撮影:伊藤圭
アニメーション監督の見里朝希は、会社員の父親と後にバレエ教師になる母親、姉で女優の瑞穂の4人家族だ。
幼い頃から『ピングー』などのストップモーションアニメに親しんだが、その多くは、ナラティブ(セリフ)がない。そのせいか見里は言葉が出るのが人よりも遅く、就学前に言葉の発達を促すクラスに通ったこともあったという。
「言葉にするのに苦労したからこそ、言葉にできないものをアニメで表現しよう、と考えるようになった面はあります」と振り返る。
「小学校で反抗期がすべて終わった」
小学生時代の見里。
提供:見里朝希
瑞穂は見里を「割とこだわりの強い子だった」と回想する。
「自分の気持ちや意思を言葉にするのが下手でした。『お子様ランチのあのおもちゃが欲しい』とか『いつもの決まった遊具で遊びたい』などの理由で機嫌を損ねては、周囲を困らせていました」
母親は後に「朝希は、小学校卒業までに反抗期がすべて終わった」と話したという。本人にも長い間、話すことに苦手意識があり、小中高を通じて口数の多い方ではなかった。
小学校時代は、絵もよく描いていた。母方の祖母が画家で、折に触れて白紙の本やスケッチブック、クレヨンなどをプレゼントしてくれたこともあり、お絵描きや物語づくりは姉弟にとって常に身近だった。
見里は小1で魚の図鑑を模写し、3年生の時には「カメくんと消しゴムくんの大冒険」というシリーズマンガを描いた。
提供:見里朝希
5年生くらいになると、マンガ好きのクラスメートたちと一緒に「週刊フライデー」なるマンガ雑誌を「創刊」。当時から、動物やキャラクターを登場させた作品が多かった。
「シンプルな形のキャラクターは話を作りやすい、という実際的な理由もありますが、昔から人間よりはデフォルメされたキャラの方が、自分の作品に馴染みやすかった。今もどちらかと言えば、人を描くのは苦手です」
見里が小学5〜6年生の頃に描いたというマンガ。ドラゴンのような生物が主人公の冒険モノだ。
提供:見里朝希
『星のカービィ』や『おくびょうなカーレッジくん』など、子ども時代に好きだったアニメや実家で飼っていたハムスターやインコなどは、その後の見里の「かわいい」観に大きな影響を与えている。
やりたいことが見えない中高時代
高校時代の見里。休日は沖縄の伝統芸能、エイサーの活動に参加していたという。
提供:見里朝希
中学に入ると、見里は絵を描かなくなった。
当時は「オタク」という言葉がはやり始めた頃で、自分もそうだと思われるのが嫌だったからだ。特に「描きたい」と思うこともなく、ゲームなどをして過ごすようになった。瑞穂によると、この頃の見里は「本当に普通の、目立たない大人しい子だった」。
転機は高校2年の時だ。見里が何気なく書いた机の落書きを、クラスメートたちが目に留め、「すごいうまいじゃん。絵を描く仕事をすればいいよ」と絶賛したのだ。
「それまで将来何になりたいかなんて考えられなかったけれど、言われて初めて『絵を仕事にできるんだ』と気づいた」
同学年の友人からペンタブレットを5000円で譲り受け、イラストを描くことにのめり込んだ。
見里の高校時代のイラスト作品『空と海の螺旋』。
提供:見里朝希
見里へのインタビューの後に、今回この友人にも話を聞いた。見里からよく絵を見せられたという彼は、「見里くんが絵を描くなんて思っていなかったので、『何でこんなにうまく描けるの?天才じゃん!』と衝撃を受けた」と語る。
アニメーションとの出合い
2009年に公開された今津良樹の『アトミックワールド』。
今津良樹のYouTubeチャンネルより
見学に行った武蔵野美術大学のオープンキャンパスで、見里はある卒業生のショートアニメに引き付けられた。今津良樹の『アトミックワールド』だ。今津はその後プロのクリエイターとして、King Gnuやさだまさしのミュージックビデオなど、数多くのアニメーションやイラストを手掛けている。
「それまでは、ただざっくり絵を描く仕事をしたいと思っていましたが、今津さんの作品を見て『そういえば子どもの頃、ピングーやカーレッジくんが好きだったな』と思い出し、アニメを作りたいと思うようになりました」
姉の瑞穂は「美大を目指して準備をし始めたころから、弟はいろんな世界を持つ人なんだ、と周囲が気付き始めた」と回想する。
しかし現役入学はならず、美大予備校で浪人生活を過ごした。高校生まで「ゆるく」生きていた見里にとって浪人時代は、初めて自分を追い込み「一生で一番絵を描いた」時期だったという。
朝予備校へ行き、完成まで3~6時間かかるデッサンと絵の具を使ったデザイン画を2つほど仕上げる。夜は8~9時まで学科の勉強……。
「膨大なデッサンをこなすことで、構図の作り方と色彩構成の力が鍛えられました」
見里は予備校でも、文化祭のような場に出品したアニメーション作品が投票でグランプリを取っており、その後の活動の片りんがうかがえる。受賞を機にアニメ制作への思いも、さらに高まった。
「赤ちゃん」に戻る授業に衝撃
目隠しをして学校中を歩く授業の様子。
武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科公式ホームページよりキャプチャ
1浪の末、見里は今津の出身学科である武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に入学した。「やっと好きな絵を描きまくれる」と思ったのもつかの間、始まった授業に驚いた。学生が2人一組になり、片方が目隠しして腕を引かれて学校中を歩く、線を100枚描くといった内容ばかりだったのだ。
「今にして思えば、視覚に頼らず感触だけだとどんな情報を得られるか、線の一本一本が感情によってどう変わるのか、といったことを学ぶ場だったと思います。でも当時はよく理解できず、早くアニメを作りたいと焦りました」
見里は「こうしてはいられない」とばかりにアニメ制作用のソフトウェアを自腹で購入し、課題が出たらなるべくアニメーション作品を提出するようになった。
この授業を担当していたのが、同大教授の陣内利博(67)だ。陣内は授業の狙いを「予備校などで教わってきたことを、一度すべて壊して『赤ちゃん』に戻ってもらう」ことだと説明する。
学生は美大予備校などで、受験に必要な画力や構図の作り方、色彩構成の力は一通り身に着けている。一方、大学に入るまでは教師の教えに従うだけで、「何をつくりたいのか」を突き詰めて考えてこなかった学生が多い。
「白紙に戻って点と線、面の違いを自分の頭で理解し直すことが授業の大事なポイント。さらに自分が本当に好きなこと、やりたいことを探し出し、作り手として『再生』してもらうのです」(陣内)
ただ陣内から見ると、見里はこの頃からすでに「アニメを作りたい」という意思が明確だったという。
「他の生徒が『自分は何が好きか』と試行錯誤を始めた時、すでに見里君にはアニメーションがあった。赤ちゃんの状態に戻って新しい視点や世界観を獲得し、それを作品に注ぎ込むことで、作り手として飛躍的に成長したのだと思います」
コンプレックスを作品に昇華
見里初の自主制作アニメ『ナチュラルウェーブ』。
Tomoki Misato YouTubeチャンネルより
見里は大学1年の冬、グループ展に出展するため、初の自主制作アニメ『ナチュラルウエーブ』を発表した。
天然パーマのヘアスタイルは彼のトレードマークといっていいが、かつてはコンプレックスの種だった。小学校までストレートだった髪が、思春期に入るとどんどん縮れ始め、「高校時代はついに、全体がくるくるになってしまった」のだという。
それが嫌でヘアアイロンを当てたりスプレーで固めたりと、苦労もした。ナチュラルウエーブはそんな体験を描いた作品だ。家を出る時はまっすぐでも、強風や湿気や熱気で、どんどんウェーブが戻ってしまう髪……。
しかしグループ展で『ナチュラルウエーブ』を見た多くの人が「私も!」「めっちゃ分かる!」と共感してくれた。
撮影:伊藤圭
「見た人から好意的な反応をもらって、初めて天然パーマをポジティブに捉えられるようになり、むしろパーマを生かそうとするようになりました」
「言葉にできないメッセージをアニメで伝える」ことは本当にできるんだ、もっとアニメを作りたい。手ごたえをつかんだ見里は、怒涛の勢いで作品を発表し始める。
後に詳しく述べるが、作品が多くの賞を受けたことから映画祭などでの登壇の機会が増え、人前で話すことへの苦手意識も徐々に克服できたという。
陣内は「才能とは生来、備わっているものですか」という質問にこう答えた。
「才能は、自分で『作る』もの。サッカー選手を見てください。フィジカルを作るのも技量を磨くのも、全部自分。誰も代わってやってくれたわけじゃないでしょう」
次回からは「アニメーション監督・見里朝希の作り方」を見ていく。
(敬称略・第3回に続く▼)
(第1回はこちら▼)
(文・有馬知子、写真・伊藤圭)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。