少し前になるが、英フィナンシャル・タイムズは「求人広告が示すユーロ圏の賃金上昇加速(Eurozone wage growth accelerating, job ads show)」と題する記事(11月9日付)で、ユーロ圏諸国の賃金動向を報じた。
ユーロ圏の賃金指数と言えば、欧州中央銀行(ECB)が四半期ごとに一度公表する「妥結賃金(negotiated wage)」がよく知られるが、何しろ数字が出てくるまでに時間がかかるという難点がある。
その点、アイルランド中央銀行と民間研究調査機関のインディード・ハイアリングラボ(Indeed Hiring Lab)がリアルタイム求人情報をもとに共同提供する賃金指数は、月次の動向まで捕捉できる強みがある。
指数を構成するのは6カ国の賃金に限られるものの、ユーロ圏の経済・金融情勢ひいてはECBの政策運営を読む上で大いに役立つ。
最初に触れたフィナンシャル・タイムズ記事には、このアイルランド中銀とインディードのデータを元に、ユーロ圏6カ国とイギリスの名目賃金および消費者物価指数(CPI)の状況を比較したチャートが付されている。
英フィナンシャル・タイムズ(Financial Times)の11月9日付記事。著作権の都合上、記事のイメージを掴むためのカットにとどめる。
Business Insider Japan
ここではそのポイントに触れるに留めておくが、まず何より注目すべきは、ユーロ圏で消費者物価指数(CPI)の伸びに名目賃金の上昇が追いついている国はドイツとフランスくらいということだ。
ドイツでは、10月の消費者物価が前年比10.4%上昇と2ケタに到達しながらも、同月の名目賃金が7.1%上昇と辛うじて食らいついている。それですらインフレに「負けている」状況で、実質所得は悪化している。
一方、アイルランド、イタリア、オランダはいずれも名目賃金の伸び率が前年比プラス4.0%程度とドイツの水準に届かないが、消費者物価の上昇率はドイツ並みの10%近くに達する。
同様の状況に直面する国は他にもユーロ圏内に多くあると推測される。
実際、ユーロ圏19カ国の10月の名目賃金の伸び率は前年比プラス5.2%と、パンデミック前に比べて3倍程度のペースで加速しているものの、同月の消費者物価の上昇率はそれを大きく上回る前年比10.7%で、過去最大の上げ幅を6カ月連続で更新している。
ユーロ圏19カ国の利害調整は「至難の業」
このように、ドイツとフランス以外は賃金の伸びが物価の上昇に追いついていないので、ECBはじめ各国の中央銀行が最も恐れる「賃金・物価スパイラル」(インフレが賃金上昇を加速させ、それによってインフレ率のさらなる上昇に拍車がかかる悪循環)のリスクは低い。
それより、実質所得の悪化を通じて景気が失速し、縮小均衡を経てインフレが鎮圧される展開のほうが可能性が高く感じられる。
もちろん、雇用主と労働者の双方が2ケタのインフレ率を当然視するようになれば、現時点では賃金の伸びが物足りないアイルランドやイタリアなどでも、物価上昇がそのまま名目賃金に上乗せされる展開が想定され、その場合はECBはじめ各国の中央銀行にとってインフレが最大の脅威という状況が続くことになる。
いずれにせよ、厄介なことに、ユーロ圏全体の統計にはドイツ・フランス両大国の影響が反映されやすく、ECBもそれを見て金融政策を検討するため、賃金・物価スパイラルのリスクが高まっているとの懸念を捨てるのはなかなか難しいと思われる。
結果として、大国に合わせた金融政策により、小国がオーバーキルされる(過剰な引き締めにより景気が失速する)可能性がある。
【図表1】を見ると明白なように、ユーロ圏の製造業購買担当者景気指数(PMI)は日米中などと比べて失速感を強めており、実体経済の不調がすでに見て取れる。
【図表1】主要国の製造業購買担当者景気指数(PMI)の推移。コロナ禍で記録した下限はあえて図示していない。
出所:Bloomberg、Markit資料より筆者作成
そのように景気失速の気配が感じられる中でも、前述のようにユーロ圏の消費者物価は10%を超える勢いが続いており、金融引き締めが維持される公算は大きい。そうなれば、小国の不都合は黙殺されることになる。
大小双方の国々が集って政策運営の方針を決定するECBは、果たして足並みを揃えることができるのか。
そもそもにして、不況下で進む物価高、いわゆるスタグフレーションは中央銀行にとって最も対応の難しい局面の一つだが、ECBの場合はその難しさに加えて、19カ国それぞれに異なる不況下の物価高を管理するという最高難度のミッションに挑むことになる。
小国の景気に配慮して緩和色を残しながら、一方で引き締めを通じて執拗なインフレを抑制していくという、複雑な金融政策運営を強いられる可能性が高い。
欧米の中央銀行は目下、不況下の物価高という問題意識を共有しているように見受けられるが、2023年春以降はECBだけがユーロという単一通貨固有の難しさに苦しむ構図も想定される。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
(文・唐鎌大輔)
唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。