150年にわたる日本の鉄道の歴史は人々の生活を大きく変えた。
国立国会図書館デジタルコレクション、Business Insider Japan
日本初の鉄道が新橋(旧 汐留駅)〜横浜(現 桜木町駅)間で開業したのは、今から150年前の1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)だった。
当時の鉄道は、どんな様子だったのだろうか。
「東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図 」/ 立斎広重 : いせ喜・伊勢屋喜三郎, 明治6(1873)
国立国会図書館デジタルコレクション
まず料金を見てみよう。開業当時、新橋から横浜までの運賃は上・中・下等の3階級で運賃が分けられていた。上等は1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘だった。
明治元(1868)年当時、米10キログラムの値段は約55銭といわれています。現在の貨幣価値に照らし合わせると、上等が1万5000円、中等が1万円、下等が5000円に相当し、運賃は大変高価なものでした。
(広報みなと2022年9月21日号「鉄道開業150年 港区と鉄道の夜明け」)
(※編注:現在のJR新橋駅〜JR桜木町駅は片道480円)
開業翌年の1873年には貨物輸送も始まった。高価ではあったが、貿易の重要地点だった横浜と東京を結んだこの鉄道は人や物の移動に大きな革命を与えた。
では、日本初の鉄道はどんなところを走ったのだろうか。
海の上を鉄道が走った「高輪築堤」
「新橋横浜間鉄道之図」より「高輪築堤」部分。
国立公文書館デジタルアーカイブ
始発の新橋停車場を出発すると、現在の田町駅付近から品川駅付近まで、海の上に築かれた堤防「高輪築堤」の上を走った。
なぜ、汽車が海の上を走ったのか。その裏には鉄道をめぐる明治新政府内の対立があった。
鉄道建設を推し進めたのは、イギリスに渡って蒸気機関車を目の当たりにした大隈重信ら「開明派」と呼ばれた人々。大隈らは近代化の象徴で、人や物を早く大量に運べる鉄道は日本の発展に不可欠だと主張した。
一方、旧薩摩藩の西郷隆盛らは鉄道開設よりも軍備拡張が大事という立場だった。両者は対立し、西郷の影響下にあった旧薩摩藩邸や兵部省は鉄道用地の提供に難色を示した。
広重『高輪の海岸(東京名所図会)
国立国会図書館デジタルコレクション
そこで考え出されたのが海の上の堤防だった。浅瀬の海に土を盛り、木の杭を打ち、地盤を固め、石垣で堤防を築いて線路を敷いた。
高輪築堤の上を走る様子は当時の錦絵にも描かれ東京の名所に。2019年には高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発工事で高輪築堤の遺構が見つかり、話題となった。
「高輪築堤」跡。
港区ホームページ
「高輪築堤」があった高輪ゲートウェイ駅付近の再開発工事現場周辺。
撮影:吉川慧
当時の面影を伝える八ツ山橋
品川を出ると、鉄道は八ツ山と御殿山を切り取って敷かれた線路を走った。東海道と鉄道を立体交差させるために架けられたのが八ツ山橋。現在は国道15号線、京浜急行線、JR線が交わる。
現在の八ツ山橋。
撮影:吉川慧
大森を経て、鉄道は県境の六郷川(多摩川)へ。ここには全長623メートルにおよぶ大きな木製の橋が架けられた。1877年には複線化と併せて日本初の複線用鉄橋に改築。その後さらに架替えを経て、現在の六郷川橋梁(4代目)に至る。
現在の六郷川橋梁(川崎側より)
撮影:吉川慧
その後、鉄道は川崎、鶴見を経て、神奈川からはまた海の上に設けられた堤防の上を走り、横浜停車場へと至った。徒歩なら10時間はかかるとされた道が鉄道ならノンストップで53分だった。
かつての横浜停車場があった現在の桜木町駅。
撮影:吉川慧
鉄道は、人々の暮らしを大きく変えた。
旧横濱鉄道歴史展示にある110形蒸気機関車。創業当時に新橋〜横浜間を走り、現在は一部修復された上で展示されている。
撮影:吉川慧
29kmのレールから始まった日本の鉄道は、明治期の終わり頃には北海道から九州までに広がった。
政府は1892年に鉄道敷設法を公布し、鉄道敷設をさらに推進。1906年には鉄道国有法によって17の私鉄が国有化された。この年度、日本の鉄道路線は8000キロを超えた。
国有化までには国内市場の拡大を目指す実業界からの要望や当時の不況、兵站効率化のため線路系統の統一を軍部が求めていたことなど様々な背景があったようだ。
いずれにしろ全国津々浦々へと至った鉄道は、大量のモノを安く迅速に輸送できたことで物価や物流の安定にも寄与。鉄道は日本の近代化、工業化に貢献したと言えるだろう。
市民にとっても、鉄道は身近な交通手段の一つとなった。1872年の鉄道開行式で三井高福が「遠隔の地を近隣の如く自在に往復するを得」と述べたように、交通事情は大きく向上した。
鉄道開発は日本の対外進出とも無縁ではなかった。戦前に植民地、勢力圏とした朝鮮半島や満州にも鉄道は及び、ヨーロッパへの移動手段として「欧亜国際連絡体制」もつくられた。
1937年に日中戦争、1941年には太平洋戦争が勃発。やがて鉄道でも軍事輸送・貨物輸送が優先され、市民の旅客利用が制限されるようになった。駅弁の購入にも配給券が必要となった。
国鉄「D51形」蒸気機関車の動輪。のちに「新幹線の生みの親」の一人と呼ばれる島秀雄が設計に関わった。(JR新橋駅)
撮影:吉川慧
人の夢や希望を運び、経済の大動脈となった鉄道も、戦時中には出征兵士や軍需物資を戦地へと送る兵器としての役割を担うことに。学童疎開での児童の輸送にも鉄道は用いられた。
度重なる空襲で被害を受けながらも、鉄道は1945年8月15日も動いていたという。
鉄道の歩みは「より早く」に挑み続けてきた人類の記録
撮影:吉川慧
戦争が終わり平和な時代が訪れると、鉄道は経済復興、高度経済成長に一役買った。
「金の卵」と呼ばれた集団就職の人々を地方から都市へと運び、その様子は井沢八郎が歌う「あゝ上野駅」でも描写された。
「就職列車にゆられてついた 遠いあの夜を思い出す」
「ホームの時計を見つめていたら 母の笑顔になってきた」
(「あゝ上野駅」より)
1964年、東京オリンピック開催の年には東海道新幹線が開通し、東京〜新大阪間を4時間で結んだ。今に至るまで日本の大動脈へとして動き続けている。
1970年代にはスエズ戦争とイラン革命による2度のオイルショックが起こると、鉄道も次第に厳しい時代を迎える。自動車や飛行機での移動が一般化し、国鉄の経営は逼迫した。
1987年、旧国鉄はJRに分社民営化された。ほどなくして、時代は昭和から平成へと移り変わった。
鉄道の歴史は「より早く」に挑み続けてきた人類の記録でもある。現在、新幹線は東海道・山陽、東北・上越に加え、いまや北陸、九州、北海道にまで至った。
かつて4時間を要した東京〜新大阪間は、今ではおよそ2時間30分にまで短縮された。品川〜名古屋間では2027年の開業を目指してリニア新幹線の計画が推められている。
一方、姿を消した鉄道もある。ブルートレインなどの寝台特急は続々と引退し、JR在来線で定期運行する寝台特急はいまやサンライズ瀬戸・出雲のみとなった。
JR北海道など地方路線では利用客が減った不採算路線の廃線が相次ぐ。市民の足をどう維持するか課題となっている。
旧新橋停車場を再現した鉄道歴史展示室。
撮影:吉川慧
時代とともに車窓の景色も変わった。1914年に東京駅が開業すると、鉄道開業の地であった新橋停車場は旅客ターミナル駅としての役割を終えた。やがて貨物専用駅の汐留駅となり、昭和の終わりに廃止された。
再開発された跡地には旧新橋停車場を再現した鉄道歴史展示室が建てられ往時の面影を伝える。
東京の玄関口の役割を引き継いだ東京駅では、日本初の鉄道建設に尽力した「鉄道の父」井上勝の銅像が行き交う旅客たちを静かに見守っている。
東京駅を見守る井上勝の銅像。
撮影:吉川慧
(文・吉川慧)