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宮崎駿を見出した『アニメージュ』は、ある人物の“思いつき”から生まれた。ジブリの原点を鈴木敏夫が語る

この雑誌がなければ、スタジオジブリは存在しなかったかもしれない──。

歴代の『アニメージュ』の表紙。(C)Studio Ghibli

歴代の『アニメージュ』の表紙。(C)Studio Ghibli

撮影:吉川慧

1970年代、のちにアニメ界の巨匠となる宮崎駿監督と故・高畑勲監督をはじめ、数々のアニメーターをいち早く見出してきた老舗のアニメ雑誌『アニメージュ』(徳間書店)の足跡をたどる「アニメージュとジブリ展(東京会場)」が1月3日、東京・銀座の松屋銀座で始まった。

これに先駆けて昨年末の12月28日に内覧会が開かれ、45年前の創刊に携わった鈴木敏夫プロデューサーも出席。『アニメージュ』の生みの親である当時の上司に「アニメ雑誌を作るから、お前が作って」と仕事を頼まれた思い出をふり返った。

あわせて鈴木さんは、アニメーションの作家性に焦点をあて、アニメ業界のビジネスモデルにも影響を与え、さらにはスタジオジブリの原点となった『アニメージュ』という雑誌の存在意義についても語った。

『アニメージュ』生みの親・尾形英夫という“むちゃくちゃな人”

尾形英夫はスタジオジブリ設立にも尽力。徳間書店の常務取締役も務めた。2007年に胃がんで亡くなった。(C)Studio Ghibli

尾形英夫はスタジオジブリ設立にも尽力。徳間書店の常務取締役も務めた。2007年に胃がんで亡くなった。(C)Studio Ghibli

撮影:吉川慧

徳間書店が刊行する月刊『アニメージュ』は、1978年5月に創刊された日本初の本格的な商業アニメ雑誌。2023年で45周年を迎える。

慶應義塾大学を卒業した鈴木さんが徳間書店に入社したのは1972年。『アニメージュ』創刊の6年前のことだった。

当時、鈴木さんは週刊誌『アサヒ芸能』で事件取材をする週刊誌記者を経験した後、幼年向けテレビヒーロー雑誌『テレビランド』編集部に籍をおいていた。

そんなある日、鈴木さんはとある人物から会社近くの喫茶店「ラッキー」に呼び出された。『アサヒ芸能』企画部長を務めた後、『アニメージュ』の創刊を準備していた尾形英夫だ。

「突然ね、“アニメの雑誌を作る”って言い出したんですよ。それで“お前が作って”って頼まれて。なぜかって言ったらこの人ね、いろいろ思いつくのは得意なんですけど、あまり事務能力がなかった。それで全ての仕事が僕にやってきて作らざるを得なくなった」

「(尾形は)先のことを考えないで、むちゃくちゃ言う人だったんです」(鈴木さん)

鈴木さんの著書によると、尾形は外部のプロダクションと半年かけて『アニメージュ』の創刊準備をしてきたが、ケンカをしてしまったという。この時、校了までわずか2週間だった。

「スタッフはいないし、アニメのアの字もわからない僕は当然のごとく断りましたが、3時間説得され、“敏夫くん、頼む”と頭を下げられると断れなくなってしまった」(鈴木敏夫『天才の思考』より)

この破天荒なアイディアマンだった尾形こそ『アニメージュ』生みの親であり、鈴木さんをアニメの世界にいざなった張本人だった。

アニメブームを牽引した『宇宙戦艦ヤマト』という存在

『アニメージュ』創刊当時、日本のアニメーションはどんな状況だったのか。「アニメージュとジブリ展」では、当時のブームも紹介している。

70年代後期、当時のアニメブームを牽引していた作品は『宇宙戦艦ヤマト』だった。1974〜1975年にテレビ放送された当時は振るわなかったが、1977年夏にテレビ版を再編集した劇場版が劇場で公開されると多くのファンが映画館で長蛇の列を作った。

かつて「漫画映画」と呼ばれ、小さな子供が見るものだとされていたアニメーションに若者たちが夢中になっていた。『アニメージュ』創刊の前年、アニメの世界に変化の波が訪れていた。

ブームを受けて、徳間書店は特集ムック『ロマンアルバム』を発売したところヒット。これが『テレビランド』より読者の年齢層が高いアニメ専門誌『アニメージュ』の創刊へとつながったようだ。

歴代の『アニメージュ』。

歴代の『アニメージュ』。

撮影:吉川慧

1978年5月26日、ついに『アニメージュ』創刊号が発売された。表紙はイラストレーターの田中愛望氏が手がけた「ヤマト」の精密なイラストだった。

誌面では劇場版第2作『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を巻頭カラーで特集し、制作スタッフのインタビューも盛り込むなど手厚く取り上げた。

余談だが『アニメージュ』創刊には尾形の“公私混同”の側面もあったようだ。実は尾形にはアニメ好きの息子がいて『宇宙戦艦ヤマト』のファンだった。

『アニメージュ』が高畑・宮崎と鈴木の縁を結んだ

『風の谷のナウシカ』から宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』のポスター。(C)Studio Ghibli

『風の谷のナウシカ』から宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』のポスター。(C)Studio Ghibli

撮影:吉川慧

『アニメージュ』創刊号は新作だけでなく、過去の名作アニメも取り上げた。1968年公開の『太陽の王子ホルスの大冒険』。10年以上も前の作品を取り上げたのは、鈴木さんが当時アニメファンだった高校生から教わったことがきっかけだったという。

この作品こそ、若き日の高畑監督と宮崎監督が青春を捧げた作品だった。そして、両監督と鈴木さんの縁を結んだもの、それが『アニメージュ』創刊号だった。

鈴木さんは、『太陽の王子ホルスの大冒険』を初めて見たときを著書の中でこう回顧している。

「池袋の文芸坐でやるアニメーション大会で『ホルス』が上映されると知って、つい観に行ってしまった。僕はアニメ雑誌をやるそもそもの心構えとして『売れるものを作ればいいんだろう』と思っていたんです。

ところが、『ホルス』を観て驚いた。北欧神話に装いを変えてはいたが、扱っていた内容がベトナム戦争だったからです。こんなことをやっていたのかと目を見開かされた」(鈴木敏夫『天才の思考』より)

『アニメージュ』はその後も高畑監督と宮崎監督を折に触れて紹介。1982年からは宮崎監督の漫画『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、1984年3月には映画化。1985年には徳間書店が主軸となって「スタジオジブリ」の設立に至る。

映画『風の谷のナウシカ』のキャラクタースケッチ、レイアウト。巨神兵のシーンは、のちに「エヴァンゲリオン」シリーズを生み出す庵野秀明監督が原画を担当した。ある日、若き庵野監督は学生時代に描いた絵を制作会社「トップクラフト」に持参。宮崎監督が抜擢した。(C)Studio Ghibli

映画『風の谷のナウシカ』のキャラクタースケッチ、レイアウト。巨神兵のシーンは、のちに「エヴァンゲリオン」シリーズを生み出す庵野秀明監督が原画を担当した。ある日、若き庵野監督は学生時代に描いた絵を制作会社「トップクラフト」に持参。宮崎監督が抜擢した。(C)Studio Ghibli

撮影:吉川慧

「今日の僕があるのは尾形さんのおかげ」

『アニメージュ』創刊当時と尾形英夫との思い出を語る鈴木敏夫プロデューサー(2022年12月28日)

『アニメージュ』創刊当時と尾形英夫との思い出を語る鈴木敏夫プロデューサー(2022年12月28日)

撮影:吉川慧

こうして歴史を振り返ると、スタジオジブリジブリ設立への道は尾形が作った『アニメージュ』が切り開いたと言えそうだ。

当初はアニメのことは何も知らなかったという鈴木さんだが、「今日の僕があるのはこの人(尾形)のおかげだと思っているんです」と話す。

「人間ってのは不思議なもんですよね。(中略)アニメって最初は『何で俺がそんなものやんなきゃいけないの』とか、そう思ってたことがね、全くマイナスだったのがプラスに転化する。世の中にはそういうことがあるんだなって」

「(尾形は)先のこと考えないで、むちゃくちゃ言う人だったんです。いきなりアニメーションの雑誌を作ろうとかね。ついでに言っちゃうと『風の谷のナウシカを作ろう』と言ったのもこの人なんです」

「本当に変な人で『(映画化は)お金かかるから5分だけにしよう(※)』と言ったのが、未だに心の中に残っている。でも、物事ってのはこうやって始まるんだなと。それが僕の中の一番の大きな思い出です」

(※編注)高く評価された漫画『風の谷のナウシカ』は人気の高まりを受けて、『アニメージュ』編集部内で映画化の動きが始まった。きっかけは「5分くらいのパイロット・フィルムを作れないか」という尾形の提案。これに対し宮崎監督は10分でどうかと逆提案。次第に時間尺は伸び、1カ月後には映画化案になったという。

『機動戦士ガンダム』を応援。“アニメの作り手”たちの思いを伝えた。

(C)Studio Ghibli

(C)Studio Ghibli

撮影:吉川慧

『アニメージュ』を語る上で欠かせない作品がもう一つ挙げられる。富野由悠季監督の作品「機動戦士ガンダム」だ。

富野監督が生み出した独特な世界観や複雑な台詞回し、善悪では単純に割り切れない登場人物の心情は熱烈なファンを生んだ。

しかし「ヤマト」と同じく、1979年のテレビ放送ではあまり振るわず放送期間が短縮される憂き目にあった。それでも『アニメージュ』は「ガンダム」を応援した。

そこで、ガンダムを劇場版で復活させてほしいというファンの思いを喚起しようと1980年3月号で「『映画』構成案第1稿」と題し、特集を企画。富野監督をはじめ、作画監督の安彦良和さん、メカニックデザイナーの大河原邦男さんら、アニメの作り手たちがどんな思いを作品に込めているのかも伝えた。1981年には劇場版3部作の実現に至った。

「ガンプラ」の流行、アニメビジネスに与えた大きな影響

「ガンプラ」のパッケージ。(C)Studio Ghibli

「ガンプラ」のパッケージ。(C)Studio Ghibli

撮影:吉川慧

ガンダムのヒットは、アニメビジネスにも大きな影響を与えた。それが「ガンプラ」の存在だ。展示ではこう紹介している。

「それ以前は、アニメのグッズというのは、低年齢層向けの「おもちゃ」ばっかりだったが、『ガンダム』の人気を受けて発売されたプラモデル(いわゆる「ガンプラ」)は、その造形の良さもあり、子どもたちはもちろん、中高生以上の層にも熱狂的に支持された。

また、ガンプラの流行は、プラモを単に組み立てて飾るだけでなく、作中のシーンを世界観ごと再現する「ジオラマ製作」という新しい楽しみ方を生んだ」(「アニメージュとジブリ展」解説より)

アニメブームが広がるにつれて、プラモデルのクオリティも進化。80年代には「ガンプラ」がブームとなり、ファン層も広がった。『アニメージュ』も雑面上で「ガンプラ」やジオラマ製作の特集を組んだ。

旧ガンダムプラモデルで制作ジオラマ「ガンダム大地に立つ!!」(C)Studio Ghibli

旧ガンダムプラモデルで制作ジオラマ「ガンダム大地に立つ!!」(C)Studio Ghibli

撮影:吉川慧

鈴木さんは「時効だから喋っちゃって良いと思うんですけど……」と前置きした上で、当時バンダイに“ある野心”を持っていた人がいたと紹介し、こう回顧する。

「あるとき『アニメージュ』で24ページのガンプラ大特集をやったことがあるんです。これはすごく覚えている」

「それまでプラモデルっていうのは小学生以下の人しか興味を持たなかった。それを高校生・大学生にも興味を持ってもらいたい。その特集を仕掛けたいから、鈴木さん手伝ってよ、と。言われてやったのが、このガンプラ特集でした」

製造元のバンダイスピリッツによると、ガンプラは1980年に販売がスタート。リアルとSDシリーズを合わせてこれまでに約4500種類を発売。累計出荷数は2020年5月時点で7億個を超える。いまでは年間販売額の半分を海外が占めており、その人気は世界に広がっている。

内覧会のトークショーには鈴木プロデューサーとともに、展覧会のキービジュアルを手掛けた写真家のカンヤダ・プラテンさんも登壇した。

内覧会のトークショーには鈴木プロデューサーとともに、展覧会のキービジュアルを手掛けた写真家のカンヤダ・プラテンさんも登壇した。

撮影:吉川慧

日本のアニメーションにおける作家性に焦点をあて、アニメのビジネスモデルにも影響を与えた『アニメージュ』という雑誌の存在について、鈴木さんはこう語る。

「作っている人に焦点を当てた。アニメーションの絵は、昔だったら『漫画映画』と言われたぐらい。一体誰が作ってるかなんて、誰も興味を持たなかった。そこで僕が何をやろうとしたかというと、作ってる人をフィーチャーする。それをやってみたら結構面白かったんです」

「この考え方は、ある雑誌のモノマネなんです。フランスに『カイエ・デュ・シネマ』という映画雑誌があって、そこに(初代編集長で映画評論家の)アンドレ・バザンという方がいた。映画界で映画を作りたいと思っている若い人にチャンスを与えたんです。企画の発表、シナリオの発表。色々な機会を与えてね。雑誌の中で色々な人が活躍して、それが結果として映画につながっていた」

「一つの映画、アニメーションに『人がいる』ってことです。今回の展示では、そこに焦点を当てている。そんなふうに見ていただくと、今までのアニメーションの見方も違って見えるんじゃないか。そんな気もします」

「アニメージュとジブリ展」は1月3日〜23日まで松屋銀座(東京・中央区)の8階イベントスクエアにて開催中。チケットは日時指定の事前購入制度。詳細はアソビュー公式サイトまで。

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