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英国のクリエイティブ・エージェンシーであるWe Are SocialがまとめたDigital 2022 Global Overview Reportによれば、現在、世界中で合計49.5億人がインターネットを利用しており、これは世界の総人口の62.5%に相当する。一方、アクティブなソーシャルメディア・ユーザーは46.2億人で、これらの人々は〈作者〉としての技術的可能性を有している。
6000年を超える文字文明には、ほぼ3億人の作者がいたとされる。彼らは、自身の思想や物語を世界に伝えることができた稀有な人々だった。長い歴史から見れば瞬間にすぎない今、作者の数は一気に10倍以上になっている。
もちろん、誰もが出版社から本を出せるような作者ではないが、自分の思いや感情を、すぐさま世界に向けて発信できる技術的環境を有している点で、これは十分に歴史的な革新である。インターネットがもたらした革命とは、作者の瞬間的で壮大な解放だったのである。
インターネット上の作者は、個人である。この無数の個人が集うソーシャルメディアは〈公共圏〉と呼べるのか? それともエゴと憤慨、嘘と事実で溢れた社交空間なのか?
本稿では、欧州の成熟した市民社会で〈個人〉がどのように位置づけられてきたかを紐解くことで、公共圏の成立に寄与する個人主義と公共メディアの再生可能性を問うてみたい。
ハーバーマスが思い描いた公共圏の理想形
1962年、ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマス(1929年〜)の『公共圏の構造転換』が出版された。ハーバーマスは、18世紀の啓蒙主義以降、一人ひとりの個性を重視する「市民的公共性」が生まれたと指摘した。
ドイツの哲学者・思想家のユルゲン・ハーバーマス。
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ここで言う市民的公共性は、欧州における「個人主義」の成熟でもあった。個人主義とは、国家や社会といった権威に対して、個人の権利と自由を尊重する立場であり、共同体や国家の根拠を個人の尊厳に求め、その権利と義務を説く理念である。
ハーバーマスによれば、18世紀の市民社会において、言論や出版の自由を得て、自由に討論することで市民の政治的な参加が可能となる「公共圏」が生まれた。当然、市民になる前に、人々は個人である必要があった。欧州における個人とは、ルネサンス、宗教改革、フランス革命を経て、堅牢な封建制から解放される自由の歴史でもあった。
公共圏は、専制政治を行う国家権力による「封建化」に対抗して、家族や職場等の私生活の領域を尊重する仲裁役として機能した。ハーバーマスの目的意識を支えたのは、現代社会における市民的公共性の概念が、政治・経済システムの専有物となっていることへの強い懸念だった。
ハーバーマスは、19世紀後半に現れた大企業や20世紀のマスメディアが、国家を凌駕する高度資本化と大量消費社会を促進し、公共圏が「再封建化」される構造転換があったと主張した。ハーバーマスは、『コミュニケーション的行為の理論』(1981)の中で、20世紀において再封建化が進み、衰退した公共圏の理想的な姿を取り戻す方法を模索する。
彼は、人と人とが相互の了解を追求・達成するコミュニケーション行為によって、人を理解し、普遍的な社会批判の根拠を有し、より民主的な社会的伝達や交流を可能にするアソシエーション(強制力や営利目的とは異なるしくみで発生し展開する場)に期待を寄せたのである。
2016年、スウェーデン政府観光協会は、24時間365日電話の着信をサポートする世界最大級のスイッチボードを構築。クラウドベースのコンタクトセンターにはスウェーデン市民のボランティア・アンバサダーが登録されており、電話がかかってくるたびにボランティアの中からランダムに1人が選ばれるしくみになっている。スウェーデンは250年前に世界で初めて検閲制度を廃止した国であり、このアソシエーション・プロジェクトは、その自由で自立した個人が自国の電話番号にかけてきた世界中の人々を応対しスウェーデンの観光大使を務めるというものだった。
Svenska Turistföreningen youtubeチャンネルより
プライベートでもパブリックでもない「社交」の本質
ゲオルク・ジンメルは1900年代前後に活躍した哲学者・社会学者。著書『貨幣の哲学』もよく知られており、貨幣というメディアを通じたコミュニケーションで成り立つ近代社会を考察した。
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ソーシャルメディア全盛時代の今、私たちは「ソーシャル」という言葉を頻繁に使うようになったが、ソーシャルとはそもそも「社交」を意味する。
社交の本質は、社会学的には、社会を成立させる原点として捉えられてきた。ドイツの社会学者ゲオルク・ジンメル(1858〜1918年)は、個人間の相互作用によって集団や社会が生まれる過程を「社交」として概念化した。
ジンメルによれば、社交は「社会化の遊戯的形式」であり、その本質は具体的な目的も内容も持たない自己目的性であり、社会化以前の「生」の本質的要素、利己的な個人の姿でもある。これが本来、社交メディアたるソーシャルメディアの持つ本質である。
社交とは、人間のあらゆる欲望を楽観的に追い求め、その充足の方法の中に「ルール」を設け、それによって欲望の暴走を抑制する試みである。さまざまな道徳的、倫理的規則が多元化する21世紀において、これが今、ソーシャルメディアを再考する理由になる。
オランダ・アムステルダムの住宅。通りに面した大きな窓にはカーテンも引かれず、夜は街路に光を提供する。「居間(プライベート)」と「屋外(パブリック)」の間に独特の公共空間をつくり出す。
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人間が社交のために発明した空間は多彩である。屋外(パブリック)と寝室(プライベート)の間に設置された客間、娯楽性と儀式性を有する劇場、市民が語らい交流する公園、音楽・ダンスホール、酒場、カフェ、クラブなどである。そこでは、自らの感情を前面に押し出すことなく、社交する人間は社交の礼儀を守りつつ、自ら楽しむことが求められる。
社会資本とは、そもそも社交資本である。現実の公共空間が十分な社交を生み出さなくなったことから、それはネットの中に移行した。Facebook、Twitterは、世界の個々人の「社交」行動に革命を起こし、その主体と責任は「個人」にあるという建前を貫く。
しかし、デジタル経済の「叡智」を見つけた一握りの大企業によって、その社交空間は、この10年でシリコンバレーを中心としたデータ抽出主義という大規模な収益構造により、ユーザーのプライバシーや行動は制御され支配されてきた。
行政サービス化した公共圏
一般的に、プライベート(私的)ではないものがパブリック(公的)である。つまり私的なものを排し、「誰のものでもない皆のもの」が公共圏ということである。ハーバーマスは、公共圏の原型を近代初期のコーヒーサロンに見ていた。当時のコーヒーサロンは、特定の誰かの支配でもなく、皆が平等に文化や政治について語り合う場だった。
カフェは人々がコーヒーをたしなみながら折々のトピックを語らう場。こうした空間をハーバーマスは「公共圏」の原型と考えていた(写真はパリ・サンジェルマン大通りにある1887年創業の老舗、カフェ・ド・フロール)。
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ハーバーマスは、この公共空間こそが近代社会を民主主義的に運営していく源泉になっていたと指摘した。人々の議論から、資本家にもマスメディアにも影響されない「市民の世論」が形成されていく。そしてその「世論」が政治に対して独立した力を発揮し得たのが、近代初期の「市民的公共性」の時代である。理想的な「民主主義」が、初期近代には実現していたとハーバーマスは考えた。
しかし、彼が思い描く公共性は資本主義の増殖が拡がるとともに、その自律性を失っていく。前近代の時代には、市民はほぼ自営業者であったが、資本主義の組織化が加速する中で市民は従業員になった。また、マスメディアが資本と結びつくと、日々のニュースは「私的なもの」になった。ハーバーマスはこのような変化を「システムによる生活世界の植民地化」と呼んだのである。
システムとは、ガバナンスや官僚主義、経済といった社会制度のことであり、生活世界とは、そのようなシステムに回収されない、私たちが生活する場の価値観、信念、夢などである。「システム」と「生活世界」の均衡が崩れ、「システム」が全域的に拡張していくのが現代社会であるとハーバーマスは指摘した。
ハーバーマスは、公共圏を市民社会(生活世界)と政治・経済システムの中間に位置づけた。本来、公共性とは、個人として自立した市民による「公論」の形成を目的としていた。
ところが、国家政策の拡張により、公共性概念そのものが行政サービスの対象となっていった。行政サービス化した公共性を、ハーバーマスは「示威的な公共性」あるいは「統制された公共性」と呼ぶ。こうした公共性をめぐる危機意識から、「市民的公共性」の再建という課題が提起されたのである。
利他へと昇華しない日本の「個人主義」
人々は公益性や利他主義を善とし、利己的な追求よりも利他であれと教えられる。日本で「個人主義」は利己主義と同質化し、個人主義は利己的な個人であり、協調性に欠ける人物として組織や共同体から排除されてしまう傾向が強い。これが日本の個人主義が欧州のそれと決定的に異なる点である。
そもそも個人主義とは利己を貫くことで、利他を実行することである。日本の個人主義には、利己が利他へと昇華する展開が希薄である。この最たる理由として、日本での個人は、国家や集団の長がその構成員や人間関係、財産などを、家産のように扱う前近代的な統治制度に組み込まれてきたからと考えられる。
日本では、国家や企業組織にいたるまで、個人主義を利己主義の一部として扱い、利他主義の多くは、行政サービスに組み込まれてきた。利他主義とは個人ではなく、公僕たる官僚や政治家の建前として吸い上げられた。これにより、本来の個人主義の義務と責任を自覚することが希薄となり、行政サービス化し、統制された公共性に甘んじる文化が生じてきたと考えられる。
欧州の個人主義は、まず利己的な自分(我々より我=多様な自己)を追求し、次に社会的公益に自身の特化した利他性(公益としての我/我々)を実行する。つまり、利他主義とは利己主義の追求が成熟する姿なのである。
日本は「公」と「私」が明確に分かれた二元論であるのに対し、欧州では「公」と「私」の間に「公共」が存在する。
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「公私混同」という言葉がある。これは一般的にやってはいけないこととして理解されている。つまり、私(個人的)が公(社会的)を利用するなど、例えば会社のお金を個人的な利益のために使うことなどである。
しかし、「公」を「私」とする公私混同では、まったく別な意味となる。これは、公(社会・利他)を私(自分・利己)として考え、実行することであり、私(自分)の利害で公(社会)を利用することではない。
日本で公と私は峻別される二元論であるのに対し、欧州では公と私を分断させない「公共」の役割こそが、公私混同のポジティブな意味なのである。
インターネット公共圏の危機
ハーバーマスは、デジタル化によって変化したメディア構造と民主主義の危機を見据え、93歳となった2022年、『公共性の構造転換』の新版を出版した。ハーバーマスが新版を出した理由は何か? デジタル化とインターネットの圧力の下、過去10年の間に、古いルールを破る〈公共圏〉が出現したとハーバーマスは見ていた。
しかし、インターネット公共圏は、ハーバーマスが理想とするものとはかけ離れたものだった。大手日刊紙の発行部数が激減し、公共放送の信頼が揺らぎ、Facebook、Twitter、YouTube、Instagramなどのソーシャルメディアが人々の主な情報源になってきた。そこでは、かつて適用されていた真実の確認というジャーナリズムの倫理や、マスメディアの公約から解放された変幻自在な情報が流通している。
ソーシャルメディア上には大手メディアのニュースから市井の人々の喜怒哀楽まで、あらゆる情報が行き交っている。
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毎日更新される情報と多様な解釈の流れによって、公共メディアの客観性は揺らぎ、曖昧な日常を絶えず確認し、補足する流動的な世界となってきた。それは、断片的な公共圏であり、人々は自己言及的な情報の解釈や意見の相互確認へと引き込まれていったのである。
過去の作者は、出版手段へのアクセスにおいて、読者と分離されていた。それは社会的承認や作者である力量が要求されたからだ。現在の作者には、この閾値がない。個人の瞬間的な感情や怒りさえ、直接世界に表出されるのである。
もちろん、技術的な出版の機会も皆に分配されたが、才能と情熱は等しく人々には分配されない。作者は読者の量と等しく、これまでの聴衆や読者は、メディアとなった。それはこれまでの歴史にはない、全く新たな社会を形成しているのだ。
すべてのユーザーが著者にはなっても編集者にはならない。そのため、情報品質のフィルタリングが不要になる。ハーバーマスの新著の核となるのは、かつての公共圏の決定的な推進力であった伝統的なマスメディアを衰退させた、ソーシャルメディアとそのプラットフォーム的性格を詳細に扱った部分である。
ハーバーマスの考察では、ソーシャルメディアなどのコミュニケーションの形態が、本来の公共圏への自己認識にダメージを与えているという仮定である。世界有数のテック系億万長者が私有するTwitter、メタバースに舵を切ったFacebook(現Meta)の行方や公共放送の衰退を憂慮すれば、これが現在における公共圏の深刻な構造変化であり、民主的な意見・意志形成の熟議過程に大きな影響を与えているのだ。
審議と民主主義のためのルール
今、ソーシャルメディアには、監督と規制が急務となっている。メディア世界の細分化により、コミュニケーションの柱となる「真実性」が崩壊したからだ。人々は、自己顕示、陰謀論、誤った情報、あらゆる種類の事実が広まる、いわゆるフィルターバブルの中でコミュニケーションをとっている。1日あたり8億6700万のツイートが送信されている今、従来の報道機関や公共放送で保証されていた編集上の責務は、もはや適用されていない。
ハーバーマスは「公共のインフラが、意思決定を必要とする問題に市民の注意を惹きつけることができなくなり、競合する大衆の形成を保証できなくなった場合、民主主義システム全体が損なわれる」と指摘する。ハーバーマスは、質的にフィルタリングされた意見、いわゆるコンテンツ・モデレーションを主張している。彼は、公にアクセス可能なすべてのオンライン・テキストの品質について、最低限の基準を要求しているのだ。
ジャーナリズムのデューデリジェンス(注意義務)と同様に、ソーシャルメディア企業は、虚偽の情報を流した責任を負うことになるだろう。そうでなければ、民主主義国家はその最も重要な基本的条件を失う恐れがあるからだ。すなわち、公的発言と私的発言の間の閾値に対する個人の意識、合理的な談話の理想に対する志向、すべての市民が共有し、共に形成できる情報に対する信頼の回復である。
「戦争は武器からは始まらない」
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欧州委員会は2022年9月16日、ジャーナリストと編集の独立性を保護し、報道の自由を維持しながら、最終的に欧州連合の民主主義を守るための主要な法的パッケージとなる「欧州メディア自由法(EMFA)」で、現状の問題に正面から取り組むことを決定した。
この規則案と勧告には、報道の編集上の決定に対する政治的干渉や監視圧力に対する保護措置が含まれている。また、従来の公共放送メディアの独立性と安定した資金調達、メディアの所有権と国営広告の配分の透明性にも重点が置かれている。
「戦争は武器からは始まらない。戦争はプロパガンダ、偽情報、国家統制の報道から始まる」と、ベルギーの国会議員カティア・セガースは指摘している。欧州メディア自由法の柱は、公共メディア運営の資金確保の透明性と偽情報への徹底した対処である。
最近のFacebookやTwitterの大幅な減収は、世界中のユーザーがSNSから離反していく端緒なのかもしれない。瀕死の公共放送はいかに復活できるのか? そして、インターネット公共圏の独立性は、いかに実現できるのか? 今、市民的公共性の未来を拓くための具体策が問われている。
武邑 光裕:メディア美学者。千葉工業大学「変革」センター主席研究員。1980年代よりメディア論を講じ、インターネットの黎明期から現代のソーシャルメディアやAIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。2013年より武邑塾を主宰し、2017年より、Center for the Study of Digital Life(NYC)フェローに就任。『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。近著に『さよなら、インターネット』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)、『プライバシー・パラドックス』(黒鳥社)がある。2015年よりベルリンに移住、2021年に帰国。