2006年トリノ大会から2022年北京大会まで5大会に連続出場したパラ・アルペンスキーのトップアスリート、鈴木猛史選手(34)。コロナ禍で挑んだ北京大会の困難さ、2030年の冬季オリ・パラ札幌招致をめぐるアスリートとしての複雑な胸中、パラスポーツの普及にかける思いを聞いた。
Business Insider Japan、REUTERS
東京オリンピック・パラリンピック大会から1年あまり。アスリート・ファーストが叫ばれた大会は、スポンサー企業をめぐる受託収賄の疑いで組織委員会の元理事が逮捕・起訴される事態となった。
オリンピックやパラリンピックは、アスリートが主役となるべき祭典だ。ところが、汚職疑惑や大会費用の膨張など、ともすれば選手たちの努力に水を差す問題が持ち上がっている。アマチュアスポーツの理想とは何かを再確認する時が来ているのかもしれない。
パラリンピックのシンボル「スリーアギトス」が記されたパラリンピック旗。
REUTERS/Issei Kato
パラリンピックのシンボル「スリーアギトス」。
「アギト」はラテン語で「私は動く」という意味。困難に負けず、肉体の限界に挑戦し続けるパラリンピアンの象徴だ。その精神に触れるべく、今回一人のパラリンピアンに話を聞いた。
2006年トリノ大会から今年の北京大会まで5大会に連続出場したパラ・アルペンスキーのトップアスリート鈴木猛史選手(34)。コロナ禍で挑んだ北京大会の困難さ、2030年の冬季オリ・パラ札幌招致をめぐるアスリートとしての複雑な胸中、パラスポーツの普及にかける思いを聞いた。
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コロナ禍で迎えた「北京」までの道
2022年北京パラリンピックで藤原哲選手(右)と。
提供:鈴木猛史選手
「メカニックの担当者と、お互いにゴールで泣きました……」
2022年3月13日。パラリンピック北京大会、アルペンスキー男子回転(座位)。この種目を得意とするパラスキーヤーの鈴木は、2大会ぶりのメダル獲得を目指し、平昌大会後の4年間で研鑽を積んできた。
2006年のトリノから北京まで、これまで5大会連続でパラリンピックに出場。これまでに金1つ、銅2つのメダル獲得している。そんな「回転のスペシャリスト」が北京の雪上で流したのは、嬉し涙ではなく悔し涙だった。
北京パラリンピック、男子スーパー複合(座位)で滑走する鈴木選手(2022年3月7日)。
REUTERS/Gonzalo Fuentes
ふり返れば、北京までの道は極めて険しかった。2018年の平昌大会後にはケガに見舞われ、ようやく復帰し本格的なトレーニングに入った矢先、世界はコロナ禍に。
代表チームでの合宿や練習も思うようにできない。パラリンピック出場のために必要なポイントを獲得するための国際レース自体も開催が減った。
隔離期間が増えることを覚悟で海外に遠征するか、国内に留まって練習を重ねるか。悩んだ末、国内にとどまり、滑走日数を増やすことを選んだ。
大きなビハインドを背負ったが、所属先のメカニックとともに少しでも早く滑れるようにチェアスキーの調整に挑んだ。鈴木の所属は自動車やモーターサイクル用サスペンションの分野で高い技術力を誇るカヤバ株式会社。チェアスキーのパーツも開発している。
メカニックとチェアスキーを調整する鈴木選手。
提供:鈴木猛史選手
日本障害者スキー連盟も、鈴木を献身的にサポートした。月に1度は連盟の用具開発グループとミーティング。求める性能を相談し、出来上がったパーツでテストを重ねた。
合宿や遠征先にもメカニックが帯同。北京大会に向けて、少しでも理想の滑りに近づけるよう、何度も何度も試行錯誤を繰り返した。
パーツの一部をアルミからカーボンに替え、チェアスキーの軽量化も図った。完璧とは言えないが、マイナーチェンジを繰り返し、速度を増すこともできた。鈴木とメカニックチームの理想が一つの形になった。
北京の急斜面に衝撃「こんなところを滑るの…?」
北京の急斜面はデータでは把握していた。ただ、実際のコースは想像以上の難易度だったと鈴木選手は語る。
提供:鈴木猛史選手
迎えた2022年の北京パラリンピック。だが、鈴木たち日本代表の前に立ちはだかったのは、あの急斜面のコースだった。
「正直、初めはビビりましたよ。『おっかないな……』『こんなところを滑るの……?』という感想を持ったのは初めてでした」
急斜面はデータでは把握していた。ただ、実際のコースは想像以上の難易度だった。
「正直、普段練習しているコースは北京のコースほど急斜面がなく、あっても一瞬のため、恐怖を感じることはほとんどありません。そのようなコースでばかり練習していたため、北京は本当に怖かったです」
国内のゲレンデと海外のコースでは斜面のつくりが異なる。特に急斜面だった北京大会のコースとは、まるで事情が違った。国内で北京の環境に似たゲレンデで長期間練習するには費用もかさむ。パラ日本代表にそこまでの資金はなかった。
直前に国内で練習用の急斜面コースを用意してもらったものの、大雪で使えなかったトラブルもあった。
それでも、できる限りのことはやった。ただ、実戦準備が不完全な状態での北京入りだったのは確かだ。こうなれば今まで培ってきた経験とメカニックが頼りだ。
「特に悩んだのが、コースから受ける衝撃をどうするかでした。ダンパー(雪面からの衝撃を吸収するサスペンションの部品)の動きをどう設定すればいいか。メカニックの担当者と相談し、微調整をしながら競技に臨みました」
難度の高い急斜面。鈴木も滑り方のスタイルを従来とは大きく変えて勝負に挑んだ。
「これまでは手に持ったアウトリガー(先端に小さなスキー板がついたストック)でポールを倒しながら、最短距離を進むスタイルでしたが、北京大会では身体でポールに当たっていく標準的な滑走スタイルも混ぜ、ハイブリッドにしたんです」
「ゴールまで、あと20メートル」の悔しさ
北京パラリンピック、男子回転(座位)で滑走する鈴木選手(2022年3月13日)。
REUTERS/Gonzalo Fuentes
運命の2022年3月13日、男子回転(座位)。ここまでの種目ではいずれも表彰台を逃していたが、やはり得意種目では鈴木の滑りも一味違った。
1回目の滑走では4位。確かな手応えがあった。2回目の滑走。このままいけばメダル圏内だ。そう思われた瞬間だった。ゴール直前でまさかの転倒。
フィニッシュまで、あと20メートルだった。
「メカニックの担当者と、お互いゴールで泣きました……。『(マシンを環境に)合わせられなかった』とメカニックは涙ながらに言ってくれましたが、決して彼が悪いわけではないんです」
「ずっとずっと一生懸命やってくれていたのに、それに応えられなかった。それがすごく悔しかった。仲間に、家族にメダルを見せられなかった。とにかく厳しい大会でした」
決断した「現役続行」
「妻と息子にメダルをもらった姿を見せてあげたい。それが一番のモチベーションです」
撮影:吉川慧
2022年8月6日、鈴木の姿は故郷の福島・猪苗代町にあった。町長への表敬訪問に際し、2026年にイタリアのミラノとコルティナダンペッツォで開かれる冬季パラリンピックを目指すため現役続行を表明した。実現すれば6大会連続の出場となる。
「中途半端になってしまった肉体改造を、もう一度きちっとやりたいという思いがあります。北京で滑りのスタイルを変えたことで、いろいろ知ることもできた。身体が速い時もあれば、手でポールを倒すほうが速い時もあった。今後も両方対応できるように研鑽を続けていこうと思っています」
撮影:吉川慧
パラリンピックのアルペンスキー選手は、膝を使わないことから、健常者と比べ現役生活が長くなることが多い。競技人生が長くなればなるほど、モチベーションの維持に苦労する選手も多いというが、鈴木はどうだろうか。
「息子からは『メダル取れなかったね、残念だったね……』と言われまして……(笑)。妻と息子にメダルをもらった姿を見せてあげたい。それが一番のモチベーションです」
4年後に向けて、チェアスキーのマシンやパーツも新しいものを試したいという。「次こそはメダルを」と意気込みを見せる。
「札幌招致」めぐり複雑な心境も
2021年の東京パラリンピックではブラインドサッカーなどパラスポーツに注目が集まった。
REUTERS
昨年の東京オリンピック・パラリンピックから1年あまり。特にパラリンピックではブラインドサッカーなどのパラスポーツに注目が集まった。その半年後に開かれた北京大会でも、これまで以上にパラスポーツへの関心が高まっていると鈴木は感じていた。
2030年の冬季オリンピック・パラリンピックをめぐっては札幌市が招致を目指している。実現すれば長野大会以来、実に32年ぶり。パラスポーツの認知度向上につながることも期待される。
だが、東京大会の汚職疑惑の影響もあり、世論の風当たりはとても厳しい。鈴木もアスリートとして複雑な胸中を語る。
「一人のアスリートとしては、もちろん札幌で(チェアスキーを)滑れたら嬉しいです。ただ、東京大会をめぐっては招致・開催をめぐって費用がかさんだことが問題になり、収賄問題も持ち上がった。(札幌招致は)やらない方がいいんじゃないか……とさえ思うこともあります。アスリートとしては複雑な心境です」
「もし札幌に招致するのであれば、国民の皆さんに『いいね!やろうよ!』『札幌が選んでもらえてよかった』と納得してもらえる環境をきちんと用意できるか。それが大事だと思います」
傷だらけのメダルが私たちに伝えること
2014年ソチ大会の金メダル。学校講演に持参し、子どもたちに触れてもらうようにしている。
撮影:吉川慧
北京大会の後、日本代表チームにも大きな動きがあった。鈴木の先輩にあたる狩野亮選手が第一線から退く意向を示した。
鈴木自身も今後は若手の育成にも注力していきたいと語る。
「まだ強化指定選手にはなっていませんが、山梨の高校生で頑張っている選手がいるんです。よくチェアスキーの世界に来てくれたなと嬉しくて……。優しく、大切に育てていきたいと思っています」
「ここで僕たち世代が一気に引退してしまうと、若手選手への技術継承が途絶えてしまう。みんなを引っ張れる選手がいないとチームの体制も厳しいと思う。まずは次のイタリアにみんなで行けるように頑張りたいですね」
パラスポーツにより興味を持ってもらえるよう、アスリートも自ら動かなければいけないとも話す。
幼少期の交通事故で両脚を失い、その後パラリンピックのアスリートとなった鈴木。少しでもパラスポーツの存在を知ってもらえればと、自身の体験を各地の学校で講演している。
2014年ソチ大会の金メダルと2010年バンクーバー大会の銅メダル。
撮影:吉川慧
講演には実物の金メダルと銅メダルを持参し、子どもたちに触れてもらうようにしている。
「本物の“メダル”に触れてもらうことで、少しでもパラリンピックやパラスポーツに興味を持ってもらえるかもしれないから……」
いまでは傷だらけになったメダル。だが、それは鈴木がパラスポーツのことを知ってほしいと取り組んできた努力の証だ。
「パラスポーツは『障害者のスポーツだから……』『リハビリみたいなものでしょ』という感覚を抱かれやすいですが、みなが己の肉体の限界に挑んでいます。パラスポーツを、きちんとスポーツとして認知してもらえるよう努力しないといけません」
パラリンピックのメダルには「スリーアギトス」が刻まれている。
撮影:吉川慧
パラリンピックのシンボル「スリーアギトス」。「アギト」はラテン語で「私は動く」という意味だ。それは、困難に負けず、肉体の限界に挑戦し続けるパラリンピアンの象徴とされている。
「己の限界に挑み、スポーツと向き合う姿を『見てもらおう』ではなく、皆さんに『見たい」と思ってもらえるように……。今回のインタビューをきっかけに、ぜひ興味をもっていただけたら嬉しいです」
(取材:丸井汐里・吉川慧、文:丸井汐里、編集:吉川慧)
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