左は創業当時に新橋〜横浜間を走った110形蒸気機関車。現在は一部修復された上で展示中(旧横濱鉄道歴史展示)。右は『鉄道寮事務簿第6巻』複写(鉄道博物館蔵)。
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鉄道開業から今日で150年の節目を迎える。日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業したのは、1872(明治5)年の旧暦9月12日(西暦10月14日)のことだった。
この日、鉄道開業を祝う「開行式」が明治天皇の臨席の下で開かれ、お召し列車が新橋停車場(後の汐留駅)と横浜停車場(現:桜木町駅)を1往復した。
日本の鉄道が産声をあげた日、新橋・横浜間29キロを結んだ列車には誰が乗っていたのか。
当時、鉄道を所管した「鉄道寮」が取り扱った文書『鉄道寮事務簿 第6巻』(鉄道博物館所蔵・重要文化財)や現在の官報にあたる『太政官日誌』などから開業当日の様子を紐解いてみよう。
「天皇 御直衣を着させられ四馬の御車に召し……」
『鉄道寮事務簿第6巻』の複写(鉄道博物館所蔵)。
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鉄道開行式が実施された日について、鉄道寮事務簿には、こう記されている。
明治五年壬申九月十二日天気晴朗。天皇御直衣を着させられ四馬の御車に召し、朝九字(※時)御出門。
(『鉄道寮事務簿』第6巻)
1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)の午前9時、直衣姿の明治天皇は馬車で皇居を出発。新橋停車場へ向かった。
その道中は「近衛騎兵前後を護衛」「近衛歩兵三大隊を布列したる大手より桜田御門練兵所脇左へ、幸橋外左へ」「東京鎮台歩兵三大隊を布列したる街路御通行」と記され、厳重な警備体制だったことが伺える。
「天気晴朗」とあるが、もともと開行式は10月11日(旧暦9月9日)の「重陽の節句」に開かれる予定だった。
ところが天候の悪化を受けて式典は延期に。もし当初の日程通りに実施されていたら「鉄道記念日」は10月11日になっていたのかもしれない。
「新橋には無数の万国旗、紅白の提灯、緑のアーチ」
「東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図 」/ 立斎広重 : いせ喜・伊勢屋喜三郎, 明治6(1873)
国立国会図書館デジタルコレクション
新橋に明治天皇が到着すると、横隊に並んだ近衛歩兵一大隊が礼式曲オーシャンのラッパ吹奏と捧げ銃で迎えた。
新橋鉄道館に行幸。門内右側に近衛歩兵一大隊を横隊に布列し、通御の節捧銃式を行い、喇叭オーシヤンの曲を奏し、左側に工部省判任官羽織袴にて立礼拝礼す。
(『鉄道寮事務簿』第6巻)
式典出席者は明治新政府の高官や華族、外国公使など。直垂帯剣、羽織袴、礼服などの正装が義務付けられていた。
『日本国有鉄道百年史』にも、新橋駅の華やかな様子がこう記されている。
「新橋鉄道館には無数の万国旗が翻り、紅白百千の提灯と緑のアーチがいっそうの色どりを添えていた」
「開業式当日は太政官通達によって諸官員に休暇が与えられ、(仮開業していた)品川・横浜間の列車も営業運転を休止した」
(『日本国有鉄道百年史 第一巻』1969年)
出席者の中には、鉄道事業を陣頭指揮した鉄道頭(てつどうのかみ)・井上勝の姿もあった。
井上は幕末期、伊藤博文らイギリスに密航した「長州五傑(長州ファイブ)」の一人で、ロンドンでは鉄道技術や鉱山技術を学んだ技術官僚だった。井上は御雇外国人だった鉄道建設の技師長エドモンド・モレルらとともに日本初の鉄道建設に邁進した。
東京駅丸の内駅前広場にある井上勝の銅像。日本の「鉄道の父」との呼ばれる。
撮影:吉川慧
井上から「鉄道図」一巻を奉じられた明治天皇は停車場のホームへ。9両ある客車のうち3車(3号車)に乗った。出発に際して国旗が掲げられ、雅楽「萬歳楽」が演奏されたという。
「お召し列車」の乗客名簿、誰がいた?
『鉄道寮事務簿第6巻』の複写(鉄道博物館所蔵)
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第十字、御発車(『鉄道寮事務簿』第6巻)
午前10時、汽車は新橋を出発。日比谷練兵場では101発、品川沖に停泊中の軍艦からは21発の礼砲が発射された。
お召し列車にはどんな人物が乗っていたのだろうか。
列立次第(『鉄道寮事務簿第6巻』、日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第1巻』1969年より作成)
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列立次第(『鉄道寮事務簿第6巻』、日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第1巻』1969年より作成)
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鉄道寮事務簿に記された「列立次第」によると、前寄りの1・2車には護衛の近衛兵。3車には「御」と記された明治天皇、皇族の有栖川宮熾仁親王、政府首脳の三条実美(太政大臣)が乗車。鉄道頭の井上もここに侍った。
列立次第(『鉄道寮事務簿第6巻』、日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第1巻』1969年より作成)
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4車、5車には外国公使や明治新政府の重臣らがいた。
4車には西郷隆盛、大隈重信、板垣退助など明治維新の立役者の名前がある。
近代化には鉄道が不可欠と建設を推進した大隈と、鉄道建設よりも軍備増強を主張し鉄道反対派の代表格だった同じ車両にいたことになる。
のちに西郷は新政府を離れ、旧士族の反乱「西南戦争」で新政府軍に敗れて自刃する。政府はこうした士族の反乱に対処したが、鉄道建設の資金難に陥った。一方、各地で私鉄会社が生まれるきっかけとなった。
なお、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らは欧米各国を訪問中だった。そのため開行式には出席していない(岩倉使節団)。
列立次第(『鉄道寮事務簿第6巻』、日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第1巻』1969年より作成)
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5車には明治の元老となる井上馨や山県有朋、明治憲法発布時に首相となる黒田清隆、旧幕臣で新政府の海軍卿となる勝海舟、不平等条約改正に取り組んだ陸奥宗光らがいた。
列立次第(『鉄道寮事務簿第6巻』、日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第1巻』1969年より作成)
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6車には新政府の官吏や東京府知事、軍人らが乗車。当時は大蔵省に所属し、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる実業家となった渋沢栄一の名前があった。
列立次第(『鉄道寮事務簿第6巻』、日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第1巻』1969年より作成)
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列立次第(『鉄道寮事務簿第6巻』、日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第1巻』1969年より作成)
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7車には紀州徳川家の徳川慶勝や旧薩摩藩の島津忠義ら、明治維新で功績のあった旧大名の華族の名前があった。
徳川幕藩体制下では清朝(中国)と薩摩藩に両属する立場だった琉球王国からは伊江王子らが招かれた。他の外国公使とは異なり旧大名の華族と同じ号車に遇されたことは、薩摩による琉球支配の終わりを意味する一方、新政府が中央集権体制に組み込もうとした意図が垣間見える。
鉄道開行式の後、琉球王国は「琉球藩」とされ、1879年に沖縄県となった。ここにおよそ450年間続いた琉球王国は滅亡した。
明治天皇「此線をして全国に蔓布せしめんことを庶幾す」
桜木町駅前にある明治20年頃の横浜停車場の様子を写した写真。
撮影:吉川慧
午前11時、29キロの線路を駆け抜けたお召し列車は横浜停車場に到着した。
このとき東京鎮台の砲隊が101発、横浜港停泊の軍艦が21発の祝砲を放った。雅楽「慶雲楽」が奏でられ、神奈川県令、各国領事らが一行を迎えた。
『太政官日誌』によると、到着後に停車場の建物(鉄道館)に入った明治天皇は役人に向けて勅語を発した。その内容は、鉄道開業に尽力した役人を労うとともに、鉄道を全国に敷設することを願うものだった。
「今般我国鉄道の首線工唆るを告ぐ。朕親ら開行し、其便利を欣ぶ。嗚呼汝百官此盛業を百事維新の初めに起し、此鴻利を万民永享の後に恵まんとす。其励精勉実に嘉尚すべし。朕我国の富盛を期し、百官万民の為之を祝す。朕更に此業を拡張し、此線をして全国に蔓布せしめんことを庶幾す」
(百官への勅語、太政官日誌七十五号)
現代語要旨:「このほど我が国の鉄道の最初の区間が竣工したことを告げる。私自ら鉄道を開業し、その便利さを喜ぶ。諸官らは、この偉大な事業を維新のはじめに起こし、このことは大きな利益を広く国民に長きにわたって与えようとしている。その精励さと努力を大いに称賛する。私は我が国が富み栄えることを期待し、多くの官吏や国民のためにこれを祝う。私はさらに鉄道を広げ、全国に線路を敷設することを心から願う」
さらに市民向けの勅語、各国公使代表のイタリア全権大使や在留外国人、市民代表(実業家の原善三郎)からの祝詞があった。
横浜での式典を終え、正午に明治天皇と一行は新橋への帰路についた。復路の汽車が出発する際には雅楽「陵玉」が演奏されたという。
三井高福「遠隔の地を近隣の如く自在に往復する」
当時の外国人居留地の情報誌「The Far East」に掲載された新橋停車場のプラットフォーム(左)と外観。鉄道歴史展示室の絵葉書より。
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午後1時、汽車は新橋に戻った。停車場では国旗が挙げられ、雅楽「還城楽」が奏でられた。
『太政官日誌』によると、明治天皇は列車を降りると新橋鉄道館に入り、着座。横浜での式典と同じ勅語を役人と市民に向けてそれぞれ発した。
新橋の式典では役人代表として太政大臣の三条実美、東京市民の代表として三井財閥の三井八郎右衛門(三井高福)が祝詞を述べた。
いずれも明治天皇の威光をたたえつつ、鉄道が日本の工業や経済発展に大きな利益をもたらすことを寿ぐものだった。
「抑国益を興し、民利を與るは経世の要治国の務とす。陛下大政維新の始より夙夜励精、百度皇張、大に更始する所あって、全国の景象漸く昌盛の運に進まんとす。乃ち此工業の如き、国に益あり、民に利なる固より言を俟たす」
(三条実美の祝詞、『鉄道寮事務簿』第6巻)
「衆皆手の舞ひ足の踏むを知らず、熟ら鉄道の利を惟るに、東京横浜の間僅に一日の里程を隔つるすら、従来人の往還、物の運輸障碍少からざりしに、今や之を瞬間に縮め、貿易は勿論諸事便を得ること多し。況や此線全国に蔓布するの日に於て乎。其便に依りて人皆遠隔の地を近隣の如く自在に往復するを得、国民和親の情因て厚く、財貨融通の便因て大ならんこと、更に疑を容れず。終には挙国協力同心して商の業を盛に興し、国の富を大に進め、以て有名の外国と峙立するの基とならん」
(三井高福の祝詞、『鉄道寮事務簿』第6巻)
また、明治天皇は鉄道開設に尽力した工部卿や鉄道頭、御雇外国人らに対する賞詞を述べた。
「汝等殊に勉力事に従ひ、遂に此功を奏す。朕満足の至に堪へず。且是れ外国人の職長等熟練の力に依る、朕之を嘉賞す」
(『鉄道寮事務簿』第6巻)
山尾工部少輔が代表して祝詞を述べ、開行式は終わった。
旧新橋停車場を再現した鉄道歴史展示室。
撮影:吉川慧
開行式当日の新橋と横浜はお祝いムードに満ちていたようだ。停車場の構内には桟敷が設けられ、場内や蒸気機関車が公開されたという。
ただし、入場を許されたのは政府が発行した印票を持つ人のみ。「この地方の資産家とその家族、雇外国人、各国領事等」(日本国有鉄道百年史第1巻)だった。そのため、お召し列車を見ようと沿線には多くの人が集まったようだ。
新橋に近い浜離宮も大いに賑わったと伝わる。
「浜離宮の庭園では諸芸人を集め、入場者の歓楽に供し、赤飯・煮染の折詰を配った」
「賀燈を点じ、離宮前の海面では花火の余興があっ た」
(日本国有鉄道百年史第1巻)
新橋・横浜ともに停車場では花火があげられ、夜には彩やかな賀燈が灯されたという。
旧新橋停車場のホーム。0哩(マイル)標識と創業当時の線路がある。
撮影:吉川慧
開行式が終わり、明治天皇が新橋から皇居への馬車で帰路につくと、大臣や参議、政府高官や外国公使らは浜離宮の延遼館で祝杯をあげたという。
人々は新政府が威信をかけて挑んだ鉄道開業を祝った。だが、その輪の中に鉄道技術を指導したエドモンド・モレルの姿はなかった。結核に冒されたモレルは、鉄道開業を目前に息を引き取った。30歳の若さだった。いま、モレルは横浜の外国人墓地に眠っている。
こうして、日本の鉄道のあけぼのを祝う一日は終わった。
(文・吉川慧)