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ジャスティン(仮名)は某社のリクルーター。新型コロナのパンデミックの只中だった頃は1日10〜12時間働いていたが、その後労働時間を減らそうと決意。今年2月に取材したときには1週間の労働時間を40時間まで減らしていたが、そこからさらに少しずつ仕事を減らしていき一時期は週30時間ほどだった。労働時間を減らした分は、妻と生まれたばかりの子どもと過ごす時間に充てることにした。
ジャスティンのような働き方は「静かな退職(Quiet Quitting)」と呼ばれてアメリカではまたたく間にバズワードとなり、賛否両論を巻き起こした。ワークライフバランスをとるのは当然だという声もあれば、そんな怠けた態度で給料をもらうなんてズルいと非難する声もある。
しかし、アメリカで「静かな退職」をめぐる議論が盛んに交わされているさなか、ジャスティンはすでにギアを入れ替えていた。
夏に景気後退が囁かれ始めた頃、ジャスティンはクライアントが採用計画を縮小していることに気づいた。業績評価も厳しくなっており、同僚も何人か解雇を告げられた。
「それで不安になったんです。うちの家族では僕が唯一の稼ぎ手ですし」(ジャスティン)
そこでもうちょっと安全なやり方をしようと考えを改め、今では週に50時間、つまり当初の水準に戻して働いている。
アメリカの雇用市場は依然として堅調だ。しかし2022年3月に過去最高だった求人は15%減少しており、「大退職(Great Resignation)」の熱狂が沈静化しつつあることは間違いない。この1年間はすぐに辞めてしまう労働者に振り回されてきた雇用主が、再び優位な立場になりつつある。
メディアの見出しには「レイオフ」「昇給制限」「生産性の監視強化」といったキーワードが目立つようになり、労働者も変化を感じ取っている。ジャスティンのように、賢い人は変化を感じ取って行動を変えている。
「静かな退職」という言葉の生みの親であるキャリアコーチのブライアン・クリーリーはこう語っている。
「2023年は難しい年になるかもしれません。私なら、静かに退職して、デスクの上に足を乗っけて『これで大丈夫』とは思わないですね。会社を辞めるつもりがないなら、いま労働時間を減らすのはやめたほうがいい」
もっと働かざるをえない
ハッスルカルチャーが経済的に不安な時代に生まれたことを考えれば、その反動で広がった「静かな退職」が労働市場の変化に敏感であってもなんら不思議ではない。
1980年代はグローバリゼーションの進展とM&Aの波により、ホワイトカラーの解雇が相次いだ。戦後約束されていた安定した終身雇用の時代は終わりを告げたのだ。カリフォルニア大学サンディエゴ校で社会学を教えるメアリー・ブレア・ロイ教授は次のように話す。
「このとき雇用不安を経験して、もっと努力しなければ、会社にとってなくてはならない存在にならなければと多くの人が感じるようになったのです」
筆者を含むミレニアル世代は、大不況の最中に社会に出たこともあって猛烈に仕事に打ち込んだ。たとえ給料が働きに見合う額より低かろうが、自分のスペックに見合わない仕事内容だろうが、仕事があることに感謝した。自分の後ろに控える何百万という就職希望者と取り替えられないよう、夜も週末も働いた。
さらに悪いことに、私たちはてっきり自分が過剰な労働を望んでいるのだと思い込んでいた。長時間労働をするのは必要だからではなく、情熱があるからだ。自分たちは世界を変えようとしているのだから、死ぬほど働けばいいのだ、と。
しかしパンデミックのような大きな出来事があって、考えが変わった。仕事を人生の中心に据えるのをやめたらどう変わるのだろう、と想像するようになったのだ。
アメリカでは2021年春に労働市場が過熱し、労働者は解放的な新しい働き方を実践する機会を得た。それまで企業は、求職者を引きつけ、既存の社員を引き留めることに躍起になっていたのに、突如としてワークライフバランスを謳うようになり、有給休暇やフレキシブルな働き方を社員に提供するようになった。スーザン、あなた疲れてるみたい。メンタルヘルス休暇を取りなさい、と。
また、企業は仕事ができない従業員も抱え続けるようになった。ガートナーの人事リサーチ担当のブライアン・クロップによれば、業績が思わしくない者が解雇される割合は通常5%であるのに対し、2021年末の時点で複数の人事担当マネジャーが「2%未満にする」と報告している。全米の解雇率は20年来の低水準となった。
今年2月にジャスティンを取材した際、彼は多くの従業員が雇用の安定を感じていると自信をにじませていた。
「ほどほどに働く社員でも企業は手放さないから、僕がクビになることはないと思いますよ。新しい人を見つけて教育するには何カ月もかかる。僕が辞めることによって生産性がゼロになるよりは、僕の生産性が多少落ちる程度のほうが会社にとってもマシですから」
こうやって損得計算をしたうえで、社員は同じ給料をもらいつつ仕事を減らすようになったわけだ。
「熱量を上げる」
だが、昨今の状況は様変わりしたようだ。
例えばメタ(Meta)でいま何が起こっているかを考えてみよう。メタの経営陣は社員の15%に「要改善」の評価をつけるよう指示した。CEOのマーク・ザッカーバーグは業績目標の「熱量を上げ」、その基準を満たせない従業員には去ってもらうと従業員に伝えたという。
「皆さんの中には、ここは自分には合わないと判断する人もいるかもしれません。そのような自己選択もあっていいのです」(ザッカーバーグ)
同じようなことは、ハイテク業界の各所で起こっている。スナップ(Snap)では従業員の10%以上に「業績改善が必要」との評価を下すよう指示が出され、その数週間後にフルタイムスタッフが20%解雇された。グーグル(Google)でも、社員数が増えるにつれて会社のスピードが遅くなったとCEOのサンダー・ピチャイが不満を漏らし、8月に数百人の社員を解雇した。
全米の失業率は3.5%と1969年以来の低水準だが、これは長くは続かないだろう。ブルームバーグのエコノミストは、今後12カ月以内に景気後退に陥る確率は100%と予測している。
もう、従業員を会社に留まらせようと必死の雇用主から高額の給与を提示してもらえる時代は終わった。自分たちに分があると判断した企業は、リモートワークを取り締まるようになった。出張費を削減し、忘年会を縮小し、メンタルヘルス休暇もひっそりと終了させようとしている。
ハッスルカルチャーには戻らない
ただ、「大退職」が昔からある「ただの退職」に変わったとしても、「ハッスルカルチャー」が復活することはないと私は思う。
アメリカ人の仕事中毒は、単に仕事にかける時間の問題ではなく、キャリアに人生の意味と自分のアイデンティティを求めるものだった。しかし何百万人ものアメリカ人が、ハッスルカルチャーの束縛から一時的に解放され、自分の生活を見直す方法を垣間見ることになった。
コンサルティング会社、カルチャー・パートナーズ(Culture Partners)の職場文化チーフサイエンティストであるジェシカ・クリーゲルは次のように話す。
「ひとたび見直したものを忘れることは、もうできないでしょう。パンデミック以前の働き方に戻ることは絶対にありません」
ジャスティンにしてもそうだ。週50時間労働に戻ったとはいえ、仕事に対する彼の考え方は様変わりし、コロナ前に戻ることはない。彼は友人と会っても、もう仕事の話はしない。社内ランキングの上位に自分がいることを確認するのもやめた。あくせく働き、忙しさ自慢をするのが好きだった昔の自分を、ジャスティンは自嘲する。新しいジャスティンは、会社のために多くの時間を使ったとしても、魂まで捨てることはなくなった。
経済が回復したら、ジャスティンはまた惰性モードに戻って働くつもりだ。週50時間労働は嫌なのだ。妻や娘と一緒に過ごした朝の時間、水泳教室、昼下がりの散歩。大切な時間を逃しているのは分かっている。そんな彼にとって、景気回復はもうしばらく先だ。
「自分のアイデンティティや人生が、仕事に縛られすぎていたことに気づいたんです。たとえ労働時間がまた増えたとしても、以前のような気持ちにはもうなりません。こういう教訓を得て、目を覚ませたのはよかったです」
[原文:RIP, quiet quitting — layoff fears have workers back to the grind]
(編集・常盤亜由子)