が示すとおりゲノム編集分野は現在活況を呈しており、早期研究が成功したことで採用も規模拡大も継続している。他の分野のバイオテクノロジー企業がリストラを迫られ研究領域も狭めざるをえない状況に追いやられているのとは対照的だ。
そんな数少ないゲノム編集企業は今でも医療機関の臨床プログラムを推進しており、研究開発費を増額し、冷え切った株式市場をものともせず上場を目指している。
「私たちの死後もこの技術は長く残ります。今は考えもしないような方法で、さまざまなものに革命をもたらす画期的な技術なのです」(スミス)
バイオテクノロジー企業には「冬の時代」
2021年2月にピークを迎えて以降、バイオテクノロジー業界にとっては長く苦しい下降局面が続いている。バイオ技術の先行指標であるSPDR S&P Biotech ETFはその間、半分以上値を下げた。
下降の理由はさまざまだが、大きな打撃となったのは経済全体の低迷だ。資本市場からの資金調達に頼っていたバイオテクノロジー業界にとって、金利上昇の影響は特に大きかった。
新薬の承認を得るのに何年もかかるため利益どころか売上も立たない企業も多いなか、金利が上がることで資金調達が困難になるのだ。さらに、ここ数年のバイオテック・ブームで多くの企業が業界にひしめいていることも追い撃ちをかけている。
多くのバイオ企業はリストラや研究費の削減など、出費を抑えることでこの状況をしのごうとしている。Fierce Biotechの調べによれば、2022年に人員カットに踏み切った企業は90社以上にのぼる。
臨床試験で迅速に結果を出し、難を逃れたゲノム編集のバイオ企業
インテリア・セラピューティクスはCRISPRを使ったゲノム編集薬を開発中。疾患の治療を目指す。
Intellia
もともと細菌の免疫システムから発見されたCRISPRは、分子を切るハサミのように機能し、研究者はこれによって正確なDNA編集を行うことができる。
今やバーテックス・ファーマシューティカルズ(Vertex Pharmaceuticals)など複数の企業がCRISPRを使った治療法の確立に取り組んでいる。アーバーのように、より正確な技術を使ってCRISPRを改善することを事業にしているスタートアップもある。
最近は臨床試験が進んできたことで、もともとのCRISPRのしくみが非常に効果的であり、疾患を治癒することもできることが分かってきた。
バーテックスとCRISPRセラピューティクスは初のCRISPRによる鎌状赤血球病(編注:異常ヘモグロビン症ともいい、ヘモグロビン分子に影響を及ぼす遺伝性疾患)のための治療薬候補を共同開発しており、2023年にも承認の判断がされる見通しだ。
バーテックスは2022年6月に、2~3カ月ごとに疼痛発作が起こっていた患者13人を対象にした後期臨床試験で、治療を受けてから数カ月でその症状がなくなったと発表している。「(治癒率)100%とはこの上ない良い結果です」とバーテックスのレシュマ・ケワラマニ(Reshma Kewalramani)CEOは話す。
こうした驚くべき結果が、他のバイオ企業とCRISPR企業の差となっている。この技術の疾患治療の可能性は本物なのだ。カリフォルニア州の非営利団体である革新的遺伝子学研究所(Innovative Genomics Institute)で技術・翻訳部門を率いるヒョードル・ウルノフ(Fyodor Urnov)は、バーテックスの鎌状赤血球病の結果が出たことで、この技術に疾患を治す力があるとの認識が広がったという。
「可能性についての議論は終わり、今はどれくらいの期間でどれだけの疾患を治すことができるのかという議論に移っています」と話す。ちなみに、ウルノフはバーテックスの研究には関与していない。
バーテックスの試験スピードの速さは、CRISPRを使うことで新薬の開発期間が短縮される可能性も示している。最初の患者がCRISPR治療を受けたのは2019年の半ば。つまり、この実験的な治療の承認審査が行われるまでに4年もかかっていないことになる。
新薬は、初期段階の臨床試験から承認までに平均10年強ほどかかる。他の遺伝子技術ではそれ以上だ。1998年に発見されたRNA干渉は2006年にノーベル賞を受賞したが、この技術による初めての新薬が承認されたのは2018年と、20年かかっている。
そんな科学的進歩の速さから、マーケットが低迷する中でもCRISPR分野は次々とニュースになっている。ここ1カ月だけでも、CRISPRセラピューティクスは1000人収容できるボストンの瀟洒な新社屋に移転した。インテリア・セラピューティクス(Intellia Therapeutics)は、トランスサイレチン・アミロイドーシスという希少疾患の試験治療に関し素晴らしい結果を出しているが、次のプログラムである希少遺伝性疾患である遺伝性血管浮腫の試験結果も同様に良好だった。
さらにバーブ・セラピューティクス(Verve Therapeutics)、ローカス・バイオサイエンシズ(Locus Biosciences)、エクシジョン・バイオセラピューティクス(Excision BioTherapeutics)なども、心疾患や尿路感染症、HIVなど、より一般的な疾患向けにCRISPRを使った試験を行っている。
「この勢いには目を見張るものがあります」とウルノフは言う。
株式市場が冷え切っている中で一番の挑戦的な動きはおそらく、プライム・メディスン(Prime Medicine)の上場申請だろう。臨床試験中のゲノム編集薬を持っておらず、さらに臨床試験開始までのスケジュールが公表されているわけでもないというのに、この次世代スタートアップは2億ドル(約300億円)を調達しようとしていると報道されている。
株は乱高下でも増員は計画通り
ビーム・セラピューティクスの研究者たち(マサチューセッツ州ケンブリッジの研究室にて)。
Beam
CRISPR企業にとっても、2022年は決して順調と呼べる年ではない。投資運用会社トレーヤ(Torreya)が2022年9月9日に公表した報告書によれば、これらのCRISPR企業の株価は2022年に入ってから平均で29%低下した。だがこうした向かい風にあってもCRISPR企業の事業は好調で潤沢なキャッシュを持ち、研究開発費も増やしている。
金融調査サービスを提供するセンティエオ(Sentieo)のデータによれば、上場しているCRISPR企業7社の年間研究開発費は、2021年初めの7億5700万ドル(約1100億円)から現在は15億ドル(約2200億円)と、過去2年弱で倍増している。資産も拡大を続けており、現金及び短期投資の額は1年前の53億ドル(約7950億円)から、2022年半ばには55億ドル(約8250億円)に達している。
他のバイオテック企業が少ない手持ちのキャッシュを温存しようと研究開発費を削るなか、CRISPRセラピューティクスやビームなどのゲノム編集企業はその対極にある。直近で資金調達のために低い価格で株式を売却する必要性も低いため、マーケットの浮き沈みからは距離を置くことができる。
増員計画も好調だ。33億ドル(約4950億円)企業のビームは社員を500人まで増やしているが、さらに採用を進める計画だとジョン・エバンス(John Evans)CEOは言う。2023年にはノースカロライナ州に10万平方フィート(約9290平米)規模の工場が操業を始める予定だ。
「この分野は今、乗りに乗っていますよ」(エバンス)
[原文:Gene-editing companies are growing thanks to fast-paced science, even as biotech faces a downturn]
(翻訳・田原真梨子、編集・大門小百合)