小麦畑のようす。小麦は、パンの材料だ。
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「空気からパンを作る」
100年もの間人類を支えてきた、こう呼ばれる技術があることを知っていますか?
空気の8割を占める窒素を水素と反応させて高い効率でアンモニアを作り出す——「ハーバー・ボッシュ法」と呼ばれる有名な化学反応です。
「アンモニア」と言われると、独特の刺激臭のイメージが強く、あまり良い印象を持っていない人の方が多いかもしれません。しかし、実は作物を育てるための「肥料」を筆頭に、化学繊維や半導体の材料など、アンモニアはさまざまな化学製品の原料として、現代社会にとって欠かせない存在なのです。
ハーバー・ボッシュ法を使って空気中の窒素からアンモニアを作り、それをもとに作られた肥料からパンの原料となる小麦を育てる——。
これが、1910年代に工業的に実用化されたハーバー・ボッシュ法が「空気からパンを作る技術」と言われる由縁です。
実際、人口が急増した20世紀の食糧生産を支えることができたのも、ハーバー・ボッシュ法による功績が大きいとも言われています。
世界人口の推移。1900年頃から人口が急激に増加している。
出典:Our World in Data
この技術は現代でもなお廃れることのない技術として、さまざまな化学工業の現場で利用され続けています。
しかしいま、この技術に革命が起きようとしています。
それを実現しようとしているのが、東京工業大学発ベンチャーのつばめBHBです。
12月のサイエンス思考では、つばめBHBの最高技術責任者(CTO)を務める横山壽治氏に、100年の歴史を覆す大発明の現在地を聞きました。
10年前に生まれた世紀の発明
アンモニアは肥料の原料としてよく知られている。
tawanroong/Shutterstock.com
つばめBHBが誕生するきっかけとなったのは、2012年。
「IGZOディスプレイ」の発明や、鉄が含まれた材料で電気抵抗がゼロになる「超伝導」という状態が実現することを世界で初めて発見したことなど、偉業ともいえる数々の研究成果を積み重ねてきた東京工業大学の細野秀雄栄誉教授(以下、細野教授)らが発表した一つの論文でした。
細野教授らは、ハーバー・ボッシュ法と比較して低温・低圧で高効率にアンモニアを合成できる「エレクトライド」と呼ばれるカルシウムやアルミニウムからなる触媒を発見したのです。
ハーバー・ボッシュ法は、窒素(N2)と水素(H2)から、アンモニア(NH3)を合成する反応です。文字(化学式)にしてみると、非常にシンプルな反応のようにも思えます。
加えて、反応を促進する役割を持つ「触媒」も酸化鉄を主成分としたごくありふれた素材です。
エレクトライドは、カルシウムやアルミニウムによって作られた「カゴ」のような構造の中に豊富な電子がある。この電子を利用することで、強く結合している窒素分子を切断してアンモニアを合成することが可能となる。
図:つばめBHB
ただ、ハーバー・ボッシュ法は唯一の欠点として、化学反応を促進するために200~1000気圧、400〜600度という非常に過酷な環境が必要でした。この過酷な環境を構築するためにエネルギーが必要であることに加えて、原料の水素ガスを化石原料に依存しているため、ハーバー・ボッシュ法は、世界の二酸化炭素排出量のうちの約1%を占めるほど、エネルギーを消費しているとも言われています。
これに対して、細野教授が当時発表した論文では、1気圧・400度程度でもアンモニアを合成できたと報告しています。
アンモニアの製造をより低温・低圧の環境で実現することは、エネルギー消費量を減らし、CO2の排出量を大きく削減することにもつながる、非常に重要な発見でした。
「新しい価値」を生めるか
世界最大規模のアンモニア製造会社、ヤラ社のアンモニア製造プラント。
REUTERS/Lefteris Karagiannopoulos/File Photo
ただ、話は簡単に進みませんでした。
実は、ハーバー・ボッシュ法でアンモニアを製造しているプラントは、超高温・高圧環境を実現するために全体のシステムが設計されています。低温・低圧で使える新しい触媒を既存のプラントに導入すればすぐにうまくいく、という単純な話ではありませんでした。
また、横山CTOも、
「肥料などの化学製品は、大量生産によるコスト削減が重要になります。これまでも年間数十万トン規模のプラントで一極集中することで作られてきました。流通経路もすでに現在のシステムに合ったものが構築されています」
と、すでにハーバー・ボッシュ法を介したサプライチェーンが世界的に普及している中で、新しいシステムを導入することに難しさがあったと指摘します。
実際、産業の現場の声を聞く中でも、ハーバー・ボッシュ法が存在する以上、新しいアンモニア合成の手法を開発する必要はないのではないか、という見方が強かったといいます。
ポテンシャルのある技術である一方で、既存のシステムが大きすぎて導入が難しい……「それなら、新しいプロセスを作って『価値』を生み出そうという話になったんです」と、横山CTOは振り返ります。
そこで考え出されたのが、現在つばめBHBが事業として進めようとしている、「オンサイト型」という発想だったといいます。
「先生方とお話している中で、『水素が余っている工場がある』という話を聞いたんです。そういった工場の中には、アンモニアを(購入して)使っているところもある。アンモニアを必要としている場所で、必要な分だけ製造できる小規模なオンサイト型のアンモニア製造プラントを検討するのはどうだろう、という話が上がってきました」(横山CTO)
つばめBHBの横山壽治CTO。長年細野教授と親交があり、工業現場を知っている人間としてJSTのプログラムのプロジェクトマネージャーとして携わることになった。
撮影:三ツ村崇志
ちょうどその頃、細野教授らの研究は科学技術振興機構(JST)の「アクセル」という研究プロジェクトの第一号課題として採択。このプロジェクトは「社会への実装」を意識した研究プロジェクトです。
横山CTOは、当時三菱ケミカルに所属し触媒について研究していた経験から、プロジェクトマネージャーとしてこのプロジェクトに参画。研究開発を進めていく中で、2017年につばめBHBが誕生することになりました。
走りながら見つけていった需要
2017年、つばめBHBが誕生する際には、出資者としてVCのUMI(ユニバーサル・マテリアルズ・インキュベーター)に加えて、それ以前に2年ほど共同研究をしていた味の素が加わっています。
実は、味の素は、まさにつばめBHBが掲げる「オンサイト型のアンモニア製造プロセス」に価値を感じている企業の一つだといえます。
味の素は、微生物の発酵を利用することで、さまざまな「アミノ酸」を製造しています。この微生物を発酵させるプロセスでは、穀物に含まれるデンプンなどの糖に加えて、アンモニアなどの窒素を含む物質が必要となります。
「アミノ酸はもともと穀物がたくさん穫れる場所で製造されていたようです。ただそういった場所は、かなり奥地にあることが多かった。アンモニアを海外から輸入して港に運んでから、さらに相当のコストをかけて輸送する必要があったわけです。そこで、アンモニア製造を自前で(オンサイト化)できないかとご相談をいただいたんです」(横山CTO)
また、研究を進めていく中で、味の素以外にもオンサイト型で使いたいという需要や、(アンモニアの)輸送の大変さなど、より具体的なニーズが見えてきたといいます。
火力発電所では、NOx(窒素酸化物)という有害物質を除去する「脱硝装置」の触媒として需要がありました。また、電子材料用の高純度アンモニアを作るために、ハーバー・ボッシュ法による数十〜百万トンという大量生産ではなく、小さい規模での需要も見えてきました。
「私たちはアカデミアから出てきた技術として、ユーザーニーズの掘り起こしをしながら一緒に進めています」(横山CTO)
また、横山CTOは「最終的には肥料などの領域にまでこの技術を持ち込んで、世界の飢餓をなくすといったことにも貢献したいと思っています」と、従来ハーバー・ボッシュ法による大量生産で需要をカバーしている分野でも、存在感を発揮していきたいと語ります。
その一環として考えているのが、これまで肥料が十分に行き渡ってこなかった途上国への展開です。
大規模工場から、小規模分散型のアンモニア工場
新たなタンパク源として、大豆などを主原料とした代替肉が増えている。ただ、需要が増えれば、その分だけ作物を栽培する土地が必要になる。
REUTERS/Shannon Stapleton
2050年には、世界人口が100億人を突破するともいわれています。
ここ数年では、人口が増加する分の食料(タンパク質)を賄うために、大豆などから「代替肉」を製造する取り組みが注目を集めています。ただ、それほどの人口に十分な食料を供給するためには、もっと多くの原材料となる作物を育てる必要があります。
作物を育てるには、当然肥料も必要です。
ただ、すでに大規模に農業を展開している地域で、これ以上生産を増やすことは現実的ではありません。
となると、おのずと「今まで農業のシステムが整っていなかった場所」、つまり途上国のような未整備領域に進出していく必要があります。
つばめBHBとしては、そういった場所に小さくても肥料の原料を製造できるようなプラントを分散的に多面展開していく。さらに、原料となる水素を現地の太陽光発電などのグリーンなエネルギーを使って製造すれば、環境コストを下げながら、途上国の農業を活性化させる仕組みを構築できるのではないかと考えています。
これは、「フードセキュリティ」の問題とも大きく関係しています。
肥料の価格は、2022年に急騰している。
画像:農林水産省『肥料をめぐる情勢』令和4年4月
農林水産省によると、2022年は世界的な穀物需要の増加やエネルギー価格の上昇に加え、ロシアによるウクライナ侵略等の影響で、化学肥料の価格が高騰しています。肥料の原料のほとんどを海外輸入に頼っている日本にとってもその影響は甚大です。
「それは全て食料品の高騰の原因にもなってしまう。そのうち肥料の奪い合いになってしまうと最悪です」(横山CTO)
これまでの大規模一極集中型ではなく、分散型のシステムを構築すれば、こういったリスクを回避することができるかもしれません。
また、2020年から加速している「脱炭素」の取り組みでも、つばめBHBは国の重要戦略に関わっています。
日本では、2050年のCO2排出量ネットゼロを目標に、GI基金(グリーンイノベーション基金)と呼ばれる基金を作り、イノベーションの創出を進めています。
その中では、現在日本の主力発電手法である火力発電に部分的にアンモニアを活用したり、取り扱いの難しい水素の活用を広げるために、アンモニアを水素の輸送役(キャリア)にしたりするという動きがあります。
このように、アンモニアの製造は従来「肥料」という分野で非常に注目されてきたものではありますが、特に脱炭素社会を目指す現代において、非常に高いポテンシャルを秘めている技術だといえるのです。
パイロットプラントから商業運用へ
味の素の川崎事業所内に設置している、つばめBHBのパイロットプラント。
画像:つばめBHB
つばめBHBでは現在、味の素の川崎事業所内でアンモニアを年間20トン生産できるパイロットプラントの実証を進めています。このプラントには成形した触媒を数キロ導入しているといいます。
実際にプラントのシステムとして触媒を組み込むには、ガスを通すフィルターのような形状にする必要があります。この時、効率の良い触媒の構造を考えたり、高温・高圧環境で化学反応の効率が落ちたり触媒が破損したりしないかどうか、細かなエンジニアリングの試行錯誤が必要です。
「この12月でパイロットプラントが稼働してから3年になりますが、基本的には触媒は大丈夫だろうという話になっています」(横山CTO)
現状では、350〜400度、50気圧(5メガパスカル)という、ハーバー・ボッシュ法と比べて「低温・低圧」の環境でアンモニアの合成を実現することができているといいます。
「コンプレッサーの圧力が高くなれば高くなるほど電力も消費するし、メンテナンスも難しくなります。そういう意味で、50気圧くらいになると工業的にも大きな問題にならなくなります。お客さんにとっても扱いやすくなります」(横山CTO)
つばめBHBでは、現在、数百トンから数千トン規模の商業プラントの販売を目指し、営業活動を進めているところです。
アンモニアそのものを製造するコストは、製造規模が小さい分、どうしてもハーバー・ボッシュ法に比べると高くなってしまうかもしれません。
「ただ、多少製造コストが高くなっても、(輸送や貯蔵が必要ない)オンサイト型で製造すれば最終的にお客さんの手に届いた際の『トータルコスト』を下げることができる。であれば、ビジネスとして成り立つはずだと思っています」