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大学時代に3.11を経験。被災地インターンで持ち帰った悔しさと心の財産【R65・山本遼3】

R65社長_山本遼

撮影:伊藤圭

インタビューを通じて、山本遼(32)の心の奥深くにしまってある2つの原風景に触れた。

一つは、山本の地元・広島の「おばあちゃんの背筋」。もう一つは、被災地の陸前高田のボランティアで出会った地場中小企業の若手経営者が「地域のミライのためにできることを考えて働く姿」だ。

この2つこそが、彼を真に社会起業家たらしめ、事業を持続させている原動力だと感じている。

背筋を伸ばし薬局切り盛りした祖母

薬の袋のイメージ写真

薬剤師だった山本の祖母は、76歳まで薬局の店頭に立った。その後ろ姿に、山本は強く影響を受けている。

umaruchan4678/ShutterStcok

山本は、瀬戸内海の沿岸部に位置する広島県福山市に生まれる。産業用ロボットを製作する仕事に就く父の影響もあり、山本は幼い頃からものづくりが大好きだった。

小中高時代は大人しく、昔の学友には「山本君が起業するとは思わなかった」と言われるくらいだという。学生時代は『ハリーポッター』と、あさのあつこの『バッテリー』を愛読していた。

山本は今、「R65不動産」の賃貸住宅仲介事業を通じて、誰もが高齢期になっても暮らしの選択肢が狭まらないよう、住宅の分野における社会貢献を実践しているが、高齢期の生き方を考えるきっかけをくれたのは、祖母だった。

祖母は薬剤師で、薬学部を首席で卒業した経歴を持つ。祖父が継いで3代続く薬局を、祖母が切り盛りし、自ら薬局の店頭に立ち、76歳までカクシャクとして働き続けた。

長年がんを患っていたが、働く祖母はいつも背筋がピンと伸びていて、職業人としてのプライドを感じさせた。薬一つを手渡すにも、祖母はいつも店を訪れる地元の人と和やかな会話を交わしていて、仕事を通じてコミュニケーションを楽しんでいるように見えた。祖母は病が重くなってからは自分で身辺整理をし、78歳で旅立った。

80代目前まで働き続け、最後まで自分らしく暮らす祖母の生き方を、山本は20代半ばで目の当たりにした。それからは高齢者を見る社会の視線に疑問を感じるようになったという。

祖母の姿に重ねていたのは、山本が小学生時代に介護施設で見たお年寄りの風景だ。山本は夏休みになると毎年、介護士である母が副施設長を務める介護施設にボランティアに出かけており、その施設では皆が車いすに座り、介助を受けながら生活していた。

「母が働く高齢者施設で触れ合った70代、80代のお年寄りは、僕のおばあちゃんとは暮らしぶりが全く違った。世の中では、高齢者イコール『介護施設で暮らす、支援される人』というイメージが強い。

けれど、僕は死ぬ間際まで自立して自分らしく暮らす祖母のような生き方もあることを知った。高齢期の生き方って、実はいろいろなんだなと、ふと思ったんです」

3.11受け被災地へ。非力な自分に落胆

被災地のお祭りで調理をする山本遼

被災地である岩手の陸前高田市で、ボランティア活動に励む山本。

提供:R65

進学先の愛媛大学では、工学部機能材料工学科を専攻した。ものづくり以外にも、持ち前の探求心を発動させた。

2010年、大学3年生の夏に、山本は日本の学生代表の一人としてオーストラリアで開催されたリーダーシップの国際学会に参加。積極的に自分の意見を話す海外の学生たちの熱量に触れ、圧倒された。帰国後は自国の社会問題を語れるようにと書物を読み漁り、「行動して社会に何らかの貢献がしたい」という気持ちを募らせていた。

そんな折、年をまたいで2011年3月に、東日本大震災が起こった。山本は、地震発生の5日後には愛媛で募金活動を開始。その4カ月後には、内閣府のプログラムを通して被災地である岩手の陸前高田市にボランティアに飛んだ。現地の食品卸と建設会社のインターンとして、2週間滞在したのだ。

世話になった会社の社長は、両社とも30代前半。親を亡くしたり、店舗や機材が流されたりと、厳しい境遇にあったが、地元の人たちみんなが被災しているのも現実だった。彼らは黙々と地域のため、従業員のために身を尽くし、「これが自分のためだったら頑張れなかった。自分らが頑張ることで産業が復活し、地域が再興できるのならば本望」だと話していた。

いつも「ミライのためにできること」を考え、働く彼らが、山本には眩しく見えた。

「ああ、こういう一同無心で結集するパワーが社会をつくっていくんだな」

現場で見た光景は、今も山本の心の財産として胸に残っている。

同時に、悔しさも味わった。自分は泥かき一つでも、出来ることはほんの僅か。「役立ちたい」と息巻いて愛媛から駆けつけたのに、非力な自分の姿に落ち込んだ。

「僕は何もできなかった。また来たいし、移住したいぐらいです」

と伝えた山本に対し、二人の社長は温かなエールを送った。

「力を発揮するのは、別にここじゃなくても、今じゃなくてもいい。お前はお前が頑張りたいと思うステージができたら、そこで頑張れよ」

新卒で中堅の不動産会社に入社

不動産会社で働いていた頃の山本遼

愛媛大学卒業後は、同県を本拠地とする不動産会社に就職した山本。しかし、入社直後は「散々だった」と語る。

提供:R65

山本は被災地ボランティアの経験から、大学卒業後、すぐにでも社会貢献を軸とする仕事をしたかった。

だが、実態としてはジリ貧のNPO活動も多いことを知り、まずは事業経験を積もうと企業への就職を選択。愛媛県内を本拠地とする、社員が120人ほどの不動産会社に入社した。別の業界の大企業からも内定をもらっていたが、「中堅企業ならではの小回りの利きやすさ」と「人と関われる仕事」が魅力に映り、あえてその会社を選んだ。

いざ就職してみると、上司からは叱られ、先輩からは「お前、向いてないな」と指摘され、意気消沈。今まで学生時代に活動してきたことは無駄だったのか……とまで思い詰めた。山本は、こう振り返る。

「学生時代の僕は、『社会問題に関心を持つ、行動力のある学生』とチヤホヤされて、いい気になっていたんでしょうね。なのに会社では、請求書一つ作っても間違いを指摘される。電話を取ってもメモを書き忘れる。散々でした」

やがて、山本が配属された支店に新しい店長がやってきた。直属の上司になったその人は、山本の小さな失敗は見逃して、伸ばす視点で関わってくれた。入社一年目の期末には、山本は社内でトップセールスを売り上げ、自信を取り戻した。

社会貢献活動でも事業を回せる!

入社2年目に、R65不動産の前身のような事業を着想し、NPOを作りかけたことがある。県内の留学生が部屋を借りられない実態を知ったのだ。彼らのほとんどが一人で日本に勉強しにきていて、日本で部屋を探そうにも、連帯保証人になってくれる人がいない。

「せっかく日本に学びにきてくれたのに、住むこともできないのはおかしい」と山本は母校の愛媛大学で先生たちと話し合った。すると、「大学側が保証人になってもいい」と理解を示す教員が現れた。

山本は大家にも話をつけて、留学生が来日したらすぐに家があるという状態を作ろうと社内で提案を持ちかけた。その提案は通らなかったため、自力でNPO化を目指した。そんな矢先に山本の東京転勤が決まった。

R65社長_山本遼

撮影:伊藤圭

「結局NPOの構想は、親しい友人に委ねてしまったのですが、この時思ったのは、不動産の持つ力は大きいということ。住まいは、生きることに直結するんだということです。

住まいを整える事業は、やりようによっては社会貢献活動としても展開できる。同時に、ちゃんと事業としても回せるんだ!と」

この気付きは、後に山本がR65不動産を興す上で、大きなヒントになった。

(敬称略・明日に続く)

(文・古川雅子、写真・伊藤圭)

古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に、『「気づき」のがん患者学』(NHK出版新書)がある。

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