人事労務ソフトを提供するユニコーン企業・SmartHRを創業した宮田昇始さんが、同社のCEO退任を発表してから約1年。宮田さんは新たに「Nstock(エヌストック)」社を立ち上げ、株式報酬にまつわるSaaSとフィンテックサービスを準備中だ。
アイデアから創業までわずか4カ月のスピード起業の経緯から、日本のストックオプション(新株予約権、以下SO)の課題、不景気を逆手に取ったSO活用法を聞いた。
Slackの投稿から4カ月で起業へ
Nstock・CEOの宮田昇始さん。株式報酬にまつわるスタートアップを立ち上げ、法改正のためのロビー活動にも励む。
撮影:竹下郁子
「Nstock」はSmartHRの100%子会社だ。創業のきっかけは2021年の9月、SmartHRの社内Slackで「SOの売却などを管理するSaaSも面白いのでは?」という新規事業の提案があったことだ。スレッドは盛り上がり、SOにまつわる困りごとから、それらを解決するSaaSや、そのSaaSを収益化するための金融事業の具体例まで120件以上の返信がついたという。
投稿主は当時のSmartHR執行役員、現Nstockの共同創業者である高橋昌臣さんだ。その後、宮田さんと高橋さんは10月から11月にかけて事業アイデアをブラッシュアップし、12月のSmartHRの取締役会での承認を経て、2022年1月、「Nstock」が誕生した。
従業員向けの株式報酬は年々増えている。
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「僕は21年の夏頃には社長を退任することが決まっていたので、次は何しよっかな、みたいな時期でした。そう、実はやることを決めてから退任したわけじゃないんですよ。一応SmartHR社の取締役ではありますが、このアイデアがなければ“社内ニート”だった可能性もありますね(笑)」(宮田さん)
もともとはSmartHRの新機能としての提案だったが、「一機能として掘るには深すぎる」こと、そして「金融事業もやるなら別会社のほうがメリットが大きい」ことなどから、会社自体を分けることになったという。
退職やM&Aで“紙クズ”にならないSOを
「KIQS」は無償で利用できる。公開初日に約300件のダウンロードがあった。
出典:NstockのHPより
そんなNstock社がサービスの本格展開に先立って最近公開したのが、税制適格SO契約書のひな型「KIQS(キックス)」だ。
(1)IPO(新規株式公開)前に退職しても失効しない(ことが可能)
(2)M&A(合併・買収)されても会社に没収されない(ことが可能)
(3)べスティング(段階的な権利確定)条件が上場日ではなく入社日起点
など、これまでの日本のSOの慣習を覆して問題提起する、かなりメッセージ性の強い内容になっている。
まずは(1)だが、SOを行使するための条件は会社が自由に決めることができ、従業員がIPO前に退職した場合はその権利を失効することが多い。詳しくは過去の記事を参照して欲しいが、この条件のために会社のフェーズに合わない人が上場までとどまったり、採用の競争力が低下したりと、人材の流動性が妨げられているのではないかと宮田さんは指摘する。
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「SmartHR社には750人近い社員がいますが、実は退職後にスタートアップを起業した人は現時点ではゼロなんです。仕事が楽しいと思ってくれていたら嬉しいのですが、“SOの引き止め力”が強すぎているのではないかなとも。SmartHRのSOは初期の頃に僕が知識不足のまま設計したので、退職したら失効してしまうSOのほうが残念ながら多いんです。
やっぱりSOを行使して株に変え、現金化してから辞めたいと思うのが人間でしょう。
もしIPO前に退職しても行使できるSOだったら、SmartHRのようなレイターステージのスタートアップから起業したり、シード・アーリーステージのスタートアップに再び飛び込む人も増えるんじゃないかと思うんです。彼ら彼女らは、急成長スタートアップを経験したいわゆる“2周目の人材”です。スタートアップエコシステムを強くできると考えています」(宮田さん)
VCとの交渉、法律の壁
Nstockには元メルカリの株式報酬責任者がドメインエキスパートとして参加、KIQSの草案も担当している。
撮影:竹下郁子
(2)のM&A時の取り扱いも重要だ。不景気で「スタートアップ冬の時代」とも言われる昨今、上場以外の出口戦略としてM&Aの重要性は増しており、政府も買い手企業となる大企業への税制優遇措置を検討中だ。
しかし自社が買収された場合、SOは会社が従業員から没収する契約になっていることも少なくないのが現状だと宮田さんは言う。従業員にとってつらすぎるこの慣習は、買い手企業への目配せなのだろうか?
「いえ、そんなことはないと思います。SOを行使して株に変えて、買い手企業にその分も買収価格に含めて交渉すればいいだけなので。
基本的には売り手企業の既存株主との問題なんですよね。SOを株に変えると当然、1株あたりの価値が希薄化するので、それをVCに受け入れてもらう調整が必要です」(宮田さん)
こうした条件調整を乗り越えても、法律の壁がある。それが「保管委託義務」だ。
M&A時に税制適格SOをいかすには行使して株に変える必要があるが、未上場のスタートアップがそれを実現するには、リアルな株券を発行し、それらを保管してくれる証券会社を確保する必要がある。仮に100万株のSOを発行していたら、大量の株券を管理する証券会社が必要なのだ。この面倒な作業を引き受けると公にしている証券会社は国内に1社しかなく、これもM&A時にSOを維持できない大きな理由になっている。
税制改正に向けてロビイングも
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「SOにはいろんな課題がありますが、保管委託義務のように僕たちだけでは絶対に解決できない法的な問題も多いんです。なのでロビー活動もめちゃくちゃ頑張ってます」(宮田さん)
スタートアップ支援に力を入れる岸田政権に対し、宮田さんらNstockメンバーは自民党の小委員会や、経済産業省、内閣府などのヒアリングに協力し、問題提起を続けてきた。
こうしたかいあってか、政府が11月28日にまとめた「スタートアップ育成5か年計画」には、SOの環境整備も盛り込まれている。前述の保管委託義務の不要化に加え、もう1つ、宮田さんが大きな課題だと感じている「権利行使期間」の延長も提案された。
「小粒IPO」の一因はSOにアリ
政府はSOが使いやすくなるよう税制改正をする予定だ。行使期間をどのくらい延長するかなど詳細はこれから協議される。
出典:内閣官房「スタートアップ育成5か年計画ロードマップ」
現状の税制適格SOは付与決議日から2年経過後かつ10年以内に行使しないといけないが、これを引き伸ばそうというのだ。
「現状は『10年以内に上場しなさい』と言われているようなものですよね。SmartHR社も来年で創業10年なんですが、大きいサイズでの上場を目指すのに10年は短いというのが実感です。幸い、僕たちの税制適格SOはSmartHR事業を始めた後(2015年以降)に出してるので、時間的な余裕は少々あるものの、社員にSOを行使させてあげないといけないからと上場を急ぐ会社さんは少なくないと思っています。
もしこれを5年伸ばせたら本当に大きい。『小粒IPO』と日本のIPOが揶揄されることもありますが、ここが改善されれば、じっくり粘って時価総額1000億円以上など、もっと大きくなるまで未上場で粘る会社も増えるはずです」(宮田さん)
「べスティング条件」は誰のため
ダウンラウンド上場となる見込みのnoteは2013年に最初のSOを発行しており、その行使期限が迫っていることが、このタイミングで上場する理由ではないかと推測する人も。
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(3)のべスティング条件も、上場までの期間が長期化しサイズも巨大化するスタートアップの流れを想定している。べスティングとは「上場後○年で○%のSOを行使できる」など、SOの権利行使を段階的にしかできないよう制限するものだ。SOを付与された従業員が上場後に短期間で権利行使して退職することがないよう、つまり従業員を一定期間つなぎ止めるための会社の対策とも言える。
しかし、KIQSではこの起点を日本の慣習の「上場」後ではなく、「入社」後にした。上場まで10年以上、その後全てのSOを行使できるまでさらに数年かかるSOは、人材獲得のための競争力になり得ないという考えからだ。
「スタートアップ冬の時代」にSOは魅力か?
一方で気になるのが、景気が冷え込む「スタートアップ冬の時代」にSOは報酬として魅力的なのか?という点だ。東証グロース市場でのダウンラウンド上場が相次いでいる。今後はダウンラウンドでの資金調達も増えるだろう。
未公開株のセカンダリーマーケットが発達しているアメリカでは、昨今の不況で従業員がSOを売却するケースが増えているという報道もある。
GettyImages / Marco Bottigelli
「株価が安いというのを逆手に取って、将来のキャピタルゲインをより大きくすることもできます」
と話す宮田さん。SOの行使価額は基本的に会社の企業価値に連動する。過去に高いバリュエーション、例えば時価総額300億円でSOを発行したが、今年の不景気でダウンラウンドして200億円で調達したとする。その場合は、過去の高い株価(300億円)のSOを取り消し、改めて現在の低い株価(200億円)で発行し直すことができる。
バリュエーションは事業の価値とは関係なく、市況の影響を大きく受けることもある。上場企業が「自社株買い」をして低い株価に抵抗するのと同じく、未上場のスタートアップも現在の市況を利用して対策を練るべきだという。
自社は最大20%まで発行、CEOは0.1%
撮影:竹下郁子
ここまでNstock社のSOについての考えを聞いてきたが、同社が一体どんなSOを発行する予定なのか、気になる向きも多いだろう。
前出のような税制改革(行使期間の延長など)があることを見越して、まだSOは発行していないものの、内容はKIQSを使った税制適格SOと信託型SOを組み合わせた「奇をてらっていない」ものになりそうだという。
株式総数におけるSO比率については、慣習では10%程度がよしとされているが、「事業成長に応じて最大20%まで発行」する予定だ。
宮田さん自身にはSOを付与しないつもりだったが、
「何も持ってないと会社と利害が合わなくなるのでは? と共同創業者の高橋に言われたので(笑)、0.1%ほどは持つつもりです。
僕自身はSmartHR社の株も持っているので、20%の枠は社員の人たちになるべく多く持って欲しい。それに『誰が正しいかよりも、何が正しいか』で判断していける体制を作るためにも、創業者としての持ち株はあまりいらないという考えです」(宮田さん)
SOを「宝くじ」から「報酬」に変える鍵は
Nstockはオウンドメディア「Stock Journal」で株式報酬にまつわる情報発信をしている。創業者の株式売却の体験談は大きな話題を呼んだ。
出典:Stock JournalのHPより
Nstock社は現在、紙、印刷、印鑑、FAX、郵送などDXが遅れている株式報酬の実務をラクにするSaaSを準備中だ。金融事業についても複数を取り扱う予定で検討中で、金融事業こそがNstock社の成長アクセルになるという。
アメリカで類似の株式報酬管理ツールを提供する「Carta」社は、未上場株のセカンダリー取引プラットフォーム(CartaX)も運営している。同国におけるセカンダリー市場は拡大しており、CartaのCEOによると、同社が管理する株式は2.5兆ドル超、セカンダリー取引を通じて130億ドルを個々に還元してきた。
スタートアップが成長するには、セカンダリー市場の拡大も重要だ。CartaはCartaXで自社株を売り出し、直近の資金調達より大幅に評価額を上げることに成功した過去も。
出典:野村総研「スタートアップ調査報告書」(2022年3月)
株式の流動性は組織の流動性だ。日本もSOなどの株式報酬が機能するには、未上場株のセカンダリーマーケットが盛り上がることが期待される。
「日本にも未上場株のセカンダリーマーケットはあったほうがいいと思います。現状は未上場企業の発行済株式は生株を持っている創業メンバーに近い人が、それを既存株主か新規投資家に売るというケースがほとんどです。
これが社員が未上場のままSOを行使して株に変えて売ることができるようになれば、換金性がすごく高くなる。SOを『当たれば大きい宝くじ』のような扱いから、アメリカのようにちゃんとした『報酬』だと思ってもらえるようになるんじゃないかと。
制度や慣習、さらに未上場株のセカンダリーマーケットをやるプレイヤーがいないという問題もあるので、先は長そうですが」(宮田さん)
Nstockが挑む株式報酬改革は、日本のスタートアップ振興の起爆剤となるだろうか。