撮影:伊藤圭
世界初の「持ち運べる水再生処理プラント」を実現したスタートアップ「WOTA(ウォータ)」は、「水問題を構造からとらえ、解決に挑む」をパーパスに掲げる。
同社代表取締役CEOの前田瑶介(30)は、すでに学生時代から水インフラの課題に関心を抱いてきた。「蛇口をひねれば水が飲める」という意識が強い日本において、なぜ水資源の課題に気付いたのか。
その要因として、前田は自身の原点とも言える「そもそも上下水道がなかった」故郷の環境を挙げた。
通学に往復数時間の環境
前田が生まれ育った地域では、上下水道がある環境は当たり前ではなかった(写真はイメージです)。
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前田は1992年、自然豊かな徳島県西部に生まれた。上下水道の普及していない地域が多く、ほとんどの集落では近くの湧水からポンプで水を汲み、ホースを家に引き込んで水を利用していた。
徳島県は47都道府県の中でも最も下水道の普及率が低く、汚水や排水は微生物の働きなどで浄化する「合併浄化槽」を各家庭が設置し、自前で処理する暮らしだった。
その中でも前田の生家は汲み取り式便所、いわゆる「ボットン便所」であり、そこで回収したし尿を肥溜めに蓄え、液肥を肥料として活用していたそうだ。
「家屋の屋根が茅葺きからトタンに塗り変わっていくとか、水道や下水道が敷かれていくとか。そういうことを地域の発展度の象徴として捉える雰囲気が周りにあって、四六時中大人たちもそういうことを話していた。
子ども心にも、インフラなるものへの興味関心というのは少なくとも都会の人よりは喚起されるような環境でした」
父は高校教師で、教育方針として家にテレビ・ラジオは置いておらず、マスメディアの情報からは隔絶されていた。そのため、外部との接点は、読書とインターネットのみ。父は、初期のインターネットやマッキントッシュに傾倒しており、その影響を受けた。「家にはインターネットだけがあった」(前田)という。
前田は誰に言われるでもなく、肥溜めの中に入ったし尿が、土壌菌などの作用で徐々に透明度を増していき液肥に変わっていくプロセスを見ながら、科学的な現象への関心を深めていった。また、小学校2年生にして生家の本棚にあったハイデガーの哲学書を読んでいたというから、ずいぶん幼い頃から気付きや学びを習慣化していたと言える。
「田舎で、子どもながら孤独慣れしていたんだと思います。学校への登校が子どもの足で往復数時間、膨大な『ひとり時間』があったわけで。ただ、ものを考える環境としては非常に恵まれていました」
登下校中に目にする山林の木が一本倒れれば、そこに光が差し、生える苔の生え方に微妙な変化が生じる様を発見する。色とりどりの野鳥も飛来する環境で、その生態に目を奪われる。
観察眼が磨かれ、次第に自然科学、中でも生物学に興味が芽生える。小1から夏休みの自由研究は「根を詰めて」取り組んでいたという。その際は、母や学校の先生が見守りながらサポートしていた。
直接聞いたアル・ゴアのスピーチ
ドキュメンタリー映画『不都合な真実』で知られるアル・ゴア元副大統領のスピーチを少年時代に聞いたことが、前田を環境問題に向かわせた(写真は2022年のCOP27に登壇したアルゴア氏)。
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中2の時に、前田はクモの糸の「引っ張り強度」に関心を持った。幼少期にパソコンを与えられて育った前田は、疑問が生じれば臆することなく大学教授などにも質問した。質問を受けた大人たちは歓迎ムードで、若き“研究者”からの問いに対し、真摯に回答や助言を送って来たという。
その時に前田が書いた論文が、2005年、中高生向けの科学コンテストで最優秀賞を受賞した。その特典でアメリカに派遣され、米国立衛生研究所(NIH)で、直にアル・ゴア元副大統領のスピーチを聞く機会に恵まれた。ゴアのメッセージが、前田の心を揺さぶった。
特に前田に響いたのは、「研究者の卵であるあなたたちにとって、環境問題は何より普遍的で人類にもつながるテーマ。単に政治的な問題ではなく、単に科学的な問題でもない。政治や科学といった領域を横断し、人類にとっての問題として考えるべき極めて倫理的なテーマだ。人類が解くべき課題に目を向け、皆が協力して行動していくことは、人類を一つにすることにもつながる」という言葉だった。前田は、こう振り返る。
「私はゴアさんの言葉を聞いて、単に自分自身の知的好奇心のための研究ではなく、環境問題解決のため、地球や社会全体を良くすることに貢献するために研究することに、純粋にワクワクしました。
そして、世界中の知見を持つ人たちとつながって、『環境のこの部分を良くするには、どんな知見が必要か?』と、掘るべきテーマを突き詰めていく人生にしようと。『テーマで人とつながる』というところに惹かれたんだと思います。
ひとり時間で孤独慣れしていた自分は、もう、さすがにいろんな人と繋がりたいと思っていた時期なので」
帰国してすぐに地元で環境問題を探した時に出合ったのが、水問題だった。
隣の香川県にある豊島に深刻な環境問題があることを聞き、東大教授らが開催したワークショップに大学生に混ざって参加。現地を視察し、廃棄物汚染の結果、深刻な水環境汚染が存在していることを知った。
その体験がきっかけとなって水問題に関心を深め、地元の県立高校に進学した際に、納豆から得られる高分子化合物で水質を浄化する研究に取り組んだ。
「水処理に使う凝集剤を家庭で作れないか試みたんです。これが水問題に対する最初の取り組みになりました」
都市インフラに目を向け、建築学を志す
大学受験前、専門分野を決めるために前田は200〜300冊の本を読んだという(写真はイメージです)。
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だが、家庭での水処理をいくら突き詰めても、実際にその技術を社会に実装しようとすると結局は都市をどう設計していくか、というテーマにぶつかった。
理想の都市の実現には、どの専門分野を掘り下げればよいのか。大学を受験する前、学問の絞り込みに注力した。
「必要な専門性をつかむために、ジャンルレスに200〜300冊ぐらいは読みました」
当時、建築家は、ポストモダン建築のあり方、特に20世紀の高度成長の裏側にある環境負荷などの負の遺産に目を向ける本を複数出版していた。
代表的なのは、建築家・隈研吾の『負ける建築』。「建築は、環境や人間のためのものになれているのか?」を鋭く問うた。前田は、この本に大きな影響を受け、都市インフラや衛生工学への関心が高まったという。
「産業革命以降人口が増え、都市が過密になり、公衆衛生が悪化。そんな中、都市づくりはチャレンジと失敗の繰り返しだったと。
私の関心は単体の建物ではなく都市の設計でしたから、世紀をまたぐ建築史から炙り出される失敗も含めて興味がありました」
最終的に、都市の設計もスコープに含む建築学に専攻を絞り、2011年に東京大学工学部の建築学科に進学。当時、隈は同学科で教授を務めており、進学してからは直接指導を受けることができた。
上京翌日に3.11に遭遇
東日本大震災によって福島第一原発事故が起き、ライフラインは危機的な状況に陥った。
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前田は大学の合格発表の日、結果を見るために上京。ところが合格の喜びを味わったのも束の間、翌日に東日本大震災に遭遇する。
断水や停電。ライフラインが大規模に閉ざされ、都市の機能が麻痺する様を目の当たりにする。前田には、ディストピアな風景に映った。
「田舎から出てきた直後の経験としては、あまりに鮮烈でした。何だこれはと。都市には自然と人間の間に、巨大な分厚いブラックボックスがあると感じてしまったんです」
徳島の山間の集落なら、沢からポンプで水を引くというインターフェースがあることを住人の誰もが身体感覚として知っていた。水が来なくなったら、「ポンプが葉っぱで詰まったかもしれない」と、気付いた人が見に行き、手直しすれば、また水は通るようになる。
ところが大都市では、絶たれたライフラインの実態を身体で感じることもできず、どこに手をつければいいかを考える糸口さえ見つからなかった。インターフェースの手触りがないまま、呆然として不自由な状況に身を晒し続けなければならないことに、とてつもなく恐怖を感じたという。この時の経験から、大規模なライフラインを絶対視することに疑問を持つようになった。
都市はどこを目指すべきか——。
「濾過や消毒などの水処理を行う近代的な水道システムが始まったのは数百年前。なのに、いまだ世界には安全な水を手に入れられない人たちがたくさんいる。
莫大なコストをかけて大規模なインフラを敷き続けて、これだけ技術が発達して、なぜ上下水道がなかなか普及しないのか。根本的に違うアプローチが必要ではないかと考えました」
前田は大学に通いながら考え続けるうち、都市インフラは「集中型」から「分散型」へとシフトすべきだと思考が結んだ。
この発想が、今手掛けているWOTAの「小規模分散型」かつ「循環型」の水インフラを生む原動力になった。
(敬称略・明日に続く)
(文・古川雅子、写真・伊藤圭)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に、『「気づき」のがん患者学』(NHK出版新書)がある。