「雪上のF1」と評される冬季パラリンピックのアルペンスキー。トップアスリートの鈴木猛史選手がパラスポーツの道を歩むきっかけは不幸な交通事故だった。彼はいかにして世界レベルのアスリートとなったのか。
Business Insider Japan
冬季パラリンピックの花形競技の一つ、アルペンスキー。時速100キロ超のスピードで雪面を滑る姿は「雪上のF1」と評される。トップアスリートの一人が鈴木猛史(34)だ。人呼んで「回転のスペシャリスト」。2006年トリノ大会から今年の北京大会まで、5大会に連続出場。これまでに金メダル1つ、銅メダル2つを獲得した“レジェンド”だ。
パラスポーツの道を歩むきっかけは、小学2年の春に遭った不幸な交通事故だった。彼は、いかにして世界トップレベルのアスリートとなったのか。
東京オリンピック・パラリンピック大会から1年、組織委員会の元理事が受託収賄の疑いで逮捕・起訴される事態に ──。アマチュアスポーツの理想とは何か、いかにして挑戦者としてのモチベーションを保ち続けるのか。その精神に触れるべく、パラリンピアンを訪ねた。
小学2年で両足を切断…交通事故が人生を変えた
幼稚園に通っていた頃の鈴木選手。
提供:鈴木猛史選手
幼い頃の鈴木は活発で、走ることが大好きな子どもだった。
「水泳とスキーを少しだけ習っていました。地元の福島・猪苗代町は雪の多い地域だったので、学校でも必ずスキー教室があった。僕も父の知り合いに教えてもらっていました」
そんな鈴木の人生を変えたのが小学2年生の春だった。交通事故に遭い、両足の太ももから下を切断した。半年間の入院を経て、車いすでの生活を余儀なくされたが、 友人との交流が前を向くきっかけになったという。
「事故の後も、元々通っていた小学校に通学できたことが大きかったかもしれません。友達もいままで通り迎えてくれて、時には僕が乗っていた車いすを触って触れ合ったり、壁を作ることなく接してくれました」
両親もあえて息子を特別扱いせず、事故に遭う前と同じように色々な所に連れていってくれた。
「障害者も工夫をすれば何でもできることを両親や先生、友達から教えられた。だからこそ、いろいろなことに挑戦できるようになったと思います」
「友達とスキーを……」母が誘ったチェアスキーとの出会い
チェアスキーをはじめた頃の鈴木選手。
提供:鈴木猛史選手
入院とリハビリを経て、事故から1年が経った小学3年のある日だった。チェアスキーという存在を知った。当時をこう振り返る。
「学校のスキー教室で僕にも何かできるものはないかと両親が探していた中、母が義足の製作会社の方に『チェアスキー』を教えてもらったんですね」
「椅子に取り付けた1本のスキーで滑るわけですからね。はじめは怖かったのですが、『これならチャレンジしてみたいな』と思ったのが始めたきっかけです」
ただ、困難も多かった。例えば、道具をスキー場まで運ぶには人の助けがいる。チェアスキーに乗るのも、滑るまでのセッティングも一苦労だ。当時のスキー場はバリアフリーの設備が整っておらず、リフトにすら乗れなかったという。
それでも、友達と一緒にスキーをさせてあげたいと、母はゲレンデの途中までチェアスキーに乗った鈴木を押してくれた。
「転びながらですが、なんとか下まで滑ることができた。本当に楽しかったですね。友達と同じ空間でスキーを楽しめた喜びは今も忘れられない」
「友達と同じスキー場にいることができて、お昼にカレーライスを一緒に食べられたことがとっても嬉しかったです」
1998年、小学4年の冬。長野で開かれたパラリンピック。アルペンスキーの座って滑るクラスで志鷹昌浩選手と大日方邦子選手が金メダルに輝いた。その勇姿を、鈴木もテレビで目撃していた。
「ふたりが金メダルをかけて表彰台に立っている姿を見て、『あぁ、僕も欲しいなぁ……』と。あの時でした、初めてパラリンピックを意識したのは……」
用具一式で100万円、時に感じた“後ろめたさ”
チェアスキーにはとにかくお金がかかる。鈴木選手は「僕ばかりにお金を使う訳にはいかないよと、後ろめたい気持ちもありましたね」と昔を振り返る。
提供:鈴木猛史選手
パラアスリートの道を本気で考えるようになった鈴木は、まず福島県の県障害者スキー協会に入った。
パラアルペンスキーのクラスは男女別で「立位」「座位」「視覚障害」の3つがあり、鈴木は座って滑るクラス「座位」の選手だ。
椅子にスキー板を取り付けたもの「チェアスキー」と、小さなスキー板が先端に付いた「アウトリガー」と呼ばれる2本のストックを巧みに操り、雪面を滑る。
コースに設置された赤と青の旗を交互に倒しながら滑降するが、旗の間隔が狭いため、素早く正確なターンの技術が必要とされる。
シーズン中の土日は練習に励み、協会が主催するイベントにも積極的に参加し、実戦経験を積んだ。
攻略のポイントは「勢いとノリ。いかにリズミカルに滑れるかだ」と鈴木は話す。
「細かい動きが求められるので、滑る前の下見の時に『どういうリズムで滑ろうか』とイメージします。滑るリズムに合わせた音楽を聞いていました」
「ガンダムが好きなので、今でも主題歌やサウンドトラックをよく聞きますね。上手く滑ることができるイメージも浮かぶんです」
みるみる実力をつけ、中学3年で世界選手権に初出場。ただ、当初は出場を断っていたと明かす。
「日本と比べると海外のコースは雪が硬いんですね。傾斜が急な所もあるので、正直言うと怖かったんです」
「それに、僕には妹が二人いる。僕ばかりにお金を使う訳にはいかないよと、後ろめたい気持ちもありましたね」
インタビューに応じる鈴木選手。
提供:鈴木猛史選手
チェアスキーにはとにかくお金がかかる。スキー用具一式で当時は100万円近い金額だった。遠征費もほぼ自腹だ。チェアスキーはスポーツ用具になるため、自治体などからの補助金はない。
鈴木は今でこそ用具メーカーなどからのサポートが受けられるようになったが、当時は交通事故の時におりた保険金で費用を賄っていたという。
「海外遠征には飛行機で行くことになりますが、チェアスキーの道具を荷物として預けると別料金がかかります。オーバーチャージが高額で、スーツケースだと8個分位になるんです。宿泊費も入れたら1回の遠征で70~80万円位はかかることもありました」
それでも周囲の説得や支援もあり世界選手権へ。渋々の参加ではあったが、世界レベルの選手と戦った経験は大きな学びになったという。
「日本が小さいという訳ではないですが、もっと早く滑る選手を目の当たりにして世界が広がりました。海外のスキー場のレベルを知ることができたのも良かったです。『こんな怖いところを滑るのか』と体感できたことは大きかった」
世界を相手にした初戦で鈴木は3位に入り、表彰台に上った。もっと世界に目を向けていこうという気持ちが明確になった。
パラ初出場は「4年に一度のプレッシャー」に飲み込まれた
2006年、トリノ・パラリンピックにて
提供:鈴木猛史選手
長野パラリンピックをテレビで目撃してから8年 ──。高校3年になった鈴木は、2006年にイタリア・トリノへ。パラリンピック初出場を果たした。
ワールドカップで優秀な成績を残していたこともあり、「パラリンピックも雰囲気はさほど変わらないだろう」と高をくくっていた自分がいたという。
だが、それは選手村に入った瞬間に間違いだったと気づいた。
「選手村に入った瞬間、雰囲気がガラッと変わるんです。パラリンピック独特の空気があり、一気に緊張しましたね。『やばい。これが4年に一度のプレッシャーなのか…』と」
なんとか緊張を打ち消そうとした。本番のコース環境に近いゲレンデでレース直前まで練習を重ねた。その成果もあったのか、最初の種目だった「滑降」では4位に入賞。
結果にほっとした。ところが、次の瞬間、身体に強烈な寒気が襲ってきた。無理が祟ったのか、40度の高熱を出してしまった。次のレースは欠場せざるを得なくなった。
「今だから言えますが、正直、(パラリンピックを)舐めていたのだと思います……。プレッシャーに負けてしまった苦い思い出です」
「ただ、どうすれば緊張をなるべく緩和できるのかを考えられるようになった。この失敗経験は大きかったと今では思います」
失敗の中で、よき指導者にも出会った。トリノ大会から1980年代にオリンピック日本代表のアルペンチームで監督を努めた故・松井貞彦さんが監督に就任したことだ。
「健常者にはオールラウンダーが非常に少ない。回転と滑降では滑り方が全く違うからです。でも、僕たちが乗っているチェアスキーでは乗り方を変える必要がない。それが松井さんの教えでした」
「『健常者ができないことをやろう』『君たちならできる』と。この松井さんの教えをきっかけに、全種目に出るようになりました」
大学時代は「自らの不甲斐なさ」を糧にパラ銅メダルに
大学時代、富士山にて。
提供:鈴木猛史選手
その後、進学した大学では人生初の寮生活を経験した。
親の目がない、人生初の自由な生活。一方で食生活が乱れ、体重は入学時より10キロも増えたという。
「寮での食事はどうしても脂っこいものが多くなるんです。加えて、夜遅くゲームをしたり。お腹も減って、夜中にカップラーメンやお菓子を食べたり……。こんな生活を続けていたら簡単に太っちゃいますよね(笑)」
そんなコンディションでは大会でも思うように身体が動かずコースアウト。国内大会でゴールにすら届かなかった現実。自分の不甲斐なさに、思わずゲレンデで泣いてしまった。
「親に高い入学金や授業料を出してもらったのに、僕は太るために大学に行ったのか。いや、そうではないだろうと。そこから気持ちを入れ替えて、食事にも気を付けるようになりました」
提供:鈴木猛史選手
悔しさを糧に、2010年にはパラリンピックのバンクーバー大会へ出場。大回転で初の銅メダルに輝いた。
「あの日は雨の中のレースでした。ゴーグルに雨が入って曇るし、過酷な環境だった。でも、ゴールさえできたらメダルに届きそうだった。スタートしてから滑っている最中はとにかく無我夢中で……。手応えはそんなに感じていませんでした」
両脚を失ってから17年、母にかけてあげた金メダル
2014年、ソチ・パラリンピックでの鈴木選手。
REUTERS/Christian Hartmann
初めて銅メダルを獲得してから4年後、さらに経験を積んだ鈴木は2014年のソチパラリンピックに出場。滑降で銅メダル、そして回転で悲願の金メダルを手にした。「回転のスペシャリスト」の努力が、ついに実を結んだ瞬間だった。
金メダルに輝いた決勝レースはどんな心境だったのか。鈴木は改めて「ゾーンに入った時間だった」と語る。
決勝で滑る2回の滑走。1本目の時点で2位につけていた。普段なら、2本目はさらに攻めるか、それとも安定した滑りで2位を守るか葛藤が生じやすいという。
「でも、あの時はそんな葛藤はなかった。観客の声やチームメイトからの無線も自分の耳にはクリアに聞こえていた。とてもリラックスした状態だったんです。冷静な状態で2本目に挑めました」
日本代表では、先に滑った選手がゴール後にコースの状況を次に滑降する選手に無線で伝えている。個人種目であっても、チーム全体でメダル獲得のチャンスを高めようという取り組みだった。
加えて、決勝はナイターレース。暗闇の中に浮かぶコース、照明は自分の姿だけを照らしてくれる。
「なんだか自分だけが主役みたいな雰囲気で、それが心地よい緊張感になって。不思議な感覚でした」
これまで自分を支えてくれた両親もソチで決勝を見守る中、滑走で会心の滑りを見せた。
得意とする回転で掴んだ金メダル。小学2年で両脚を失ってから17年が経っていた。
「表彰式の後、早く両親にメダルをかけてあげたかった。先にどちらにかけてあげようかと迷いましたが、僕を産んでくれて、チェアスキーとの出会いをくれた母にかけてあげました。これでようやく親孝行ができたかなと思いましたね」
金メダル獲得後、母と抱擁を交わした。
提供:鈴木猛史選手
ソチ・パラリンピックにて両親と。
提供:鈴木猛史選手
世界トップの実力者となった鈴木だが、「ゾーン」に入れたのはこの時だけだったと振り返る。
2018年の平昌パラリンピックでは、スーパー複合と大回転で4位入賞を果たすも、メダルには届かなかった。
2018年、平昌パラリンピックでの鈴木選手。
REUTERS/Paul Hanna
試練はなおも続く。大会後、すぐさま肉体改造に取り組んだ。ジムの回数も増やした。「自分をもっと変えていかなければ」。そう思っていた矢先だった。
2019年1月の世界選手権。最終レースをゴールした直後、急に手首が痛み出した。「キーンベック病(月状骨軟化症)」という、手首を支えている骨が折れてしまう病気だった。医師からは、よく手首を使う人がなりやすいと言われた。
「月状骨は血行が悪いところにあり、一旦折れるとなかなか治りにくいとされているようです」
トレーニング中の鈴木選手。
提供:鈴木猛史選手
手術後、リハビリをこなして懸命に復帰を目指すも、予後はあまりよくなかった。およそ半年後、ようやく手首が動くようになり、トレーニングを再開した。
再び世界トップを目指そうと、奮闘する中でのことだった。世界は未曾有のコロナ禍に見舞われた。
“復活”を目指した北京パラリンピックが迫る中、鈴木は経験したことがない不安な日々を過ごすことになる。
【▼後編はこちら】
(取材:丸井汐里・吉川慧、文:丸井汐里、編集:吉川慧)